あなたは私だから

 やがて光が弱くなったので薄く目を開けてみると、真っ白になった空間に景色が徐々に浮かんできた。広大な海と空と、昇り始めた朝陽。さっきと全く同じ光景にも見えるし、どこか違うようにも見える。


 神様はいなくなっていた。その代わり、浜辺に一人の少女が横たわっていた。宮代佳代だ。傍らには白いビニール袋と金属製トングが落ちている。しかし、どこにも血は付着していない。水色のワンピースも綺麗なままだ。彼女は安らかな表情で瞳を閉じている。


 元の世界に戻ったのだろうか――。


 佑梨は気付く。あれだけ強く握り締めていた春香の死紙が、手の中から消滅していた。手自体にも違和感を覚えよく見てみると、爪が少し短くなっていた。もしやと思い、スマホを取り出す。ずっと充電が切れっぱなしだったのに復活していた。日付もワープしたあの日に戻っている。元の世界に帰って来ただけではなく、時間そのものが巻き戻ったようだ。


 佳代の方は無事なのだろうか。屈んで声をかけてみようとすると、彼女は意識を取り戻し、瞼をゆっくりと開いた。


「大丈夫か?」


「あれ? さっきのお姉さん……?」


「ああ、そうだよ」


「どうして? この世界はもう終わったはずじゃ……」


「それなんだけど……うーん、ごめん。私が元に戻しちゃった」


「どういうこと?」


 佳代は体を起こした。佑梨は彼女の隣に腰を下ろし、胡坐をかく。


「ちょっと話が長くなるけど、いいか?」


「うん」


 佳代は体育座りをして、佑梨の顔を見た。


「じゃあ聞いて。私が不思議な世界に行ったお話を……」


「うん。聞きたい」


 佑梨は、別世界にワープしてからの出来事をかいつまんで話した。そこは人が死んだら手紙になる世界だったということ。春香という女と出会い、神様に死紙を届ける仕事を手伝ったこと。元の世界に帰るために神様のゲームに挑み、その過程で春香が死んで、元カレを殺したこと。春香を生き返らせるか、佳代を生き返らせて元の世界を復活させるかの二択を迫られ、後者を選んだこと。


 語っているうちに、自分の娘におとぎ話を聞かせてあげているような気分になった。今は彼氏すらいないけれど。


「というわけで、私は元に戻った世界に帰って来れましたとさ。めでたしめでたし」


 話し終えると、佳代は俯いて感想を述べた。


「なんだか悲しいお話だったね」


 全てがめでたしめでたしとはいかなかった。春香は佑梨を庇って死に、生き返らせることもできたのに佑梨はそれを選択しなかった。


「そうだな。本当にこれで良かったのかなって自分でも思う。君を生き返らせたことも余計なお世話じゃなければいいんだけど」


 佳代は顔を上げる。


「言ってなかったけど、私はこの世界そのものなの。そして、この世界の一部であるあなたがそうしたってことは、結局は私の意思だったんだと思う」


 ということは、やはりこの佳代はあの世界における神様と同じような存在ということになる。


 しかし佑梨は頭を振って異を唱えた。


「違うよ……これは私の意志だ」


 その点だけは誰にも否定させるわけにはいかない。例えそれが神であろうとも。


「ええと、お姉さんがそう思うってことは、結局私がそう思っているのと同じっていう意味で」


「知らないよ。生意気な子供め」


「私、こう見えてもあなたより138億年は年上なんだけど……」


「そっちの方がめちゃくちゃお姉さんじゃん」


 佑梨が笑うと、佳代は頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。


「それで、なんで自殺なんかしようとしたんだ?」


「お姉さんには教えない」


「まあ、無理には聞かないけど」


 と言いながら、佑梨はその理由について考えてみた。


 もし佳代の話が本当のことなら、彼女はこの世界そのものだ。何か自殺の原因があるとしたら、それはこの世界の外側からもたらされたことではないだろうか。あの神様だって、他の世界から来た私が唯一の他人だと言っていた。


 佑梨は隣に座っている佳代を見た。膝を抱えながら、切なげな表情で海をじっと見つめている。橙色の朝陽に照らされている横顔は、恋に焦がれる乙女のようだ。


 それから佑梨は突拍子もないことを思いついてしまった。


 もしかして、世界が別の世界に恋をしちゃったとか? 私はその色恋沙汰に巻き込まれただけ?


「……なんてね」


 と、つい声に出して言ってしまう。


「うん?」


「恋ってなかなか上手く行かないよねって話」


 不思議そうな顔をしていた佳代が曖昧に微笑む。佑梨は立ち上がり、服に付いた砂を手で払い落とした。


「思ったより元気そうだし、私はもう行くよ。不審者に襲われないように気を付けて」


「大丈夫。私がその気になれば、このミスティルテインで地球に穴を開けることもできるから」


 佳代はトングを手に持って構えた。どう見てもゴミ拾い用のトングにしか見えないが、そんな神話みたいな名前が付いていたとは。


「君がただの変な子であることを祈ってるよ。それじゃあな」


 佑梨はそう言って手を振る。佳代は変な子呼ばわりされても怒らず、手を振り返した。


「バイバイ、お姉さん」


 笑顔を交わし合い、佑梨は佳代のもとから去った。


 浜辺を少し歩き、砂浜から道路に続く階段を上る。そこで振り返ると、浜辺から佳代の姿が消えていた。まるで始めから誰もいなかったかのようだ。


 佑梨と入れ違うようにして他の人が浜辺の方へ歩いて行く。二人しかいなかった静謐な空間に、日常の息遣いが漂い始める。朝に目が覚めた直後の鼓動のように。


 あの世界に迷い込んだときと同じように、二車線の道路沿いを数分歩き、駐車場へ行った。あのときには存在していなかった佑梨の赤い軽自動車が、今度はちゃんとそこにあった。佑梨のことをずっと待ち続けていた古い知人みたいに。ナンバープレートの表記は静岡ナンバーだ。駐められている他の車も、地名の表記が逆さまになっているということはなかった。


 佑梨は運転席に乗り込み、鍵を閉め、シートベルトは着けずにシートへ体を預けた。それから深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出すと、ようやく肩の荷が下りたような気持ちになる。


 窓の外には、さっきまでいた浜辺が見える。全てが始まり、そして終わった海。窓越しに眺めていると、その海辺はジオラマのような作り物に見えてきた。本当に作り物でなければいいのだが。


 それから車の中の狭い空間で瞼を閉じ、春香のことを思い出した。全てが終わり、何も考える必要がなくなった途端、喪失感がこみ上げてきた。恋は煙草のように一本ずつ終わっていくが、春香の死はそんな比喩では片付けられない。人として彼女のことが好きだというだけでなく、自分のせいで死に、助けるという選択もしなかったのだ。これは何年も引きずりそうだ。


 春香が死んでからは一度も煙草を吸っていないし、今も吸いたいという気は特に湧かない。そんなものを吸わなくても、佑梨の体の中は別の想いでいっぱいになっていた。


 もう一度、春香に会いたい――。


 そう思った瞬間、ハッと息を吞んだ。佑梨は気付いてしまった。


 あのパラレルワールドに別の佑梨がいたのと同じように、今いるこの世界にも春香という人物がいるのではないか。もちろん別人ではあるので、存在しているとしても佑梨のことは知らない。だが会いに行けば、春香の顔を見ることはできる。


 佑梨は迷った。顔が同じならそれでいいのか、会ったら余計に辛くならないか、と。でもすぐに答えは出そうにないので、今はとりあえず考えないでおくことにした。


 もう少し車の中でゆっくりしていくつもりだったが、気が変わってシートベルトを締めた。エンジンをかけ、小気味いい唸り音が車内に響き渡る。車を発進させて道路に出ると、朝焼けの空に向かって少しずつスピードを上げていった。

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