悪役令嬢はバレンタインに翻弄される
「バレンタインイベント、スルーするつもりなのか?」
恐ろしいほど整ったパトリックの顔を少し不機嫌そうに歪めながら、沢渡部長が私の顔を覗き込んだ。
ちょっと眉間に皺が寄るだけで、むせるほどの色香が漂う。やめて、心臓に悪すぎる。
学園からの帰り道、二人きりの馬車の中。ぴったりと馬車の隅に追い込まれた私は、逃げようがない。
「スルーっていうか…。悪役令嬢にはそんなイベント存在しませんし…」
ごにょごにょと言いよどみながら目を逸らそうとした私の顎を、沢渡部長が長い指ですうっとすくい、ぐいっと上向かせた。目の前にはグリーンがかったアッシュの双眸。ああ、綺麗。本当に顔がいい。吸い込まれそう…って、近い!近いよ!
ここは、乙女ゲーム『ラブソニック~愛は魔法とともに~』通称ラブソニの世界。
私はこの世界で所謂悪役令嬢といわれるポジションに君臨する公爵令嬢イライザ・リー・ウォーノック――に最近異世界転生ってやつを果たした、元社畜OL大城菜々香だ。
そして目の前にいるのは前世の私の最推しだった第一王子パトリック――に転生した元鬼上司、沢渡部長である。
前世で私たちが乗っていたエレベーターで事故が起き、私たちは事故の瞬間私が開いていたアプリのこの世界に転生を果たした。
なんと転生前から私のことが好きだったという沢渡部長に押しまくられ、あれよあれよという間に私たちは婚約者に。今では私もすっかり沢渡部長に恋してしまっている。
「お前はもう悪役令嬢じゃないだろ?リアムルートなんてとっくに外れてんだから、そんな言い訳通用しないぞ。今やお前は誰もが認める第一王子の婚約者だ」
顎を掴まれ顔を逸らすこともできない私に、パトリックの美麗な顔がずいっと迫る。だからもう、近すぎるよー!私はぎゅっと目を閉じて、苦し紛れの言い逃れを試みた。
「婚約披露パーティーはまだなんですから、誰もが認めるって訳ではないんじゃないでしょうか」
「国王が認めてんだから、誰も文句言う奴はいない」
「そりゃ、そうでしょうけども…。何ですかもう…。転生前はバレンタインなんて知ったことか、みたいな顔してたくせに」
「あの頃は大城とこんな関係になれるなんて思ってなかったし、大城以外からの好意は不要だったからな。でも今は違う。愛する婚約者からバレンタインの贈り物がないなんて、切なすぎるだろ」
少しだけ唇を尖らせ、上目遣いで見つめてくる。
せ、切ないなんて…!拗ねた顔も可愛いかよ!その顔はずるいよ!
私の最推しの顔だと熟知したうえで、それを存分に活かした婚約者からの破壊力抜群の攻撃に、私は胸を押さえて悶えた。
乙女ゲームのラブソニには、当然のようにバレンタインイベントがある。
ヒロインのアンジーが、攻略対象に思いを込めたお菓子を作って渡すのだ。貴族である攻略対象たちは、普段令嬢方が手作りしたお菓子なんてもらわないから、驚きながらもとっても喜んでくれる。もちろんゲームなだけに、攻略対象の好感度が高ければ高いほど、イベントの結末も甘くなるんだよね。パトリックのルートでは、好感度がその時点での最高に達してれば、指先にキスしてくれるスチルが手に入るとあって、私も好感度上げに心血を注いだものだ。
今、ヒロインのアンジーは、私イライザの元婚約者で騎士団長の息子リアムのルートに入っていて、二人はすこぶる順調らしい。先程まで学園の生徒会室でアンジーと一緒だったが、これから帰ってリアムに渡すお菓子を作るのだと、頬を薔薇色に染めてこっそりと教えてくれた。
アンジーがリアムルートに入ったことを知って早々に、そして穏便にリアムと婚約破棄をした私は、今ではアンジーともだいぶ打ち解け、そんな恋愛の話までできる間柄になっている。――最初はめちゃめちゃ怯えられてたけどね。
「で?結局イライザは何もしてくれないのか?明日のバレンタイン」
耳元に顔を寄せ、甘い美声でパトリックが囁いた。吐息が耳元をくすぐる。――ふわぁぁ…腰が砕けそう…。声…声も好きなんだよねパトリックー!
持てる武器を総動員して私の心を動かそうとしてくる沢渡部長の周到さが憎い。こんなの、抗えるはずないじゃん!新規契約取りまくってきてた百戦錬磨のエリートサラリーマンの実力を、こんなところで使うのやめてほしい。
「ち、ちゃんと考えてます!考えてるに決まってるじゃないですか!だからちょっと、離れてください!やりすぎですってば!」
本当はバレンタインなんてどうしようって迷ってたけど(何ならちょっと面倒くさいって思ってたけど)、これだけされたらスルーなんてできるわけがない。私は観念して、パトリックの細身に見えて意外と逞しい胸を押し返した。
言質取ったり、と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべ、パトリックが満足そうに頷く。ゲームのパトリックは、こんな悪い顔絶対にしない。中身が透けて見えるようだ。
私は恨みがましい目でパトリックの顔を睨みつけた。
「強引って言いたい?」
そんな私の視線を面白がっているかのように、パトリックはすいっと顔を寄せ、流れるように口づける。あまりに自然にキスするから、避ける暇も抵抗する暇もなかった。あっという間に頬が熱くなる。不意打ち、ずるい!
「キスくらいで、まだそんなに照れるなんてな。そんなところも可愛いけどさ」
上品な口元が優雅に弧を描く。
「明日、楽しみにしてる」
本当に楽しみにしているのが伝わってくる、嬉しそうな表情。ああもう、ずるいなあ。こんなの見せられたら、もう文句言えなくなっちゃうよ。
「はい、頑張ります…」
私は溜め息混じりに頷いた。
はあ、一生叶う気がしない…。
「姉さん、おかえり」
ウォーノック公爵邸に帰った私をリビングルームで出迎えたのは、従兄弟で最近この家の養子となり私の義弟となったアンドレだった。長い足を投げ出すようにして、無気力な顔でソファに深々と身を埋めている。なんかちょっと行儀悪いな、貴族の息子のくせに。
「あらアンドレ、今日は早いのね?――あなた、公爵家を継ぐ立場なんだから、もっとしゃんとなさい」
アンドレは私たちと同じ学園の一年生だ。ゲームの攻略対象じゃないことが不思議なほどのイケメンで、学年首席でもある。運動神経もいいらしく、様々なクラブから助っ人を頼まれたりもしているようだ。だから私より早く邸にいるのはとっても珍しい。
アンドレは存在を秘匿されている黒魔法の使い手の素養を買われ、王国唯一の黒魔法の使い手だったお父様に弟子入りするために我が家の養子となった。アンドレとの距離感はまだちょっと探り探りではあるけど、以前のイライザはだいぶアンドレに厳しかったみたいだから、ちょいちょいお小言を混ぜてみたりしてる。アンドレは勘がよさそうだから、不信感を抱かれないようにいつもちょっとびくびくしちゃうんだよね。
「バレンタインは明日だっていうのに、すでに今日から呼び出しが多くて煩わしかったから、さっさと帰ってきたんだよ」
アンドレは面倒くさそうに溜息を吐いた。確かに、この見た目で公爵家の跡取り、さらに文武両道だなんて、モテすぎて大変だろうな。
「姉さんこそ、パトリック殿下に何もしないなんてことないでしょ?さっさと準備した方がいいんじゃないの?」
すかさず反撃される。やっぱ婚約者なのに、バレンタインに何もしないなんてありえないんだな、この世界では。ちょっと反省…。
「言われなくてももちろんそのつもりよ。私のことはいいから、さっさと部屋に戻って勉強でもしたらどう?」
私はイライザらしさを全面に出すように胸を反らし、つんとした表情を作った。
「はいはい。わかりましたー」
ゲームでは平民のアンジーとしてしかバレンタインイベントを経験してない私は、公爵令嬢のバレンタインの正解がわからない。あまり突っ込まれると襤褸が出そうで、強引にアンドレを部屋に追いやった。
のろのろと立ち上がって気怠げにリビングルームを出ていくアンドレを見送ると、私も部屋に戻り制服を着替える。
制服をハンガーに掛けてくれているメイドさんに、さりげなく探りを入れてみた。
「ねえ、今年のバレンタインはどうしようか悩んでいるのだけど、去年はどうだったかしら」
メイドさんはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「お嬢様は毎年、シェフに最高級のお菓子を用意させておりましたよね?今年もお声が掛かるだろうと、シェフが張り切って材料を取り揃えておりましたよ」
――なるほど。毎年そういうスタンスだったわけね。この世界では、シェフはきっとパティシエの役割も果たしているんだろう。
でも…シェフが作った最高級スイーツじゃあ、沢渡部長は納得しない気がするな…。え、やっぱこれ、私が自分で作るべきなの?前世では社畜過ぎて自炊なんてしてる暇なかったし、ましてお菓子なんて作ったことない。それに、バレンタインに手作りってなんか…あからさま過ぎて恥ずかしくない!?
「お嬢様?」
頭を抱えんばかりに悩み始めた私を、メイドさんが心配そうに見つめている。
「シェフに指示を出して参りましょうか?」
「あ、ちょっと待って。ええと、そうね、私も一緒に行くわ」
「かしこまりました」
厨房に向かいながら、ぐるぐると思いを巡らす。
沢渡部長のことは…すごく好き。恋愛から遠ざかり過ぎていたせいで、いつも恥ずかしさが先行してしまうけど、本当はもっとちゃんと思いを伝えられたらって思ってる。だけど…ええ!?私がバレンタインに手作り?キャラ違くない?前世でもそんなのしたことないよ!どうなの?沢渡部長それで喜ぶの?何が正解?沢渡部長は私に何を期待してたんだろう?
「お嬢様、シェフが参りましたよ」
はっと顔を上げると、いつの間にか厨房の入り口に着いていて、中からにこやかにシェフが近づいてくるところだった。シェフの顔を見たのは初めてだけど、四十代くらいだろうか。想像より若く、なかなかにガタイがいい。お父様ほどではないけど、そこそこなイケオジだ。さすが乙女ゲームといったところだろうか。
「お嬢様自らこちらまで足をお運びいただけるとは、今年は力が入っていらっしゃいますね。さて、何をご用意いたしましょうか」
公爵家の専属シェフなんだから、腕前は相当なんだろうな。きっとこういう時にどんなものがいいのか、シェフの方がよく知ってるよね。
「そうね…。シェフのおすすめは何かしら?」
まずは調査だ。
「そうですね、今の王都の流行を取り入れて、フールセックの詰め合わせなどいかがでしょうか?お嬢様のお好みの缶をお選びいただければ、そちらにお詰めいたしますよ」
フールセックなら、全部とまではいかなくても、私もいくつか一緒に作れるかも。そしたら私のだけじゃなくてシェフが作った美味しいのもちゃんと食べてもらえるし、いいかもしれない。さすがに全部手作りはハードルが高すぎる。
「じゃあ、それをお願いするわ。それでね…いくつか、簡単なものを私にも作らせてほしいのだけど…」
「え!?お嬢様がですか?こちらで一緒に?」
シェフが目を見開く。メイドさんも驚きの表情で固まっている。わ、これやっちゃった感じ?公爵令嬢が厨房に入るって、やっぱおかしいんだよね…?
「む、無理にとは言わないわ!やっぱり、駄目よね…」
しょぼんと頭を垂れた私を見て、シェフが慌てて首を振った。
「いえいえ、失礼いたしました!いや、まさかお嬢様が自らお菓子を作るとおっしゃるなんて、考えもしなかったもので…。お嬢様さえよろしければ、私はいくらでもお手伝いいたしましょう。殿下もお喜びになるに違いありません」
「いいの?ありがとう!」
イケオジシェフ、優しいー!これでバレンタインは何とかなりそう!
「では早速、お支度をお願いします。混ぜて焼くだけの失敗しにくいものをお教えしましょう」
「頑張るわ。よろしくね」
髪を後ろでひとつに纏めてもらい、メイドさんが持ってきてくれたエプロンをした。しっかりと手を洗って、材料や道具が用意された作業台の前に立つ。
「ではお嬢様、まずはサブレを作りましょう」
「ええ、お願いします」
気合い十分に、私は作業に取り掛かった。
厨房の見習いさんたちが材料をどんどん計量して用意してくれる。私はシェフの指示に従いながら、その材料を入れて混ぜ合わせていく。んん?私、結構これ好きかも。黙々と作業をこなしながらコツを掴んでいく感覚が楽しい。ちょっと社畜時代を思い出すようでいて、もっと心がときめく感じ。上手くできたら、今後もたまに作らせてもらおうかなあ。
「お嬢様は、なかなか筋がよろしいですね。コツを掴むのも早いですし、作業も丁寧でした」
焼き上がったプレーンとチョコレートの二種類のサブレを見下ろしていた私に、シェフが言った。私はふるふると首を振る。
「教え方がよかったのよ。我儘を聞いてくれて助かったわ。ありがとう」
実際とってもわかりやすかったし、かなり綺麗にできあがったと思う。これなら沢渡部長も喜んでくれそうだ。
「こちらこそ、ご一緒できて光栄でした」
にかっと白い歯を見せてシェフが笑う。あと三種類ほどシェフが用意して、すべてまとめて詰め合わせてくれるらしい。
シェフが持ってきてくれた缶のなかから、パトリックの瞳のようなアッシュグリーンの缶を選ぶ。ダークブロンドをイメージしたゴールドのリボンをかけてもらうようにお願いする。
「準備ができましたら、お部屋までお持ちします。お嬢様、お疲れ様でございました」
メイドさんにそう言ってもらったので、私はシェフにお礼を言って厨房を出た。
翌朝。いつものように王家の紋章を掲げた馬車でパトリックが迎えに来た。
「おはようイライザ。今日も綺麗だね」
360度隙のない、輝くような王子様スマイル。相変わらず沢渡部長の擬態は完璧だ。
「おはようございます。パトリック様」
私も負けじと、公爵令嬢然として挨拶をする。パトリックは私が手にした鞄とは別の紙袋に、一瞬だけ視線を注いだが、またすいっと私に視線を戻して、流れるように優雅な仕草でエスコートの手を差し出した。
「さあ、行こうか」
「はい。パトリック様」
パトリックの手を取り、馬車へと乗り込んだ。当然のように、私の隣にパトリックが腰を下ろす。
「で?」
馬車が動き出すなり、王子様スマイルが沢渡スマイルに切り替わる。にっと薄く整った唇を持ち上げ、からかうように目を細めたその笑顔。悔しいけど、顔がいい…。でもでも、負けないぞ!
「で?とは?」
思わず抵抗したくなる私も、大分可愛気がない。
「そこは焦らすとこじゃないだろ」
パトリックがむっとした顔で私の膝の上の紙袋を指さす。すらりと長い指に思わず見蕩れてしまうけど、今はそんな場合じゃない。
「えーと、ハッピーバレンタイン?」
私は照れくささに耐えきれずパトリックから顔を背けながら、ぐいっと紙袋を差し出した。途端に、差し出した手をぐいっと引かれ、ぽすっとパトリックの胸元に寄りかかる形になる。ふわりとパトリックのいい香りがして、ぶわっと顔が熱くなった。
「やり直し。ちゃんと渡して」
耳元で拗ねられ、私は観念する。ぐぐーっと体を反らして、パトリックと距離を取った。
改めて、紙袋からフールセックの缶を取り出し、ちらりとパトリックを見上げる。パトリックの目が、満足気に細められ、期待に口元が緩んでいるのがわかる。こんなにわかりやすく、嬉しそうな顔をしてくれるんだな。
私は素直になれなかった自分を少し反省して、ほぉっと長く息を吐いた。それから意を決して、缶を差し出す。
「どうぞ、受け取ってください。入っているフールセックのうち、二種類のサブレは私が作りました。気に入ってもらえるかわかりませんけど、よかったら食べてください!」
――あれ?どうして何の反応もないの…?
どんな言葉が振ってくるのか俯いて戦々恐々としていたのに、一向に反応がない。恐る恐るパトリックを見上げると、口元を押さえて固まっていた。
あれ?そういえば沢渡部長って、甘い物どうなんだっけ?前に一緒にカフェに行った時には、私しかスイーツ食べてなかった気がする。
「え?お菓子、嫌いでした?もしかして私、間違えた…?」
ヤバい。どうしよう。お菓子なんかじゃなくて、もっと違うもの求められてたのかもしれない。これは完全に沢渡部長の求めるものを読み違えちゃったやつだ!
青くなった私を見て、パトリックがはっと硬直を解き、慌てたように缶を持つ私の手を握りしめた。
「違う!そうじゃない!すごく嬉しいから!――いや、まさかイライザが手作りしてくれるなんて思ってもみなくて。驚きと感動で、すぐにリアクションできなかった」
「無理しなくてもいいんですよ?何なら、今日の放課後何か別のプレゼントを買いに行っても…」
「だから違うって!これがいい!これをくれ!イライザの手作りが食べたい!」
すごい勢いで詰め寄られ、私はこくこくと頷く。
「で、では、どうぞ」
「うん。ありがとう」
差し出した缶を、パトリックがまるで宝物を手にしたかのように大切そうに受け取る。
「開けてみてもいいか?」
「はい。どうぞ」
緊張の面持ちで見守る私をよそに、パトリックは子どものように目を輝かせ、リボンを解く。蓋を開けると同時に、ほうっと嬉しそうな溜息を漏らした。
「イライザが作ってくれたのは、これとこれ?」
長い指でプレーンとチョコレートのサブレを指さす。
「そうです。お菓子なんて初めて作りましたけど、ちゃんとシェフについていてもらったので、味は問題ないかと。味見しましたけど、普通に食べられました」
「お菓子作り、初めてだったんだ?それは大城だった頃も含めてだよな?」
「はい。前世、今世通じて初です。――わかってますよ!キャラじゃないってことは!」
「キャラじゃないってわかってるのに、俺のために作ってくれたんだよな?」
すごく嬉しそうに、優しい目で見つめられて、今度は私が固まる。
「――そうです」
「嬉しい。ありがとう。食べてみてもいいか?」
「もちろんです」
パトリックがプレーンのサブレを摘まんで、口に入れる。
「うん。すげぇうまい」
「ほ、本当ですか?」
「本当。前世も含め、これまで食べたサブレのなかで一番うまい」
間髪入れずに、チョコレートのサブレも一口。
「こっちもうまい。もったいないから、一日一個ずつ食べる」
嬉しそうな顔でもぐもぐと口を動かしているパトリックが、可愛くて仕方ない。沢渡部長の頃は表情筋が死滅していたかのようだったのに、パトリックになってからは本当に表情豊かだ。それなのに何故か沢渡部長らしさが感じられるなんて、本当に不思議。これも恋愛フィルターなのだろうか。
「他のはシェフが作ったので、間違いなく美味しいと思います。それと…お菓子作り、結構楽しかったので、もしもパトリック様が嫌じゃなかったら、また作ります。だから、一日一個なんて言わず、どんどん食べてもらって大丈夫です」
再びパトリックが驚いたような顔で私をまじまじと見つめてくる。
「ちゃんと中身、大城だよな?俺、夢見てる?」
うぅ、確かに私のキャラじゃないけどさ!恥ずかしいの我慢して言ったのに、酷くない!?私は不快感を思い切り眉間に表現して、ふいっと横を向いた。
「大城ですよ、もう!そんなこと言うなら、やっぱりもう二度と作らない!」
「嘘だよ。怒んなよ。あーもう、可愛いな!」
パトリックが私をぎゅっと抱きしめて、髪に頬を埋めるように押し当ててくる。
「俺のために初めてお菓子作りして、そのうえまた作ってもいいなんて。やべぇ、すげぇ幸せなんだけど」
言うや否や、噛みつくようなキス。
「ちょ…待って…ん…」
ああもう、私怒ってたのに…。これ流されちゃうやつだよ…。
食べられているような乱暴で熱いキス。沢渡部長の思いが流れ込んできて、その甘さに頭も体も痺れていく。
「ごちそうさま」
長いキスの後、唇を離しながらパトリックが囁いた。
「すごく甘くて、うまかった」
それは、フールセックの感想?それとも…。
「どっちも」
私の考えはお見通しとでもいうように、パトリックが妖艶な笑みを浮かべてもう一度キスをした。
「バレンタインも、いいもんだな」
上機嫌のパトリックは、もうひとつサブレを口に入れると、いそいそとフールセックの缶の蓋を閉めた。
「そうだ、イライザにも」
一度閉めた缶から、シェフが作った自家製ジャムを塗った艶々のクッキーを取り出し、私の口に放り込む。
「あ、美味しい」
甘酸っぱさとともに、ほろほろとクッキーが口の中で解ける。
「じゃ、今度はそれ作って。楽しみにしてる」
王子様スマイルに沢渡部長の色香のエッセンスを加えた私の大好きな笑顔で、パトリックが笑った。
悪役令嬢に転生したら、プレゼン力高すぎな王子に捕まりました 彪雅にこ @nico-hyuga
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