パラレルワールド

 あの日以来、宮代佳代と出会うことはなかった。今のところ自殺はしていないらしい。テレビの画面を消すように世界が突然終わることもなく、人類はこれまでと同じような日々を歩み続けている。彼女はまたどこかの浜辺でゴミ拾いでもしているのかもしれない。


 佑梨も変わらぬ日常を過ごしていた。平凡で退屈な毎日ではあるが、平凡で退屈であるということがどれだけありがたいことなのかは身をもって理解していた。あんな世界に突然放り込まれてしまったのだから。だが、この世界を救った功績を考慮すれば毎月一億円くらい振り込まれてもいいのに、と苦労が労われないことを不満にも思った。


 パラレルワールドで起こった日々。あれは夢や妄想の類ではないと佑梨は信じている。神様に言われた言葉を時折思い出すことがあった。


『お前の世界では起こりえない不思議な出来事も、それが起こる世界が必ずどこかに実在する』


 ふとした瞬間に、無限に存在する不思議な世界たちのことを思い浮かべた。それは必ずどこかに実在するらしい。しかし今ではもう、脳というプロジェクターを通して存在しない空間に映し出すことしかできない。


 ある日、脳と宇宙の構造は似ているという話をネットで読んだ。もし世界が誰かの脳だとしたら、宇宙の端まで行けば頭蓋骨の内壁にぶつかるのだろうか。


 この世界で宮代佳代と初めて会ったとき、彼女が気になることを言っていたのを思い出した。世界の終わりとは宇宙の外側まで終わることを意味すると。あのときは宇宙の外側が何なのか分からなかった。でも、もし宇宙が脳だと考えれば辻褄が合う。脳が死ねばその外側の体も死ぬことになるのだから。


 あのパラレルワールドで人が死んだら、脳は死紙になってしまう。神様は、あの世界はかつて、言葉しか存在しない世界だったと言っていた。もしかしたらあの世界自体も、最初は誰かの死紙のようなものだったのではないだろうか。何となくそんな風に思えた。一体誰の? そこまでは分からない。



 佑梨を振った元恋人、この世界の西山右京との関わりも完全になくなっていた。お互いに一度も連絡をしたことはない。


 佑梨は思った。


 私は理由さえあれば、自分を振った元カレを撃ち殺すことができてしまうのだ。もちろん、この世界の出来事ではないが。

 彼は今、どこで何をしているのだろうか。この世界では人が死紙になることはない。人体の仕組みだってほとんど解明されているから、彼があんな凶行に及ぶこともない。

 できれば、もう二度と会わないことを祈る。もしその場に銃があって、彼を撃たなければならない理由も揃っていたならば、もう一度引き金を引いてしまうかもしれない。私は結局、その程度の人間だったのだ――。



 そして春香のことだ。佑梨はあちらの世界で死んでしまった彼女のことが忘れられずにいた。もしパラレルワールドであるこの世界にも同じ人物がいるのなら、会ってみたいという気持ちさえある。いたとしても、別人なので佑梨のことは知らないだろう。でも、その顔を一目見られるだけでも構わないと思った。


 一週間ほど迷った末、この世界の春香という存在を探してみることにした。幸いなことに、一緒に生活しているときに本名と生年月日を知る機会があり記憶していた。それらが一致しているものと仮定し、評判のいい興信所に人探しを依頼した。するとモデルのように身なりの整った若い男の探偵が、半月でこの世界の春香の居場所を突き止めてくれた。彼の評判は本物のようだ。


 次の週末、佑梨は探偵に教えてもらった住所へ向かった。この世界の春香は、同県内の田舎町に住んでいるらしい。とは言ってもあちらの世界のような海沿いの町ではなく、別の山間に位置するところだ。


 早起きして電車を乗り継ぎ、最寄り駅で降りると今度はバスだ。本数が少ないので、しばらくの間バス停で待たなければならない。その時間、この世界の春香のことについて考えていた。彼女は既に結婚していて、夫と一軒家に暮らしているらしい。やはり佑梨の知っている春香とは別人なのだと実感させられた。


 彼女の家に近くまで来ると、緩やかな丘の斜面に黄色い花の畑が広がっているのが見えた。佑梨は息を吞み、直感した。あれが春香の言っていたハナビシソウなのだと。どんな花なのか見たことがなかったが、春香は物心つく前にハナビシソウの花畑が見える家で暮らしていて、またそういう家で暮らすのが夢だと語っていた。


 青い空と黄色の花畑のコントラストが美しく、佑梨は心を奪われるような、感慨深いような、不思議な気持ちで景色を眺めた。


 やがて、丘の花畑から少し離れたところに民家が点在する集落が見えてきた。そこが彼女の住所で間違いなさそうだ。


 こっちの世界では夢を叶えていたんだ――。


 胸の奥がじんわりと温かくなる。


 だがそれも束の間。ここにこの世界の春香がいるのだと意識した途端、心臓が高鳴り始めた。


 彼女の家である平屋が見えるところまで行くと、離れた位置で一旦立ち止まり様子を伺った。家の周囲に彼女の姿はない。


 佑梨は家のインターホンを押す気はなかった。できればもう一度春香の顔を見たいと思ってはいるが、家の前まで行って見かけることがなければそれでもいい。だが代わりに、手紙を書いてきた。どんな形でもいいので、春香に一言謝りたいから。もちろんこの世界の春香は別人なので、匿名の古い知人からの謝罪と読み取れるような文面にしてある。迷惑だろうと分かってはいるが、それを郵便受けに入れて帰るつもりだ。別に会えなくてもいいかもしれない。やはり佑梨にとっての春香は、あの春香なのだ。今日は会えなくても、彼女の夢見ていた花畑を見られただけで充分だ。


 そう自分に言い聞かせ、彼女の家の前まで行った。結婚しているので、表札には新しい姓が記されている。


 あとは郵便受けに手紙を入れるだけだ。だが佑梨は手紙を手に持ったまま固まってしまう。


 この手紙を入れたら、区切りがついて春香に関する全てが終わりを迎える。佑梨は再び自分の人生を歩き出す。そうしたら、時の流れと共に段々と薄れていくだけだ。春香との思い出も、パラレルワールドでの日々も。色々な経験と記憶が増えていき、春香の占める割合は減っていく。


 佑梨は思った。


 あの世界では辛いことばかりだった。でも、忘れるのは嫌だ。私は春香に言ったことがある、一生忘れないと。破ってしまった約束もあるけれど、その言葉だけは死ぬまで守りたい。気持ちを整理してすっきりしてしまうくらいなら、喪失感と一緒に引きずりながら生きていきたい――。


 そう思うと、手紙を持つ手を動かすことができなかった。決心がつかず、体がマネキンのように固まっている。佑梨は初めて訪れた家の前で、何もせずに立ち尽くしてしまっていた。


 こうしていても埒が明かない。やっぱり不審な手紙なんか入れずに帰ろうかと思い始めた。


 が、そのときだった。


 背後から足音が聞こえ、人の気配があった。


 まさか――。


 激しくなる鼓動を感じながら、ゆっくりと後ろを振り返る。


「あ……」


 そこには春香がいた。黒いふんわりショートヘアーの、あの世界の彼女と全く同じ顔の、春香がいた。死別して以来、本当は会いたくて会いたくて仕方がなかった、春香がいたのだ。


「あぁ……」


 思わず情けない声が漏れてしまう。春香の方も目を見開いて驚いているようだ。


 手紙を持って立ち尽くす佑梨の背後に、春香が現れる。それは、あの世界の浜辺で二人が初めて出会ったときと同じ状況であった。


 春香の姿があまりにも変わらないので、今目の前にいるのは別人ではなく自分の知っている春香なのではないかと、淡い期待を抱いてしまう。


 佑梨が言葉を失っているので、彼女の方から先に声を発した。

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