やってみれば分かる
佑梨は長い間迷い続けた。しかし、気付かないふりをしていた自分の気持ちを誤魔化すことがいつの間にかできなくなった。自分がどちらを選択するのかということを。
私は、春香を殺して世界を元に戻す――。
気が付けばそう決意していた。それが自分の使命だと思った。もう泣くこともない。本当は泣きたかったが必死に堪えた。春香の命を見捨てておきながら自分は涙を流すなんて卑怯だと思ったから。歯を食いしばり、拳を固く握り締め、手の震えを抑えようとした。
その夜は、佑梨のこれまでの人生で最も長い夜となった。眠りが訪れるまで、迷いや罪悪感と戦い続けた。明日神様と会うときまでは、選択を変えることはできてしまうのだから。
翌朝佑梨が約束の海に着いたとき、陽はまだ昇っていなかった。水平線が橙色の光を纏い、群青の空を微かに照らしている。潮風が髪を優しく揺らす。あの日と同じだ。佑梨がこの世界に来る前、海辺を訪れて宮代佳代に出会ったときと同じ光景だ。
誰もいない浜辺の波打ち際に神様が一人で佇んでいる。佑梨は後ろからゆっくり近づいた。
「よっ」
控えめに声をかける。すると、神様は後ろを振り向いた。
「逃げずにちゃんと来たのか」
「まあね」
「それで、どっちにしたんだ?」
「そんなにせかせかするなよ。どっちにしたと思う?」
「俺は人間の心を読むことはできん。心とは、それ自体が一つの世界だからだ。人間とは心であり、世界であり、宇宙であり、言葉である」
「……ふうん?」
「詳しい説明が必要か?」
「いや、いい。これ以上は頭が痛くなりそうだから」
佑梨は苦笑いを浮かべる。そしてコートのポケットから二枚の死紙を取り出し、両手に一枚ずつ持った。最後の別れを惜しむようにそれらを見つめる。
「こっちにする」
片方を神様の前に差し出す。神様はその死紙を受け取り、凝視した。
二人の間に沈黙が訪れる。風と波が彼らを遠巻きに見守り、何かを囁き合っている。
結局佑梨が選んだのは、宮代佳代の死紙であった。
「やはり俺に人の心は読めないな。お前は春香の方を選ぶものかと予想していたよ」
佑梨は元の世界に帰るためにリュックサックをちゃんと背負って来ている。その姿を一目見れば、どちらを選んだのかはすぐに分かるはずだ。にもかかわらず、すぐには認めようとしなかった。もしかしたら神様は、春香の方を選んでほしかったのだろうか。
「私だってそうしたいよ。でもしょうがないだろ。私個人の想いと一人の人間のために、世界を終わらせられるわけない」
佑梨は遠い目で海を眺めながら、自分に言い聞かせるように語った。
「私は全人類の十字架を背負えるほど強くはないんだ。私が背負えるのは春香一人の十字架だけだ」
「お前に殺人の疑いをかけられながらも身代わりとなって死んだ彼女を、裏切って見殺しにするのか?」
「そうだよ」
「情の薄い女だな」
「批判は全て受け入れる」
毅然とした態度で言い放った。佑梨の瞳には決意の光が宿っている。
「……その意志と覚悟は、一つの世界を救うに値するのかもしれない」
神様はようやく佑梨の選択を受け入れたようだ。
「お前は世界を救う勇者となる」
鋭い視線で佑梨の目を見返して言った。
「じゃあ、いいんだな?」
「ああ」
「最後に教えてほしい。お前はどうして俺の話を信じられるんだ? もしかしたら俺は神ではなく、死紙を奪い取ろうとしているだけのただの人間かもしれんぞ」
「やってみれば分かる……って言ったからさ」
「ほう?」
「神様はみんな同じことを言う」
佑梨はこの世界に来る前、宮代佳代から世界の終わり方について話を聞かされた。佑梨がよく分からないと言ったら、佳代は「終わってみれば分かる」と返した。実際にその通りだった。嫌というほど思い知らされた。今度はそれと逆のことが起ころうとしているだけだ。やってみれば分かる。
だが佑梨はこの自称神様が超常的な力を使った決定的な瞬間は一度も目撃していない。神に関する話も、姿を変えられるという話も、無限にある世界の話も、この世界の成り立ちも、全て言葉で語られていただけのことだ。
「確かに本物の神様だと分かる瞬間は見たことがない。神様の力も、
「いるのかいないのか、よく分からないのが神というものだからな」
「自分で言うな」
ちょっとだけ笑えた。こんなやり取りでさえ、今となっては名残惜しい。神様と話ができるのも、これが最後になるから。
「でもまあ、やってみれば分かるんだろ? いいからやりなよ」
「分かった」
神様は死紙を持っている手を伸ばし、正面に掲げた。佑梨はそれを見て感慨深くなる。全てはこの手紙から始まったのだ。
長いような短いような、不思議な世界での冒険もこれで終わりだ。私はこれから再び現実の日々を生き始める。毎日働いたり、男に振られたり、また誰かと恋をしたり、そんな当たり前の日々を。春香はもう生き返らないけど、私は彼女のことを忘れない。そうすれば私の記憶の世界には残り続けて……。
それだけじゃ、嫌だ――。
「神様、お願いだ!」
佑梨は突然叫び出した。
「春香のことも、生き返らせてくれっ!」
春香の死紙を胸に抱きながら無様に嘆願する。さっきまでと話がまるで違うというのに。
「選択できるのは一つの死紙だけだ。それが神のゲームだ」
「だからこれはゲームの答えとは別の、私のお願いだ! 私のこと、唯一の他人だって言ってくれたじゃないか! 頼みごとの一つくらい聞いてよ!」
佑梨は往生際が悪く、喚き散らした。みっともないったらありゃしないと自分でも思った。
勇者なんてとんでもない。私はそんなに強い人間じゃないよ。最後くらいはカッコイイ女でいたかったのに……。
「できないものは、できない」
神様にぴしゃりと断言され、佑梨はようやく大人しくなった。神様は同意を求めるように佑梨の目を見る。諦めがつき、無言で頷いた。
「願いは叶えられないが、お前に一つだけ言葉を贈らせてもらう」
「え……」
「ありがとう。俺のことを信じてくれて」
佑梨は驚いた。
今、お礼を言ったのか? この神様が?
そう思った瞬間、神様の手のひらの上にある死紙が眩い光を発した。この世界が全て見えなくなってしまうほどに強く。微かに聞こえる程度であった波の音が段々と大きくなり、ラジオノイズのようにあらゆる音を掻き消していく。
佑梨は目を開けていられなくなり、瞼を固く閉じた。春香の死紙を放さないよう、強く握り締める。
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