サンタの歯医者さん
文野麗
サンタの歯医者さん
鏡を見たとき、映っているのが自分だと信じられなかった。前歯は蝋のように白かった。永久歯が生えたときからずっと抱えてきた、前歯に生まれつき茶色い模様があるというコンプレックスが、いともたやすく消えたのだ。初めて入った歯科の先生が、痛みもなく保険適用で綺麗に治してくれた。これまでの人生で最大の解放だった。枷が外れた足の軽さは想像以上だった。赤鼻のトナカイの身体的コンプレックスをコンプレックスでなくしたのはサンタのおじさんだから、私はこの、前歯を治してくれた歯医者さんのことをずっと心の中でサンタのおじさんと呼んでいる。
一年半前の涼しかったあの日、私は眠りに就くまで最高の気分で過ごした。
現在、私は打って変わって最低な気分に陥っている。通っている大学は半年休学ということになってしまった。通わなくなってもう二ヶ月だ。どうしたら立ち直れるか分からない。ベッドに寝転がって、身体の上に持ち上げたスマートフォンを手が痺れるまでいじっては下ろして、また持ち上げていじるのを繰り返している。予定アプリの上で増えていくカレンダーの空欄を厭わしく眺める。もう十月だというのにどこか蒸し暑くて、服の中に薄く汗をかいている。エアコンをつけるかつけまいか考えているが、実際はエアコンをつけるために立ち上がるのを億劫がっているだけだ。閉じたカーテンの隙間から、眩しい日光が差し込んできても、何もする気が起きない。寝返りを打ち、目を苛む外からの光に背を向けた。
きっかけは、私がアルバイトしていた先で、商品である食べ物を粗末にする悪ふざけ動画が投稿され炎上した事件であった。
私は当然関わっていない。大学入学時からずっと働いていて、慣れた職場をすごく気に入っていた。
しかしあるとき新しく入ってきた三人組の、私と同じ大学の男子学生が悪ふざけ動画を投稿したのだ。結果的に動画はインターネット上で大規模に拡散されて炎上し、大騒ぎになった。テレビのニュース番組にまで取り上げられてしまった。本部が重く見たため、チェーン店だったあの店舗は閉店することになってしまった。当事者たちが最終的にどのような制裁を加えられたのかは分からない。
ある日の午後、彼ら以外の従業員はパートとアルバイト含めて全員集められた。狭苦しい事務所にみんなで立って、本部から来た不機嫌な数名の職員に、
「あなた方がきちんと監督していなかったからこんなことになるんですよ」
と手厳しく叱責された。
それ自体はまだ耐えられた。だがやつれた顔の店長に言われて、従業員全員で気まずく店舗の掃除と片付けをしていたとき、同じアルバイト店員の田野くんが
「絞られてんなー」
と言ったので奥を見ると、根崎さんが一人だけ本部の人たちに囲まれているのが見えた。間違いなく叱責されていた。根崎さんは犯人たちの教育係だった。今思えば事情を聞く意味もあったのだろう。照明がついていない暗い厨房の奥、唯一明かりがついた事務所で、スーツを着た大柄な腕組みした男性職員たちが、エプロンとバンダナをしっかり身につけた小柄な根崎さんを、逃がさないと言わんばかりに取り囲んで詰問している、そんな様子が目に焼き付いている。
彼女は私が入ったときも教育係となって仕事を丁寧に教えてくれた。ミスをしたときは文句を言わず助けてくれたし、普段から気遣ってフォローしてくれていた。
店長が小声で「見なくていい、見なくていい」と言って、肩を軽く押すようにして私と田野くんを反対側を向くように促したが、厳しく叱られながら両肩を小さく丸めて頭を下げている根崎さんの姿に胸が締め付けられるのを感じた。自分が怒られたことよりショックだった。
その胸の締め付けられる感覚がいつまでも消えず、何をしても追いかけてくるように蘇ってきて、あらゆることを楽しめなくなり、ただつらかった。
つらいあまりとうとう大学休学まで至ってしまった。以前は大学に通うために一人暮らししていたが、今は実家に帰ってきている。
実家にいて、つらいけれど暇になった私は、必要もないのに、ただネガティブな気持ちに囚われるままインターネットで昔の同級生の動向を探った。部屋は静かだった。家の外からは時折バイクのエンジン音や子どものはしゃぎ声が聞こえた。何名か、思いついた人たちのことを検索した。薄暗い部屋の中、後ろめたい気持ちを背中に抱えながら目だけ動かして文字を追っていった。すると、あろうことか、Xという同級生が、中国へ留学していた。あるSNSで、Xと仲の良い人物がそのようなことを書いていたので、心がくしゃくしゃになるのを感じながら掘り下げて調べると、本名で行うサービスに、本人が、留学する旨と現地での楽しげな様子を写真つきで投稿していた。よそゆきの服を着て、外国らしいパーティー会場でシャンパンが入ったグラスを片手に笑っているXや、空港でスーツケースの上に座ってポーズを決めているXが映っていた。
陰気で粘着質な嫉妬の感情が私の身体を覆った。どうしてあんな子が私のできない楽しい思いをしているんだ! 私の茶色かった前歯をバカにして、昔私に対して行われたいじめの発端となった彼女が。
私が通っていたのは中高一貫校だった。Xも含め六年間同じメンバーの学校生活を送った。入学後まもなく私は演劇部に入り、Xも同様に入部した。ある日、Xが教室で他の女子に、演劇部を辞めたと話しているのを聞いた。それほど気にも留めなかったが、突然Xはこちらを向いて
「あんたがいてキモいから辞めたんだ」
とこわい笑顔を見せて言ってきた。そしてその瞬間を皮切りに、クラス全体から私へのいじめが始まった。Xは私の歯が茶色いのを「味噌歯」としつこく繰り返し言ってきて、他の生徒も私をいじめるよう巧みに仕向けた。
私は自分の存在価値には欠落があるのだと思うようになり、茶色い前歯が強烈なコンプレックスになった。人前で思い切り笑えなくなった。部活で舞台に立つときも歯に塗る専用のマニキュアをつけて歯が茶色いのを隠した。普段から使いたかったが、消費が激しくて両親に止められた。経済的な理由もあったが、それよりも身体に悪いからというのが主な理由らしかった。歯医者にも行ったが、そこでは治すのに多額の費用が掛かる上、かなり大掛かりな手術をしなければならないと言われて諦めた。サンタのおじさんが、つまり別の歯医者さんがあっさり治してくれるまで、苦悩は続いた。
いじめ自体は先生の指導によって徐々に収まり、一年後のクラス替えで完全になくなったけれど、コンプレックスは消えなかった。
Xはいじめが終息したあともしょっちゅう嫌なことを言ってきた。卒業後はわざわざ連絡アプリの卒業生全員が入ったグループチャットから私のアカウントを探して見つけ、暴言を吐いてきた。
「大学入試に面接なくてよかったねー面接あったらあんたなんか絶対受からなかったよ、見た目大事」
「就職は諦めた方がいいよ。面接ないとこない。前歯が茶色い人、企業は絶対とらない」
「そんな見た目で恥ずかしくない? よく表歩けるね。神経図太い人うらやましいわ」
いちいち相手にせず、ブロックで自衛してよいのだと気づくまで時間が掛かったが、ようやくブロックしてからはSNSを通して言ってきた。Xが嫌がらせに利用していたありとあらゆるアカウントをブロックして、自分のアカウントの引っ越しまで行った。最近ようやく平穏だったと思ったら留学していたなんて。私も本当は英語圏に留学したかったが、経済的事情から諦めたというのに。
やりきれない。私だけ挫折してばかりで、不幸だ。インターネットで見る限り、周りはみんな友だちも知り合いも、恋人とデートしたり、仲間うちで外食したり、旅行に行ったり、幸せで順風満帆な人生を送っているように見える。私だけ、アルバイトはダメになったし大学も休学になってしまった。生まれつき歯が茶色かったのも私だけだ。どうしてこう、うまくいかないんだろう。今は、自分だけ不運であることがコンプレックスになったようだ。
スマートフォンを見てもろくな情報が入ってこないのに、以前より手放せなくなってしまった。一日中ベッドに寝て、スマートフォンをいじることしかできなくて、そんな自分がますます嫌いになっていく。
ある日、私はまた新たな傷を負ってしまった。SNSで、直接繋がりはないがフォロワーのフォロワーであるくらいの大学の知人が嫌な書き込みをしていたのだ。
「休学とかヤバい。親不孝笑笑 もう学校戻んのむずくない?中退すんの(わら)」
状況と関係的に、十中八九私のことだった。傷口に塩を塗られた気分だ。貶す言葉と恐ろしい予言が私の胸を鋭く貫いて、私は逃げるようにその画面を急いで閉じた。身体に傷ができたときと同じように心拍数が上がって呼吸が荒くなった。忘れよう、忘れようと自分に言い聞かせたが、はっきり嫌な記憶として脳に刻み込まれたようだった。いつまであの言葉に苦しまなければならないのか見当もつかない。
あまりにもつらかったので友人に話を聞いてもらいたくなって、中高からずっと仲が良い真帆という友だちに連絡したら、会って話そうということになった。真帆はいつも通り優しくて、すごく安心した。真帆まで冷たくなっていたらどうしようかという、根拠のない不安が頭の隅にあったが、すっかり消えた。
しかしあの言葉は、ずっと胸に突き刺さったまま消えなかった。呼吸するたび身体に痛みを感じた。
ある日、コンビニへ行って買い物をした。売られている食べ物を見たら、連想ゲーム式に炎上のことを思い出して嫌な気持ちになり、レジ待ちの列でつらくなった。
つらい気分のまま店を出ると、駐車場であのサンタのおじさんを、つまり私がそう呼んでいる歯科医の先生を見かけた。車の中を確認して、ドアをロックしていた。
あの人が治してくれたから、あの頃最大の悩みだったコンプレックスは消えたけれど、今はまた別のことで悩んでいる。人間というのは常に苦しみたがるものだ。
そう考えたとき、なんだか引っかかるものがあった。歯が茶色かったという昔のコンプレックスは、今となってはもうコンプレックスではなく過去のものである。つまり、悩みは突然解決することもあるし、悩みでなくなることもあるのだ。ということは現在の、不運から病気のようになり、大学を休学して未来が見えないという状況も、いずれ取り去られるかもしれない。全ては変わる。であれば希望はあるのではないか? ここ最近の悩みなど、心の中に跡形もないという日がきっと訪れるだろう。
少し前向きになれた。サンタのおじさんのお陰だ。
「この間メッセくれたときより元気そうじゃん」
真帆は会うなり笑顔でそう言った。最近会えていなかったが、真帆は少し大人びていた。服装が以前より落ち着いている。最近できたばかりのドーナッツショップで話をすることになっていて、食べる物を買ってから向かい合って席についた。店内には甘い香りが充満している。
何があったのか聞いてくれるというので、まず、炎上事件のことを話した。真帆はガムシロップをアイスコーヒーに入れて、ストローでかき混ぜながら述べた。
「ああ、少し前に炎上してたの、近くだなと思ったら、
「それで、この間言った通り、ショックで休学しちゃって」
「つらかったね。少しずつ回復できるといいけど」
「ありがとう。それで私、昼間講義がなくて暇だから、つい昔の同級生が今どうしているか調べちゃって……」
嫌われるんじゃないかと抵抗を覚えながら、それでもあえて口にした。
「色々見たけど、Xが留学してるのとか見て、性格悪いこと考えちゃった。なんであんな奴が留学できて、私は大学行けなくなってるんだって、ね。留学は私もしたかったのにできなかったのもあって」
すると、真帆は持っていたドーナッツをトレーに置いて顔を上げ、表情を緩ませ、おかしそうな顔をした。そして思いもよらないことを口にした。
「何、Xなんて、まだ気にしてんの? あんな、
「嫉妬?」
「嫉妬してたじゃんよー」
「え、分からない」
真帆はストローでアイスコーヒーを一口飲んで飲み込んでから、気になることを話し始めた。
「
私は呆気に取られた。
「ほら、部活、演劇部だったよね。部活でXは目立ちたかったのに、自分よりずっと発音がはっきりして、よく通る綺麗な声をもっている子がいたからムカついてすぐやめたんだよ。その嫉妬されたのが、
「初めて知った」
「Xなんて気にしなくていいよ。あの人はただ、
真帆は再び顔をトレーに向けて、ドーナッツを齧り始めた。この話は意外な上にも意外だった。私は、自分ばかり劣っていてバカにされていたと思って、劣等感に苦しんでいたのに、あのときの全てはXの劣等感から始まったことだったなんて、今まで悩んでいたのがバカバカしいと感じた。私は砂糖がまぶされたドーナッツを頬張った。
本題のはずだった大学の知り合いの暴言には、真帆は一緒に怒ってくれた。そんなこと言う人がいるんだとしても、私は
別れ際、真帆は
「最初より元気になったじゃん。よかった。そのまま大学も行けるようになるといいね」
と言ってくれた。自分で感じているより、他の人から見たら気持ちの違いが分かるのかもしれないと思った。
その日以来、私は少しずつだが力を取り戻す方向へ向かえた。スイッチが切り替わった気がした。私は歯が茶色かったという長年のコンプレックスを今度こそ本当に克服した。不運だというコンプレックスも、信憑性のないものになった。
少しして、大学に復帰することになった。また、休学して余計に掛かってしまった費用を両親に返すため、新しくアルバイトをすることにし、求人雑誌を読み始めた。机に向かって求人雑誌の条件欄を見比べる。スマートフォンの電卓機能で時給を計算し、働く場所への行き方と移動時間を確認して、インターネットの口コミも参考にする。候補を絞りながら、気がつけば、最近ずっとできていなかった能動的な活動をしていた。いよいよ本当に回復できた感覚を覚えた。
しばらくして、私が大学生活を取り戻し、新しいアルバイト先に慣れてきた頃、夜中に突然大変なニュースが流れてきた。中国へ留学していた複数の学生が、試験情報入手と成績改竄のためにハッキングを繰り返し、他の学生の評判を下げるためにSNSで不正を行っていたという。テレビに流れてきた、容疑者の一覧にXの名前があった。向こうはコンプレックスを克服できず、囚われたままなのだと知った。
私は思わぬ知らせに呆然とした。せめて自分は腐らず謙虚に賢明に生きなければならないと改めて感じた。
了
サンタの歯医者さん 文野麗 @lei_fumi_zb8
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