終幕
神話
街は見渡す限りの廃墟であった。空は曇天、あらゆる建物は朽ち果て、ところどころに草木が生い茂る。行き交う人々など存在しない。ただ二人を除いては。
道路のど真ん中で、若い女が一糸纏わぬ姿で横たわっている。女は目を覚ます。上体を起こすと、目の前に一人の男が立っていた。それは女の知っている人物だ。女は声をかけた。
「神様?」
男は二十代後半くらい、黒いコートと黒のチノパンツを身に纏っている。
「無事に目覚めたようだな……春香」
春香と呼ばれた女は周囲を見回す。荒廃した街並みの中には菱形の塔や逆円錐の建物など、見たことのない建造物もある。
「ここはどこ? 何があったの、これ……」
困惑していると、突然冷たい風が春香の体に吹いてきた。
「寒っ……」
「とりあえず、これでも着てろ」
神様と呼ばれた男はコートを脱ぎ、春香に向かって雑に投げた。
「あっ、ありがとう……」
春香は細い腕をコートの袖に通し、前のボタンを留め、立ち上がった。裸を見られていたのに不思議と恥ずかしさは感じなかった。
「ここ、もしかして天国?」
死後の世界である天国は不安や苦しみのない安らかな場所であると佑梨から聞いたが、とてもそんな風には見えない。むしろ不安と苦しみしかないような光景だ。
「順を追って説明しよう。まずお前は、撃たれそうになった佑梨のことを庇って死んだ」
「うん、それは思い出せる……」
「それが、今から五千年前のことだ」
「ご、五千年前!?」
「ああ。お前にとっては一晩しか経っていないように感じるかもしれんが」
「それで、佑梨はどうなったの!?」
「佑梨はお前が死んだあと……俺のゲームをクリアして自分の世界へ帰っていった」
「そっか。良かった……」
「お前を撃った右京は死んだ」
「うん……」
右京はなぜ死んだのか、春香はそれ以上訊こうとしなかった。あのときの状況を考えれば察しはついてしまう。
神様は話を続けた。
「当時の俺には、人一人だけ死紙から生き返らせられる力があった。俺はその力で宮代佳代を復活させ、佑梨を元の世界に帰した。それから死紙戻しの力が回復し、お前を生き返らせるまでに五千年かかった」
「そういうこと……だったんだ」
宮代佳代と春香、どちらを生き返らせるか佑梨に選択させたことは、春香には伏せた。よく考えれば春香を生き返らせるという提案をできたことには気付けるかもしれないが、春香はいきなりそこまでは考えられていないようだ。
「なんていうか、神様って本当に神様だったんだね。てっきり嘘だと思ってたよ」
「何度もそう言っているだろう」
「ふふっ」
春香はようやく微かに笑うことができた。
「ところで、この街はどうしてこんなに荒れ果てているの? まさか地震? 街の人はどこにいるの?」
「ああ。人類ならもう滅亡したぞ」
「えっ……」
世界の歴史で最も重大な出来事を、神様は何でもないことのように言ってのけた。
「どうして!?」
「資源の深刻な枯渇が発端となり、戦争が次々に起こった。手段は銃や爆弾が主流だったのが、やがて精神異常を引き起こさせる攻撃に変わっていった」
神様は淡々と説明を始める。
「せ、精神異常って……?」
「人間を狂暴化させる人工ウイルスだ。ただ本人が死ぬだけのウイルスよりタチが悪く、感染力も強い。戦争を終結させなければと思ったときには既に手遅れで、各国が攻撃に使ったウイルスは世界中に拡散していた。多くの人類が暴徒と化し、核兵器も平気で使われた。死紙に綴られる言葉も支離滅裂で、俺が観測する意味もなくなった。想定外だったよ……人類があんなウイルスを発明してしまうくらいに進化してしまったのは」
春香は呆然とした。語られていることがとても現実のものとは思えない。出来の悪い物語であってほしいと心から願ってしまう。
しかし神様は、春香の様子を気にも留めずに語り続ける。
「長い年月を経て、人間社会で暮らしていた者は死滅した。自然界でひっそりと生きる部族はウイルスの脅威を免れていたが、環境破壊による異常気象……極端な気温の変化や、頻発する災害によって子孫が少しずつ減り、やがて全滅した」
「じゃあ、地球はもう住めないの!?」
「安心しろ、人類が全滅したあと異常気象も治まった。まるで役目を果たし終えたかのようにな。ウイルスも死体と共に消えた」
「そうなんだ……」
「少し歩こうか。ついて来い」
神様は春香の返事を待たずに歩き出した。春香も慌ててあとに続く。
車が走らない道路を二人で静かに歩いていく。すると、いくつかの紙切れのようなものが風に飛ばされ、横を通り過ぎていった。
「あれ、まさか死紙!?」
「そうだ」
街中をよく見てみると、あちこちに死紙が落ちていた。絶望的で薄気味悪い光景に、春香は青ざめ息苦しくなった。
十分ほど歩いたところで市街地を抜け、見知らぬ浜辺に出た。ここは海沿いにある街だったようだ。眼前に広がる海と曇り空はこれまでに見てきたのと同じような景色だが、世界が終わったあとだとどこか物悲しい。なのに空気は綺麗に澄んでいる。地球上から人類という不純物が取り除かれたからだろうか。
海に到着するまでに無数の死紙を目にした。それだけで神様の話は本当なのだと実感させられる。春香は目の前が真っ暗になり、砂浜の上に力なく座り込んだ。
「私、佑梨に酷いこと言っちゃった。もう終わっちゃった世界のことなんて忘れようだなんて。佑梨がこんな気持ちだったなんてことも知らずに……」
神様も春香の隣に腰を下ろし、胡坐をかいた。
「最後の人類であるお前が死んだら、俺も死んでこの世界を終わらせようと思う。かつて佑梨の世界の宮代佳代がそうしたように。また五千年待って誰かを復活させる気力はもうない」
「そうなんだ……」
人類を創り出す前は、独りで何万年、何億年を過ごしても苦にはならなかった。だが人間と交流し、触れ合う幸福を知ってしまった神様には、五千年の孤独すら耐え難いものとなってしまった。
「でも俺は、何があってもお前の死紙だけは手放さなかったんだ。五千年の間、ずっと」
俯いていた春香は顔を上げ、神様を真剣な眼差しで見つめた。
「私、今まで誰にも選ばれない人生だったけど、最後に全人類の中から神様に選ばれたってことだよね?」
神様は視線を逸らし、海のある方角に目をやる。そして静かに語り続けた。
「佑梨はこの世界から消える直前、春香も生き返らせてくれと俺に懇願した。一人しか生き返らせないという条件だったにもかかわらずだ。宮代佳代を生き返らせたのはゲームの報酬だが、わざわざお前も生き返らせたのは……友達として頼みを聞いてやったからだ」
「何それ、照れ隠しなの?」
「だから佑梨の頼みだ。礼を言っとけ。あちらの世界でもとっくに死んでいるだろうが」
「そっか。ありがとね、佑梨……」
春香も海を眺めた。水平線の上に広がる空は、灰色の雲で覆われている。
「まあとにかく、お前が死んだら人類はまた全滅だ。お前は何も気にせず、最期まで自由に過ごすといい。望むなら世界の秘密について語ってやってもいい」
「世界の秘密って?」
「どうやってこの世界が生まれたのか、だ。しかし、一度に全てを話しても理解ができないかもしれない。少しずつ教えてやるから、それまでは生きていろ」
「うーん……別に興味ない」
「そうなのか」
「あっ、そうだ!」
「何だ?」
「一つだけ教えて。神様は人間との間に子供を作ることはできるの?」
「……さあ? どうだかな。大昔にそういう神話を読んだ記憶はある。もちろんそれは人間の創作だけどな」
春香は突然立ち上がった。
「それなら、私たちが
さすがの神様も面食らったようだ。
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「分かってるから言ってるんだよ。佑梨が自分の世界を救ったのだから、今度は私が世界を救う番! ウイルスで滅ぼせるのは人類だけ! 世界そのものが終わるわけじゃない!」
春香は両手を上げ、手のひらを天空にかざした。すると、灰色の雲の隙間から一筋の光が射し込んできた。
「どんなに朽ち果てていても、私はこの美しい世界を愛している! それは、世界そのものである神様を愛するということ! だから……」
天に向かって、ニッと笑いかける。
「人が死んだら手紙になる世界は、私のものだ!」
その言葉を聞いて、神様はほんの少しだけ目を大きくした。五千年前に出会った宮代佳代のことを思い出し、春香の姿に佳代の姿を重ねる。あのとき分からなかった佳代の死紙の意味は、もしかしたら驚くほど単純なことだったのかもしれない。
神様もつられて立ち上がる。じっと春香のことを見ていると、彼女は手を下ろして振り返った。
「そうと決まれば、まずは私たちの当面の家を探すよ。それで、いつかはハナビシソウの花畑が見えるところに住みたい」
「ハナビシソウ? どんな花か知らないが、もう絶滅しているんじゃないのか」
「それでも探すの! 本当は佑梨と一緒に住みたかったんだけど、仕方がないから神様で我慢してあげる」
「神に向かって随分な言い草だな」
春香の言葉はただの照れ隠しだ。自分の大それた発言が今更恥ずかしくなり、神様から顔を背ける。神様はほんのりと紅潮した横顔に向かって言った。
「お前が望むなら、俺は佑梨の姿でいてやることもできる。もちろん声や喋り方も佑梨と同じようにだ」
佑梨に成り代わって生きてくれるということだろうか。思いつきで言っているような雰囲気ではない。
この世界の佑梨の死紙を回収したあと、似たような話を佑梨としたことを思い出した。死んだ人間に成り代わることを拒否した佑梨の気持ちを、春香はようやく理解する。大事なことはいつだって、失ってから気付くのだ。
「いや、いい……」
「佑梨に会いたくはないのか?」
「そりゃあ、私だってすっごく会いたいよ? でもそれは、駄目だよ。佑梨はもういないんだから……」
この先どうなるかなんて分からない。ただ一つ確実なことは、春香が佑梨と会うことはもう二度とないということだ。
海の彼方を眺める。旅立つ前の最後のひととき、もう一度佑梨のことを思い出す。
春香は薄々気付き始めていた。佑梨は春香の死紙と佳代の死紙、どちらを生き返らせるか選ぶことができて、佳代の方を選択した――そういう状況があったのかもしれないということを。
でも春香はそんなこと全く気に病まなかった。佑梨の世界を犠牲にしてまで生きたいとは思わない。
佳代を殺したと疑われたことは悲しいすれ違いだったけれど、春香が死紙になったことで完全に払拭されている。自分の死紙の内容くらい、誰かに訊かなくても分かる。
今はただ、ゲームの条件を無視してまで春香も生き返らせるよう神様に頼んでくれたことに、純粋に感謝していた。
「ありがとう、佑梨。短かったけど、佑梨と過ごした日々はとても楽しかった。私はあなたと出会えて本当に幸せだった」
切なげに微笑み、水平線に向かって語りかける。
「あなたの気持ちは、五千年後の世界にまで届いたよ、残っていたよ……死紙なんかなくたって!」
瞳が潤み、目尻に溜まった雫が微かに煌めく。
「さよなら、佑梨……」
濡れた目元を擦る。お別れの挨拶はもう済んだ。両の頬を叩いて気合いを入れ、後ろを振り返り、元気良く声を上げる。
「さあ、行こう!」
春香は満面の笑みを浮かべる。神様は数秒置いてから、ふっと息を漏らした。
「えっ、今笑った?」
春香は近寄って顔を覗き込む。神様の笑顔……それどころか、表情を変えたところなんて一度も見たことがない。
「別に笑ってない。行くぞ」
神様はそっぽを向き、廃墟の街のある方角へ歩き出す。
「えー、絶対笑ってたよ」
春香も小走りで追いつき、神様の横顔をまじまじと見上げる。
神様は無視して砂浜を進み続ける。
潮風が二人の背中を押すように吹き、黒い髪がふわりと揺れた。
こうして、人類最後の一人となった女の旅が始まった。
隣には、それはそれはぶっきらぼうな、神様がいたとさ。
人が死んだら手紙になる世界で 広瀬翔之介 @Hiroseshonoske
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