神様のもとに届いた手紙

「あの……どちらさま?」


 佑梨の儚い希望はあっさりと打ち砕かれた。分かっていた、というより当たり前のことだ。しかし自分の知っている相手……よりにもよって春香に、自分が誰なのか認識されていないというのは想像以上にきつい。


 佑梨は咄嗟に手紙をポケットに隠して考えた。だがどうしたらいいのか分からなくなり、勢いで頭を下げた。


「ごめんなさいっ!」


「え? え?」


 知らない人物からいきなり謝罪され、困惑する彼女。


「上手く説明できないんだけど、私はあなたにとても酷いことをしてしまったから謝りたくて……」


「え、酷いことって?」


「あの、その……」


 そんなの言えるわけがないし、話したところで信じてもらえるはずがない。何と答えればいいのか分からずに口をつぐんでいると、彼女は思い出したかのように手のひらをポンと打った。


「ああ、私の元カレの彼女ですか? あの人やっぱり浮気してたか。怪しいと思ってたんですよ」


「はは……」


 佑梨は肯定とも否定とも取れる曖昧な笑みを浮かべた。しかし、誤魔化せてなどいないようで、彼女は我が子に問い質す親のような声色で再び訊いた。


「で。ホントのところは、どこで私に酷いことをしたんですか?」


「それは……」


 思わず口ごもる。それを言うのは少しばかりの勇気が必要だ。だが佑梨は意を決し、はっきりとした口調で言った。


「人が死んだら手紙になる世界で」


 この世界に戻ってから初めてその言葉を口にした。声に出してみると、随分と嘘くさく聞こえた。頭のおかしい人だと思われたかもしれない。そんなものが存在するわけないと自嘲してしまいそうになる。でも、そこなのだ。春香が生きていて、佑梨と出会い、共に過ごしたのはそういう世界だったのだ。


 しかし、彼女は予想外の反応をした。


「私が見た夢と同じ……」


 佑梨はまさかと思い、尋ねてみた。


「その夢を見たのはいつ!?」


「ええと……三月頃だったと思います」


 佑梨が浜辺で宮代佳代と出会い、あの世界へ旅立った時期と一致している。とても偶然とは思えない。夢という形で、あの世界の出来事を垣間見たのだろうか。そんなことが有り得るのだろうか。


 彼女にとってはただの夢でしかない。が、そこで佑梨をかばって死んでしまった可能性だってある。そう思うと佑梨はいたたまれなくなった。俯いて、訊かなくてもいいことを無意識のうちに訊いてしまった。


「それは……とても辛い夢だったのではないでしょうか?」


「え?」


 彼女はきょとんとしたあと、弾むような声を上げた。


「ううん、とても楽しかった!」


 佑梨は息を吞み、視線を上げた。彼女は満面の笑みを浮かべて続ける。


「細かいところはよく覚えていないんだけど、そういえばあなたみたいな人と出会って一緒に暮らしたり、夜の森でお喋りしたり、秘密基地みたいな場所を冒険したんですよ。その人と一緒に過ごす時間はとても楽しくて、私はずっと幸せに包まれていました。確か……そういう夢」


 彼女の話を聞いて、佑梨の瞳から一筋の涙が零れた。こんなことで春香の死が報われるとは思っていないが、本当にそう感じてくれていたならどれだけ嬉しいだろうか。


 彼女は突然泣き出す佑梨に驚くこともなく言った。


「なんだかあなたに興味が湧いてきました。ちょっとそこの花畑まで散歩しませんか? あなたの話も聞かせてください」


「あ、はい……」


 二人は花畑に向かって歩きながら、話を始めた。ハナビシソウの花畑は元から自生していたものではなく、この地域の偉い人が半ば道楽で少しずつ作り上げたものらしい。観光名所ではないが、地元の人には親しまれている。


 彼女はこの辺りの出身ではないが、結婚を機に夫の都合で田舎に越して来た。田舎ならせめて景色がいいところにしてほしいと望み、花畑の見える場所に決めたらしい。運命とは不思議なものだ。初めは退屈で肩身も狭くて嫌だったが、田舎も住めば都だと言った。


 佑梨も名乗り、身の上のことを話した。あの世界に行ったことも少しだけ話したが、詳しいことは省いた。彼女のような人と出会ったが、誤解やすれ違いの連鎖があって傷つけてしまったということを伝えた。彼女が佑梨の話を信じているかどうかは分からないが、興味深そうに聞いていた。


 花畑に到着して中に入ったあと、彼女は佑梨に向き直って訊いた。


「それで、あなたはどうやってその世界から帰って来たんですか?」


「それは……」


 記憶を呼び起こす。佑梨は最後に宮代佳代の死紙を神様に手渡した。その手紙を拾って始まった冒険が、手紙を神様に届けることによって終わったのだ。これはそういう物語であった。


 だがしかし、佑梨は思い出した。


 神様のもとへ届けた手紙は、佳代の死紙の他にもう一通あった。春香の死紙だ。佳代を蘇らせ、佑梨が消えたあとはどうなったのだろうか。佑梨が握りしめていた春香の死紙が、桜の花びらのように地面に舞い降りる。それからあの気まぐれな神様が死紙を拾い、五千年後に再び力を取り戻して春香を蘇らせる……そんな可能性もあるのではないか。


 佑梨は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに頭を振った。第一、五千年後の世界で蘇ったところで、一体どうしろと言うんだ。


 でも春香は言っていた。「その夢を叶えるまで私は、どんな世界であっても生き残ってみせる」と。春香が五千年後の世界で生き返り、ハナビシソウの花畑が見える家で暮らすという夢を叶える。果たしてそんなことが有り得るのだろうか。それは限りなく望みの薄いことのように思える。ただ、そうなる可能性はゼロではない。宇宙を漂う砂粒のような希望だけど、微かに煌めいている。


 佑梨はそんなことを考えながら、もう一度この世界の彼女の顔を見た。彼女は間近で見つめられ、照れくさそうに微笑んだ。


 その瞬間だった。


 ここが五千年後の「人が死んだら手紙になる世界」で、彼女と二人で花畑にいるような錯覚に陥った。目の前にいるのがこの世界の彼女じゃなくて、佑梨の愛すべき友人だった春香に見えた。まるで天国にいるようだ。決して有り得ない……いや、あってはならないことなのに。


 またしても佑梨が何も言えずにいると、彼女はやれやれという風に息を漏らした。


「ねぇ。よかったら、私とお友達になりませんか?」


「友達……?」


「またあの夢の続きを見ることができたら、あなたに聞かせてあげますから」


 友達になるのはどうなんだろう。佑梨は迷った。もし彼女と友達になったら、自分の心の中にある春香という存在が、少しずつ彼女に置き換わってしまう気がする。


 似たようなことをあの世界でも考えていた。あの世界の自分が自殺したと分かったとき、成り代わって生きたらどうかと春香に言われた。しかし、あの世界の自分が自死を選択したということが他者にとってなかったことになってしまうから、成り代わろうとはしなかった。


 それと似ている。彼女と友達になり絆を育んでしまったら、春香の死が、そして春香が生きていたということが限りなく希薄になってしまうかもしれない。


「ごめん、友達になることはできないと思う」


「えぇっ、どうして!?」


 佑梨の答えが予想外だったらしく、彼女は驚いた。


「どうしてって言われても……説明できないです」


「一目惚れとかじゃないけど、どうしてもあなたと友達になりたいの。なぜなのかは私も上手く説明できないんだけど」


「えぇ……」


 佑梨は困り果てた。額に手を当て、天を仰ぐ。だが空の果てを眺めていると、一つ妙案を思いついた。


 そうだ。どうするべきか迷うときは、神様のやり方を真似てしまおう――。


「それじゃあ、あなたにクイズを出します」


「クイズ?」


「とても難しい問題です。でも正解することができたら、あなたと友達になろうと思います」


 春香はこの問題に最後まで挑むことはできなかった。けれど最初から鋭い意見を言っていたし、同等の存在である彼女なら解ける可能性も僅かにあるのかもしれない。


「ふーん……。いいですよ、私クイズは結構得意だから」


 彼女も乗り気なようだ。佑梨は彼女の目を真っ直ぐに見据えて言った。


「人はなぜ、手紙になるのでしょうか?」


 あまりにも意味不明な難題に、この世界の春香はぽかんと口を開けている。その顔を見て、佑梨は初めて彼女に対して自然に笑いかけることができた。

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