王冠事件

金木犀(๑'ᴗ'๑)

第1話



2021年〇月〇日                            後輩

「現状あなたは自分にとって訪れる度に災いを撒き散らす害悪そのものなんです。

 そのような方に自分の時間を割いてまでして何かを教える気はありません。

 あなたが本当に反省しているのであれば何が間違っていたのかをきちんとご自身で理解出来るようになってから来るようにしてください。

 理解できていないのであれば来ないでください。

 でなければあなたが望むと望まざるとに関係なく人がいなくなっていくんです。あなたが認めた人もそうでない人も関係なくで。

 これ理解できますよね現状そうなりつつあるんですから。

 それでもいいんですか。

 本当に本当によろしくお願いします

 お願いしますからもうやめてください」

                              PASS   編集・削除





 


「先輩」


 先ほどの出来事を思い出してため息をついていると、声を掛けられた。


「なんか、めっちゃ眉間にしわがよってますけど、なにかあったんですか」

「……締め切りが近いからとせっついて来られたんだ、泣きそうにもなるさ」


 ラインで話していた執筆仲間が、心配そうにこちらを見て……。


「いやいや~。違うでしょ先輩。ん? なにがあったん? この後輩に相談してみるといいと思います!」


 って見てねえなおい。スマホ越しに興味津々って顔じゃねえか。


「おま、人が珍しく落ち込んでいるときにそれはないんじゃないか」

「だからじゃないですか」


 ふふん、と後輩は小悪魔な顔を向けて笑った。うわこいつ可愛い。あくど可愛い。

 小顔で顔が整っているってだけなのに、ごまかされる。なんてずるい。


「ほらほら~、私に、いっさいがっさい、話してみるとい~んじゃないですかね」


 ちっと舌打ちをし、おれは打ち明けることにした。


「作品に、納得がいかない評点がついていて、ちょっと熱くなった」

「えっと。ああ、また例の投稿サイトの話ですか。先輩すごく気にかけてますもんね」

「で、だな、ちょっとまずい批判の方法だったみたいで、なんか周りを引かせてしまってだな。今すごい叩かれている」

「お~。まじか。どれどれ、教えてくださいよ。その様子見たい~」

 おれは呆れながらも事の次第を話すため、問題になったサイトのURLを送り、読んでもらうことにした。


 すると、


「アハハハハ!! めちゃくちゃ、嫌われてる! 先輩これマジですか? 色んな人から、ぶふっめちゃくちゃ叩かれてる」


 目じりを拭いながら文字通り腹を抱えていた。


「いやいや、ちょい後輩氏。だからおれ今意気消沈中。悲しいの。おーらい?」

「でもだって……。先輩の人柄知らなかったら私だってこうなるかもしれませんけど、知ってるから余計おかしくて……」

「容赦ないですね!」

「しかし……なんですか。特に、この意味ありげな、私と同じ、後輩さん。後輩なんて、偶然ですね。私と一緒じゃないですか」

「それは……なんでこんなハンネかはしらんが、知り合いなんだ」

「知り合い、ですか?」

 

 なにはともあれ、おれは事の経緯を説明することにした。



「彼女と、いや、彼女たちとはこのURLの投稿サイトで出会ったんだよ」

「あれ、ここって先輩。たしか先輩が前、プロになってすぐスランプになった時期に利用してたとき救われた場所だって見せてくれたところじゃないです?」

「そ」


 プロとして、売れるものを書こうと努力するのは当たり前だが、しかしそれは本来自分が目指した作家の姿ではなかった。書きたいものが全然書けていなかった。

 内心忸怩たる想いでいたときに出会ったサイトがここだ。

 泥の中で自由に動き、輝く作品がたくさんあり、感銘したのだ。


「ちなみに、早速自分がもの書きを目指し始めたころに書いたいつか書き直したいとおもっている作品を、投稿してみたよ。あっさりとマイナス食らったけどな」


 感想の義務化がなくなり、今までそこにいた古株の姿はなく、サイトの利用者はほとんどが変わらぬ常連か、なろうからあぶれた迷い人みたいな人が新しくくるくらいだった。

 そんな中に彼女たちはいた。


「あるとき、自称おばあちゃんを名乗る、超ド素人が現れたんだ」

「おばあちゃん」

「そう。最初は誤字脱字ばかりの作品を書いていて、読むことさえ困難だったんだけど、みんなのアドバイスで徐々に修正して、徐々に読める形になっていったんだ。周囲から教わろうとしていたから、投稿するたびに、そこに居合わせた利用者は感想を落とすし、つたない作品であっても徐々に成長していくのがわかって、みんなその人が投稿するのを楽しみにしたし、その人の作品につけられる点数も高くなっていった」


 しかし、下手に高得点をつけることはマナー違反になりえるというのは、常連なら暗黙のルールだった。あまりにも高くなると王冠がつくからだ。

 王冠というのはその当時のサイトの中で最も名誉あるもので、王冠がつくと「殿堂入り」になり本来削除される作品が、サイトの「高得点掲載所」に保存されるという仕様である。

 そしてついに、自称おばあちゃんの作品に王冠がついてしまった。

「それがそのサイトの掲示板で話題になり、大問題になったんだ」

「あー、なるほど。でも馴れ合いなんて、どこにだってあるし自然なことですよね……。そんな簡単に取れちゃうほうが問題だと思います」

「だな。まあ、そのサイトの中では名誉あるものとして保つためにはやはり一定のクオリティじゃないと顔向けできないから、やっぱり古株の人ほど許せないと感じた人も多いんだと思う」

「で、先輩はどうしたんですか?」

「常連の一人として、高得点をつけた彼らを、まああれだ、ここでは王冠事件グループと呼ぼうか。その王冠事件グループを擁護したよ。少しでも彼らのクッションになればな、って。相手もサイトのことを思って真剣に話していたし、多くの人がそれに対する意見を述べてたな。それを受け止めながら『高得点なんてあってもプロになれるわけじゃない。常に考えている人がプロになれるのであって、結局のところどういうサイトであってもプロになる人はなるべくしてなる。感想や批評でプロになるわけじゃない。みたいなこと言った覚えが」

「ひゅー、かっくいい、そういうところ、変わらないんですね人って」


 画面越しに殴る真似をしてくるあざと可愛さどうにかしてくれ。

 沈まれ心臓の鼓動。

 するとどうだろう、ふっと息をつけ、余裕の表情になるじゃありませんか。


「先輩?」


 ひぃ、なんで画面越しなのに、そんなに可憐な声と表情が出せるんだ!


「コホン。そんなことをやっていたら、自然と彼らとつながる機会に恵まれた」


 たしか、ツイッターだ。

 ツイッターで、一度つながって、連鎖的に、そのとき事件になった点数をつけた当事者同士がつながったのだ。

 

「一緒に旅行に行ったりもしたよ。王冠がついた作品の執筆者は、自称おばあちゃんとも会った。おばあちゃんと名乗るわりに、結構若い人だった。おばあちゃんというよりは、おばさん、って感じで。おれのイメージだともっとこう、おばあちゃんだったんだ。あの金さん銀さんみたいな」

「誰ですかその人」

「え、知らないの? 平成を生きた長寿のおばあちゃん双子」

「すいません。知らないです。しかしそう思うと、先輩、おっさんですね」

「……」

 だめだ、これ以上言ったらおれの命に関わるとおれの全神経が訴えている!!


「とにかく、楽しかったんだよ。内輪ながら執筆企画みたいのもやってさ」

「ほうほう」

「この後輩、っていうハンネの子とは特別、交流する機会が多かったんだ」

「へえ、なんでです?」

「いやね、一人だけさ。高得点をつけた利用者のうち仲間外れがいたんだよ。帆っていうやつで、おれは王冠事件グループに帆も誘ったんだけど、彼らと仲間になるのかたくなに断ってさ。なのにおれとはつるんでくれる、まあ変な奴だった。事あるごとにおれの携帯に小説を送ってきたり、ラケンに投稿された作品をコピペしてきて、練習台に使うとか言ってさ。ここはうまい、ここはへたって。口ではラケンなんて屁でもないみたいなかんじだけど、本当は好きなんだなっておれは思ったね」

「うわあ。先輩好きそうですよねそういう。ひねくれた感じの、でも実は良い人っていうのかな? そういう人好きそうですよね」

「あぁ大好きだ。良い人っていうか、すげえ優しいやつなんだよ。そいつとの出会いも印象的でな……と。こんなこと語ってたらきりがないな」


 あぶないあぶない。おれに帆の良さを語らせると小一時間は語れるからな。



「とにかく、おれが誘って『後輩』も参加することになった」

「え、なんでです。先輩あやしいですねそれ」


 後輩に突如目をすっと細め、にらまれた。


「もしかして、ですけどぉ。自分? アプローチしたん? うん? 好きだったんです?」

「ほれほれ、お姉さんに言ってみなさいな」と途端後輩面をやめた。

「ま、まあ。そこはかとなく? 好きだったかもしれないっていうか。なんていうか」

「うわあ……先輩も。そっか青春してたんですね」

「いや青春って年じゃないからなすでにそんとき」

「はいはい」

「その生暖かな目やめてくれます!!!」

「で、ん? 先輩、告白とか、したんですか?」

「……い、いやまあね。察してくださいよ」

「フラれたんだ!! そうでしょ! フラれた!」

「やめろ! その容赦なさはおれにきく!!」

「はあ! そうですよね! いやいやうふふそうか、そうですよねいや先輩なんて全然だめですもん。ま、私は、良いと思いますけど」

「は?」

「うっそです~あはは本気にしました今の?」

「く、……と、とにかくだな! 毎日のように、帆は自身の創作論をおれたちのところに、メールで送りつけてきて、それをああでもないこうでもないと会話する。ときどき、王冠事件グループの中で行われる企画とかのDMをするそんな日常がしばらく続いたんだけど」





 きっかけは、王冠事件グループの企画で集まった作品を公開するため使っていたなろうの共有アカウントが削除されたときだ。


「それがきっかけだったと思う。これまで主導してくれた人と交代してな。おれが企画の監督として『アニメワンクール十二話構成風小説長編』を完成させることを目標にしたんだ」

「え?」

 画面越しの後輩が初めて素の表情で驚いていた。

「十二話構成風って、あれ? 起承転結遊びでつくるやつ? 起承転結を別の人が順番に書いたプロットを一人の人がまとめるあれ? へえ~なるほどね。そういうこと」

 合点がいったと、頷きながら、なおも「へえ、なるほどね、そういう経緯で。へえ」と後輩は少々興奮気味である。ま、初めて言ったしな。そういう反応にもなるか。

「おれが監督としてやるにあたり、おれ結構はりきっちゃってさ。ちゃんとした目標を据えた。書籍化を狙えるような交換小説を作ろうと思ったんだよ」

「先輩……なるほどね。それ、すごい重いわ~。みんな楽しければそれでいいのに、そんな目標にしちゃったの? 重いわ~、そういえば、今回のこともそれがネックでしたもんね、先輩の本気さにみんなドン引きしてあれ? なんです隕石落とされたんですっけ」

「うん落とされちゃったの。って違う、待って! ちょっとそこ。結論焦らないで! 最初はこれでも、うまくいってたんだって!」

「先輩。もうそんな目標を据えた時点で、普通はアウトだよ? アウトなのにね~ふふっ」

 画面越しの後輩はニヤニヤと実に楽しそうである。

「帆との遊びでやってた起承転結遊びを参考にして完成させようと思っていたんだよ。肝は、どうまとめるか。なので、試しに何話か起承転結遊びをして、王冠事件グループ各持つ作品をまとめる力を見てみることにしたんだよね」

「……はーん。だと、ネックになる人がでてきますよね」

「そう。王冠事件グループを結成するきっかけになった人物。自称おばあちゃんこと、おばさんだ。……ということで、そのことを相談しようと、グループの中で一番の実力者にDMを送ろうと思ったんだ」

「一番の実力者って先輩。プロなのに、ちょっと誇りなさすぎじゃないです?」

「その人はな、すごいんだ。電撃大賞寸前まで行ってる人でな! プロだからってその人より実力あると思ってんじゃないよ! 正直、おれ、勝てる要素なんてなかったんだよ。頭も良いしな。おれ、馬鹿だし」

「うん……しょうがないよね先輩。先輩顔も悪いから安心してね」

「……後輩、褒めて! そこは褒めて!!」

「ちなみに先輩ってその中だと実力どれくらいなんですか?」

「……中堅クラスだったが、なんだ後輩やんのか。十人くらいいるなかでその真ん中くらいよりやや下という手堅さだが、なんだ文句あるのか後輩」

「あ、いえ。察しましたよ先輩。なるほどね。だから、いろいろと隠してたんでしょうね……」

「うるせえ! 小説は文章力とかできまらないんだ! じゃあなにで決まるかって? 計画力だ!!!!!」

「ま、先輩その計画も、誰かにブン投げてますもんね最近」

「考えてるときもあるぅぅぅぅ! わりとよくアイディアとか構成とか、秀逸に考え付く人に泣きつくけど一応考えたりするときもあるぅぅぅぅぅ!」

 

 キッ、とプロ的意識が相手には舐められてはいけないと働いて、スマホの後輩を睨みつける。

 後輩はクスクスと口元に手をあてて笑っていた。

 くっ、小悪魔には、勝てなかったよぉ。小悪魔可愛いよ。


「……で? 先輩、どうなったんです? 相談は」

「ん。そうだな。おれは細心の注意を払い、言葉を気をつけ。今回はしばらくの間、自称おばあさんのおばさんにはまとめを外れてもらおうと思うと、送ったんだ」

「それで、それで。その実力者はなんと」

「それがな。おれはな、後輩。後輩も知っているとは思うが、おっちょこちょいだ」

「ですね。いつも文章を書けば誤字とか脱字とかのオンパレードですよね」

「そしておれはその時も、知らず知らずのうちに発動していたんだ。送ってしまっていたんだ……一番の実力者ではなく、王冠事件グループ全員が見るDMに、な」

「……え?? それって、まずくないですか」

「まずいと思った。穴があったら入りたかった。だが入れなかったからなんとか証拠隠滅をおれは図った! しかし、削除しても、送ったDMは消せないし、過去は消せない! なんてだよ! 嘘だろそんなのありか! ちきしょう、死にてえ! いいじゃん! 少しくらい過去に戻ってもいいじゃん! とおれはのたうち回ることになったんだ……」

「最悪の初手じゃないですか……ほんと間が悪いですよね先輩って。この前も打合せのときトイレに行こうと私が思ってたら普段はそんなこと気にもしないのに『どこ行くんだ? 待てドリンクバーだな。そうなんだなよし行ってきてやる。いいっていいっておまえはそこに座っ』――トイレだから! って後輩に言わせるまでやり続けたくらいには間が悪いですもんね」

「えっとぉ、雀の声がするなぁ」

 後輩の声色が心なしか重低音である。気まずくなったおれはソローと目を逸らし、神妙な顔で窓の外を見る。特になにもない平和な日差しが部屋に向かって降り注いでいた。ってか普通に昼だからか、雀一羽飛んでねえ……。

 そこからの顛末はあっけないくらいに進んだ。

 おれが送り先を間違えたことを知った、頼れる実力者ナンバーワンは、迅速に事態の収拾をはかり、自称おばあちゃんのおばさんに謝るように伝えてきた。だけじゃなく、おれが抱いていた思惑を察していたと見え「やるならどっちか。真剣にやるか、楽しむかだよ。おれはそんな堅苦しくなくみんなで楽しめばいいと思っているけど」という方向に話を進めてしまったのだ。

 まとめはみんなで順番にやり、起承転結ではなく、王冠事件グループ各自が考えたプロット、原案を長編にするという運びになった。

 おれは、引け目を感じていたし、そんな流れの中、頼れる実力者ナンバーワンの影響力に逆らってみんなに説明して「書籍化を目指そうぜ」と説得する気力をなくしてしまっていた。

「そうですか。でも、あれ。先輩それなら、先輩が我慢すれば平和なまま終われたんじゃ」

「そうなんだよ。だけど、そこでおれは、意地になってしまった。みんなもうちょっとおれの意図を組んでくれてもいいじゃないか、と。もう少し話を聞いてくれれば、おれだって、考えがあったのに、と。ちゃんと起承転結遊びを繰り返すことで、自称ばあちゃんのおばさんも実力が上がると思っていたんだ」

「先輩子供~」

「それだけ悔しかったんだよ、仕方な……なくはないな。おれが悪いな。でも、おれは納得がいかなかった。じゃあ、なんのために監督になったんだ、と思った。実質実力者ナンバーワンが仕切るなら監督という肩書をしょわせる必要ないじゃないか。おれはみんなで楽しみつつ、遊びつつ、真剣に書籍化を目指せるような計画を組んでいたのに、と。ちゃんと考えていたのに、と。だから……」。

 それは最初、小さなほころびだった。

 でもそのほころびはおれのなかでどんどん大きくなり、耐えきれない想いになっていった。

「ときにはおれがまとめの番、何度も改稿し、結果書いたものが原案とは違うものにしてみたりもした。これは事前に原案者には言っていた。積極的に設定のところ考えていきたいってのは」

 しかしそんな意見もそうそうに打ち切られ、多数決によって原案通り書くように命じられてしまったのだ。

「別に、それはいいんだ。言われれば、やるよ。でも、もうちょっと話を聞いてほしかった。そんな機械的なレスポンスではなく、もうちょっと耳を傾けてほしかったんだ。三日とか二日単位とかそういう形じゃなく、気持ちがほしかったんだなおれは」

「でも先輩それはやっぱめんどくさいですよ……」

「そうなんだろうな……」

 それなのに、おれはそのとき、その対応を、おままごとの中の出来事のようにさえ感じた。

 監督というお飾りの役目を与えられて。乗っ取られたようにも感じた。

「だから……」

 もちろん、実際はそんなことはない。

 ちゃんと監督として敬意をもってくれていただろう。

 なのに、おれはあえて、そのままで行こうと決めていた。


 馴れ合いで紡がれた絆が本物になるかかどうかを試すため、どんな話であれ、「おれはこれを書籍化までもっていくつもりだ、みんなはどうする? 今のままでもいいのか?」と。


 でも。


「そんなの、うまく行くはずないよな」

「はいはい。で、結局」

「みんなには拒否されて追放されたってわけ」




 すべてを語り終えて、息をつく。

「しょうもない。ほんと、自分の自業自得なんだ」

「ですね。……でもいいじゃないですか。そういうこともあるってだけですよ先輩」

 だって、とそのときピーンポーンとチャイムが鳴った。スマホからも聞こえる。

「まさか……ちょっと待って」

「先輩、はやくはやく」

 慌てて立ち上がり、目立つ台所の汚れ(靴下が! 洗濯ばさみが! なにかの切れ端が!)を一瞬で掃除し、ファブリーズをかける。そして、コホンと息を整え、玄関の扉を開けた。なんだろ。男子特有のほら。好きな女子に会う前の高揚感というのだろうか。あれだ。とにかく、準備が必要なんだいろいろな。

 扉を開けると、髪をサイドアップにした後輩がラノベ本をプルンとはじけた果実を思わせる胸の上に乗せて掲げていた。こいつ……ほんとあざといな。

「先輩? いや先輩どこ見てるんですか普通にセクハラ案件で刑務所に行ってもらいますよ? 違います。これですよ、これ。これを、先輩に見せたかったんじゃないですか!」

「はっ」

 慌ててプクリと開いた鼻の穴を閉じ、改めて後輩が見せたがっている本の表紙を見る。

『スキル:下剋上の能力で魔王を倒せるおれはスライムを倒せない』

「私たちの、本ですよ」

「……ああ」

 後輩は、一歩前に足を踏み出し、おれの耳に口を近づけささやいた。

 ドクンと高鳴る鼓動が痛い。

 なんだ、なんだこれ。

 近い。近いぞ。いい匂いする。めっちゃする。

「ねえ。先輩覚えてます? 二年前、同じように別のサイトで、先輩は酷評された私の友達を助けてくれましたね。それがきっかけで、小説を私も書くようになって……。そして、私たちに先輩はやはり突然言ったんですよ。『簡単に書籍化目指せる方法あるんだけど、試してみないか』って。私はそのとき信じませんでした。そんなこと無理だって。でも、本当でした」

「……本当は、全然。全然自信なんてなかったんだよ。でもさ。信じてくれた人がいるから。頑張ろうって思えたんだ」

「はい。嬉しいです、信じられて。とっても。ところで」

「へ」

 耳たぶに、後輩の唇が押し当てられた。そして、ゆっくりと、静かな声で。

 しかし確かな熱を帯びた言葉で。

「本を出せたら、私、何をしてあげるって言いましたっけ」

「あ」

「ふふ、私ね。さっき。先輩のあんな悲しい顔見て、とても心配で、いても経ってもいられなかったんです。なんか、こう胸がもう、わかります。この気持ち」

 ドンと後輩はおれの胸を押し、玄関の扉を後ろ手に閉めた。

 なんだこれ。なにがおこっている。

 いやいや。え、まさか。そんな。


 た、たしかに。

 冗談で、「キスしてあげます」とか言ってた気がするけど。


 そんなねえ。

 まさか、ねえ。


「先輩、ドンマイです。落ち込まないで。ね、今なろうで追放モノがはやってますけど、つまりみんな経験していることでもあるんでしょうねきっと。なので、ぜんぜん大丈夫です。しっかりと生きて、見返しましょ、ね。ん」


 口内に後輩の舌が入ってきた。

 なぜか後輩の手が、おれの腹をなぞり、トレーナーを脱がそうとしてくる。


 あ、これ、そういうこと?

 不肖、生まれたころから今までチェリーボーイの私、ついに、大人になります。

 

 頭の中のもやもやはすぐに快感に押し流されて――。



 

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王冠事件 金木犀(๑'ᴗ'๑) @amaotohanabira

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