Re.夏のプールサイドにて
「せんせー!」
タオルや水着を入れる用であろう、特殊な形をした小さな手持ちカバンを肩にぶら下げて、だれがどう見ても分かるぐらい楽しみ過ぎるという感情が、表情に駄々洩れの状態で我々は再び会うこととなった。
「……本当に来たんだな」
「当たり前でしょ」
「そうか」
もしかたら、小学生のその縦横無尽な好奇心が抑えられずに、友達と遊びに行ったりするんじゃないかと期待してみたりもしたが、このロリは本当に興味があったらしい。
そんなことを考えながら、俺は慣れない手つきで準備をする。
……外で実験するの久しぶりだから仕方がなかろうて。
「さてと……」
事前に持って来ていたカバンから、今回の実験に使う液体と計測機器、温度計や薄手のゴム手袋などを取り出す。
この小学校には化学室があるのでそこから道具を拝借してもよかったのだが、どうにもがきんちょの汚いイメージが邪魔をして、あと一歩信用を置けなかった。
なので、面倒だが自前の器具を持ってくることになったのだ。
「おー! すごい! なんかぽい道具がいっぱいだ!」
「じゃあ始めるね」
俺は空のペットボトルを持ってプールへと近づき、塩素の匂いを感じるその水をペットボトルの半分ぐらい汲んだ。
そして、それをすぐに温度計で計測する。
「……25度前後か」
「なんで温度測ってるの?」
「うーん? ……実験をするとき、対象の状態を計測しておかないともう一回同じ実験をするときに再現できないから、かな」
正直、ここで「何となく」とか「みんなやっているから」とは言いずらかった。
「へぇ~!」
そんなこっちの心情なんて気にしない様子で、この小学生は俺の作業を見逃さぬよう、爛々と目を輝かせてこっちを注視していた。
――なんか、大した作業なんてしないはずなのに緊張してきた。こんなに集中して人に見られると、流石に意識せざるを得ない。
なので、変なミスをする前にさっさと作業を終わらせよう。
ということで、さっきペットボトルに汲んだ『使用済み小学生のプール塩素水』に、研究室で作製した半透明でアメジスト色の特殊なアルカリ性水溶液を入れて、10回ほど強く振る。
しゃかしゃかしゃか……。
すると、中の液体はきめ細かい泡を発生させていき、最終的には液体部分が完全に泡へと変化してしまった。
薄紫色の泡は太陽の光を乱反射して、液体の時よりも綺麗に、より美しく変化したのだった。
「わぁ……すごいあわあわになっちゃった! でもとってもきれいな色……」
「すごいだろ」
「うん!」
「この泡の正体――今まなちゃんに言ってもいいけど……どうする?」
「えっ、聞きたい!」
「……分かった。でも、これを見たことは先生とまなちゃんだけの秘密だ。誰にも言わないって約束できるなら教えてあげる」
「……うん! 誰にも言わない」
小学生は至極真剣な表情ではっきりとそう言った。
別に、誰かに言っても怒りやしない。
人と人との口約束でできた秘密なんてものは、いつか破られること請け合いである。
ただ、今起きた現象が何なのかを理解して、それを悪用する知能がある者にさえ知られなければ問題はないということだ。……そんな危ないものでもないけれどね。
というのも、この泡の実態が何なのかを知れば分かること。
「コホン。この泡の正体が何なのかというと……それは、みんな持っている
「あれ……」
「――感情だ。
これは、怒り、悲しみ、喜び、恐怖、快感、様々な感情の具現化であり、実体化なのだ。そして、そこに好奇心や羞恥心などのスパイスが加わるともっと違った、人それぞれの特色を持った何かが生成できる。これが、この泡の正体だ」
俺は研究の結果、第一段階として感情を”泡”として生成するのに成功した。というのも、膨れ上がる感情は泡と適用しやすかったという単純な理由だ。
「うーん……ちょっとまなにはむずかしかったかも」
「うん、まぁ小学生だったらそんなもんだ」
俺は小指サイズの小瓶に、その泡を少しだけ移した。
「それあげるよ」
「え! ほんとにいいの? ……嬉しい! 絶対捨てない、一生の宝物にする!」
小学生はそう言うと、大切なものを扱うように慎重に、あの着替えが入っているはずカバンに入れた。あのまま間違えて、一緒に洗濯したりしないかなぁ……。
「それじゃあまたね」
「ばいばいせんせー……」
あの後、俺たちは学校の入口で別れの挨拶をし、そのまま解散しようとしたのだが、帰り道が同じ方向であったため、駅まで一緒に歩くこととなった。
そして、コンビニでアイスを買って二人で買い食いを楽しんだりと、電車が来るまでの間一緒に過ごしたのだった。
「ねぇせんせー?」
「なんだ」
「また会えるかな?」
「うーん……」
「……」
「まなちゃんが今日のことを忘れずにいたら、もしかしたら、会えるかもしれないな」
「……! ほんとに!? じゃあ、約束! 絶対にまた、まなと会うって約束して!」
「――分かった。約束だ」
俺達は小指を引っ掛けて上下にぶんぶん振った。(実際は振らされていると言った方が正しいが)
「では」
「うん! ……では! へへっ」
そう言うと、俺達は各々の帰路へと別れていくのだった。
ごとんごとん。
電車は等速運動の慣性を維持しながら進んでいる。
そんな中、俺は一人ぼんやりと窓の外を見ていた。
正直、今日はちゃっちゃと採取して研究室に籠ろうかと思っていたけれど、こんな出会いがあるなんて思っていなかった。俺らしくないけれど、今後もフィールドワークしてもいいかなって思えたそんな日だった。
はたして、この気持ちを具現化したときに、それはどんな色で、どんな匂いでどんな形なのだろうか。
――もしかしたら、好奇心があるのは小学生も俺もそんなに変わらなかったかもしれないな、なんて思ったそんなフィールドワークは、まだまだ勢い止まらない夏の真昼間に始まり、真昼間に終わりを迎えたのであった。
俺はこの日を絶対に忘れないだろう。
出会ったときに感じたあの感触と温もり、びしょ濡れのシャツとの不快感、終始興奮気味で実験を見ていたあの真剣な眼差しを。
帰り際、とてもおいしそうにアイスを食べた時のあの悦とした表情を、別れ側に見たあの寂しげな笑顔も、なにもかもを。
忘れたくても忘れられないだろう。
そして。
この気持ちは、どれだけ薄く希釈しようとしても、濃く深く俺の心の中に残り続けるだろう。
その感情は希釈できない。 不透明 白 @iie_sou
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