◆9-3
敵が動かなくなったことを見届けて、ジェラルドはすぐに臣下の礼を取ろうとしたが、ぐらんと船が揺れて舌を打った。
「女王陛下、此処は如何にも落ち着きません。急ぎ脱出を――」
【黙れ地蟲】
不意に低い声が響き、べりべりと皮を剝ぐような音がする。何かと思えば、本来巨大な気球が取り付けられていた筈の天井が、黒い爪で穴が開けられている。咄嗟に女王を守るため、彼女の体をさっと支える。
「女王陛下、ご無礼仕ります」
「いいえ、大丈夫です、ジェラルド。この船は、闇竜が支えてくれているようですから」
【ふむ――どうやら不届き者は全ていなくなったようだな。出てきて良いぞ、我が愛しの妻よ】
そう言いながら、天井の隙間からぐいと竜の鼻面が入り込んできた。女王陛下の前にその姿を晒すな、とジェラルドが声を荒げる前に、その顎がゆるりと開いて、舌の上にちょこんと座った銀色の髪の少女が降りてきた。
ジェラルドは初めて見るが、どうやら彼女が、闇竜が求め続けた妻であるらしい。見た目は確かに神秘的ではあるが人との差異は見い出せず、やはり神が崇める存在であるとはあまり思えなかった。
闇竜に気づかれたら間違いなく怒り狂うことを思っているうち、彼女はスヴィナの方を見て、少しだけ悲しそうに眉を下げて囁く。小さな声の筈なのに、はっきりと聞こえた。
「……スヴィナ、あなたは、神でなくなってしまったの?」
寂しそうな銀月女神の声に、女王は小さく頷いた。
「ええ、多分、恐らく。いつかまた、イヴヌスが目覚めた時は殉じて従いましょう、ですが、それまでは――」
詫びるように訴える女王の声に我慢できず、ジェラルドは声を上げた。当然、声を遮る不敬をお許しくださいと詫びてから。
「我らが女王陛下、僭越ながら申し上げます。いかなる困難であろうと、女王陛下が望むのならば、神の頸木など恐るるに値しません」
本気で告げるジェラルドの言葉に、女王はほんの僅か困ったように眉を下げるが、呆れたような闇竜の声がそれを嘲りつつ語った。
【……智慧女神よ。実に腹立たしいが、これが人であるのだろう。憐れむ必要すら無し。……我もそう変わらぬ、馬鹿者ではあるが】
かの闇竜らしくない自嘲交じりの言葉に、ジェラルドも驚いて目を瞬かせた。そんな忠臣を見てどう思ったのか、ようやっと女王は唇を緩めて微笑む。
「ありがとう、ジェラルド。どうかどうか、貴方の思うがままに生き抜いて。神の理は、もうあなたを縛りはしないから」
ここで漸く、ジェラルドはずっと、女王陛下が自分に詫びられていた理由が分かったような気がした。神であるが故、上に立つ者であるが故に、己の言葉や動きが、ジェラルド達を自在に操ってしまったと思っているのかと。――そんな訳があり得ないのに。
ぐっと手を握りしめ、ジェラルドは改めて頭を下げた。
「我らが女王陛下。私は、女王陛下に縛られたと感じることなど何一つありません。貴方は私を、何物でもない私に新しい命を与え、開放して下さった。ただそれだけで、充分なのです。せめてもの礼にと、お仕えしているだけなのです」
【――諦めろ、智慧女神。それはこの世で一番性質の悪い、生きる目的を自ら定め終えた物狂いぞ。ぬしが神の慈悲を持つ限り、ぬしはそれを止められん】
「口を慎め羽蟲。女王陛下にとってそれ以上の侮辱は許さん」
【ほうれ見ろ】
ぐるぐると喉を鳴らし揶揄する闇竜を睨み上げると、その口元にそっと侍った銀髪の娘が、宥めるように鼻先を撫でた。不届きな竜でも愛妻には弱いのか、大きな瞳を皮膜で瞬かせてからふんと鼻を鳴らし、牙を納めている。
女王は眩しいものを見たように、そっと目を眇め、改めて口を開いた。
「――では、ひとつだけ。貴方に命じましょう、ジェラルド・スターリング将軍」
「なんなりと、我らが女王陛下」
汚れた床に躊躇わず膝をつき、頭を垂れる。目を伏せて声を待っていると、小さな手が、ぺちりと、ジェラルドの両頬を包んで持ち上げた。
ひやりとしたその手に驚いて目を見開くジェラルドに、智慧女神スヴィナは――エルゼールカ国女王は、しっかりと告げた。
「体を大事になさい。いくら闇竜ラトゥの血肉を得たとしても、決して無敵ではないのです。……貴方が痛くなくとも、貴方の傷を見て、痛い者がいるのですから」
そう言われて、自然にジェラルドの視線は、初めて敬愛する女王から逸れ、自分の手首に巻かれていた筈の、もう焼け落ちた布の痕を見た。ほんの僅か、途方に暮れた子供のような顔をするジェラルドの頬をそっと撫で、女王は改めて宣誓する。
「私はまだ、ほんの少しの間だけ、女王として在りたいと望んでいます。許してくれますか、ジェラルド」
「――貴女様がお望みである限り、いつまでも!!」
まるで母に褒められた幼子のような顔で、ジェラルドは笑った。
◆◆◆
世界的反秩序組織キュクリア・トラペサによる、エルゼールカ女王略取から三ヶ月。
エルゼールカ王都に四度闇竜が現れたことで、民達は混乱の坩堝に陥ったが、王宮の庭にて、その背から降り立った女王陛下に、出迎えた宰相が臣下の礼を取ったことで、如何にか落ち着きを取り戻した。
同道してきた城壁将ジェラルド・スターリングは、今回の略取事件について、宰相から秘密裡に調査を命じられていたと報じられた。今回の事件を解決に導いたとして、民衆における彼の名声はまた高まることになった。彼の事を疎ましく思い続けていた貴族院達も、ついに目を逸らすわけにはいかなくなった。
そんな彼は、女王が再び玉座に腰掛けたのを見届けて自宅へと戻り――貰った守り布を焼き切れさせてしまったと詫びる前に、赤毛の召使に泣きながら抱き着かれたというが、事実は彼ら自身と、闇竜しか知らない。
その後、闇竜ラトゥの目撃情報は全く無い。肉の体を自ら引き裂き、妻と共に天に帰ったとされている。女王帰還の数日前に、二十年前に姿を消していた銀月が、天空に浮かんだことが動かぬ証拠であろうとも言われている。
しかし城壁将――またの名を竜撃将ジェラルド・スターリングが晩年に至るまで、役目を果たし続けた記録がエルゼールカに残されている為、少なくとも彼の寿命が尽きるまで、彼と闇竜の約定は果たされ続けたに違いないだろう。
女王陛下の竜撃将と憤怒の闇龍 @amemaru237
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