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姑獲鳥の夏(上)

人に勧められて読んでいる。

二十ヶ月も子供を身ごもった女性がいるという噂ーーを聞きつけた主人公関口が、京極堂(中禅寺秋彦というのが本名。京極堂は細君の実家の京都の菓子司の屋号。それを古本屋を改行するときに店名にしたものをとって呼称している)にどう思うと持ちかける冒頭から始まる。

このくだりが長い。上の半分くらいをこれに費やしている。
京極夏彦の処女作だというが、なかなかに興味深かったのは『ホラー』にあぐらをかくことなく、なぜ幽霊が存在するのかというリアリティを懇切丁寧に語ることで、読者に「そういう世界があるかもしれない」という納得感を重視しているように見えることだ。

普通は物語を進展させようとしてしまうもの。

だが京極夏彦は焦らない。なぜか。

まあ単に作者が設定厨だからだが。きっと読めばこの世界観に引き込まれると確信して描いているからではないか。


オーバーロードとかもそうだが、設定というのは得てして障害になるが、ちゃんと作り込み物語を進展させれば協力な武器にもなるのだろう。

障害は、転じれば武器になる。
——必要なのは書き抜く勇気。
描く世界観を信じぬき細部まで描くことに注力すること。

そう感じた。


下記に作中で印象に残った描写を残しておく。



 おかしな気分だった。私は今日の会話の内容を思い出す。順序立てて思い出そうとするのだがどうも曖昧だ。私の今体験している世界が、現実なのか仮想現実なのか、私には判らないという話が最初だったか。記録のにこった記録の過去の現実は相対的なものでしかない、という話だったか。
 いや、そんな結論だっただろうか?
 量子力学という学問があるそうだ。
 見ていないところでは、世界の様相は果たしてどうなっているのか解らないらしい。
 ならば、この塀の中はどうだ。何も無いのではないか。いや、この道の先はどうだ。
 私は急に足許の地面が柔らかくなったような錯覚を覚えた。
 足が縺れる。足許の空気がねばねばとして地面との境が能く解らない。
 そう、暗いので足許が能く見えないのだ。
——見えないのだからどうなっているのか判らないのだ。
——どうなっていてもおかしくないのだ。
  私の背後の暗闇に、下半身を血に染めたうぶめがたっていたって——。
  おかしいということはないのだ。

  立っているのではないか?

  その瞬間、全身の皮膚がぞくぞくと粟立った。
  振り向いてみれば済む。何も無いと、誰もいないと確認すれば良い。しかし、
 ——観測した時点で性質が決定するのだ。
 京極堂の言葉が断片的に蘇る。
 それなら今はどうだ。
 観測していないのだからいるかもしれないではないか。
 ——観測をするまで世界は確率的にしか認識できないのだ。
 だとすればうぶめがいる確率もまだゼロではない。
 私は足早にあんる。
 急ごうとすればする程足が縺れる。
——君を取り囲む凡ての世界が幽霊のようにまやかしである可能性はそうでない可能性と全く同じになるんだ。
 さっきからいったいどれだけ坂道を下ったのだろう。風景は些細とも変わらないじゃないか。この塀はどこまで続いているのだ。この塀の中には何があるというのだ。私が今見ている世界はまやかしなのだ。
 汗が出る。喉が渇いた。
 そんな世界が本当ならどんな不思議が起こっても不思議ではない。
——この世には不思議な事など何もないのだよ、関口君。
 そうか、そういう意味だったのか。
 私の後ろにはたぶん困った顔をしたうぶめがいるのだろう。
 そしてうぶめの抱いている赤ん坊の顔は、
 藤牧さん——。
 私は坂野たぶん七分目辺りで、強い眩暈を覚えた。

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