第22話 分かちあう(最終話)
ヴォルフはアウゲの背中にぴたりと寄り添って、アウゲの胸の下に回した腕の径を縮める。
「姫さま、好きです。何回も言うけど。何回でも言うけど、好きです」
アウゲはくすぐったそうに笑って、首の下の隙間を通っているヴォルフの腕に自分の腕を沿わせる。手を重ねるとヴォルフが指を絡めてその手を握った。
「ねえ、あの時冥府の宰相が、姫さまが課した約定に冥府の王は縛られてたって言ってましたよね。何があったんですか? 冥府の王に何かされませんでしたか?」
「いいえ、何も。世界の母になれと言って求婚されたのを突っぱねたから、それは気に食わなかった様子だったけれど」
「……よく無事でしたね」
「冥府の王はおそらく、人間についての基礎知識が不足していたのね。だから私に触れたら自害するという脅しが通じたの。私が持っていたのはただのペーパーナイフだったのに。敵を知るのは勝負の基本中の基本よ。詰めが甘いのね」
アウゲの言葉にヴォルフは笑った。背中越しにその振動がアウゲにも伝わる。
「それで? ただ脅すだけじゃ冥府の王は黙らなかったでしょう? どうしたんですか?」
「賭けよ」
アウゲは胸の下に回されたヴォルフの腕の筋肉の溝を指先でなぞる。ヴォルフはアウゲの髪にくちづけた。
「賭け?」
「そう。あなたがあの部屋にたどり着けば私の勝ち。あなたがあの部屋にたどり着かないか、あるいは私の偽物を連れてあの場を去れば冥府の王の勝ち、という賭け」
「……まさかと思いますけど、賭けてたものって」
ヴォルフはぶり返してきた腰の疼きも忘れて、上半身を起こしてアウゲの顔を覗きこむ。
「私よ」
アウゲは何でもないことのように言ってのける。
「なんて無茶するんですか」
ヴォルフはアウゲを仰向かせて、顔の両脇に手をついて閉じ込める。
「もしそれで賭けに負けたらどうするつもりだったんですか?」
アウゲにぐっと顔を近づけて厳しい顔で詰め寄る。
「どうするって……?」
アウゲは僅かに首を傾げる。
「だから。賭けに負けてたら姫さまは冥府の王のものになるっていう言質を与えちゃったわけなんでしょ?」
「ええそうよ。冥府の宰相も、試練の勝負が決するまで冥府の王は私には何の手出しもできないのだから、勝負は取り下げた方がいいと言ったわ。でも、あなたは必ず来るとわかっていたもの。勝つとわかっている勝負から下りる理由がないでしょう? こんな緊張感のない勝負は初めてよ。勝つとわかっている勝負なんて、つまらないわ」
「だからって」
ヴォルフはアウゲを抱きすくめて首筋に顔をうずめる。
「いや、それでこそおれの姫さまですよ。だけど」
ヴォルフはアウゲの首筋に、唇に、唇を触れさせる。
「あなたが試練に負ければ、いずれにせよ私は冥府の王の伴侶となるしかなかったのでしょう? それにもしあなたが命を落とすようなことがあったら、私もその時死んだも同然だわ。その後のことなど、どうとでもなればいいと思った……」
「姫さま……」
ヴォルフは絶句してアウゲの顔をまじまじと見る。アウゲはヴォルフの頬を撫でてくすりと笑った。
「冥府の王は」アウゲはヴォルフの引き締まった背中に手を回して言う。「あなたは、私そっくりの人形と睦みあっているだろうと言っていたわ。……そうなの?」
「そんな!」
ヴォルフは弾かれたように顔を上げる。
「確かに姫さまの偽物はいっぱいいたけど、おれ、1回も騙されませんでした! 信じてくれるでしょ!?」
「……それは、後ろめたいことがあるから焦っているということなの?」
アウゲは冗談めかして言う。
「そんなぁ……。偽物が同じ銘柄の香水つけてたけど騙されなかったし、姫さまの偽物が冥府の王と『してた』のはちょっと、いや、めちゃくちゃショックだったけど嘘だってわかってたし……」
「えっ?」
「えっ?」
ヴォルフは思わぬアウゲの反応に冷や汗をかく。
「私が……冥府の王と……?」
アウゲはヴォルフが初めて見る険しい表情で呟く。
「姫さま……?」
「許せないわ。いくら偽物とはいえそんな侮辱を受けて黙っていることは、負けを認めることと同じよ。そんなことは私の誇りが認めないわ」
アウゲはヴォルフの腕の中から抜け出して身体を起こした。
「ヴォルフ、冥府の宰相に連絡してちょうだい。抗議するわ」
「姫さま、落ち着いて」
「これが落ち着いていられる?」
「大丈夫、姫さまの名誉は何も傷ついてません。姫さまはひとりで冥府の王に立ち向かって、そして勝った。姫さまは自分の名誉を自分で守りとおしたんです。そうでしょう?」
ヴォルフはすぐにでも冥府の宰相のところへ乗り込んでいきそうなアウゲを必死に宥める。
アウゲは不服そうにヴォルフの顔を見て、とさ、とアウゲにしては珍しく音を立てて横になった。
「私が賭けに勝ったら冥府の王は私を諦めて冥府に帰る、ということを条件にしたのだけれど、そんなことをされていると知っていたらあんなに軽くは済ませなかったわ」
アウゲは目を閉じて、気持ちを鎮めるために大きく肩で何度も息を吸って吐いた。
「でも、冥府のみなさんは、おれを一番効率よく揺さぶるのが姫さまの存在だってちゃんとわかってたんですね。よく研究してますよ、詰めが甘いとしても……」
「……何があったの? そのほかに」
ヴォルフの言葉には、言葉どおりでないニュアンスが含まれていた。アウゲは怒りを忘れてヴォルフの方に身体の向きを変えた。ヴォルフの顔から、いつも彼が浮かべている余裕の微笑みが消える。
一瞬自分の怒りにヴォルフへの思いやりを忘れそうになっていたことをアウゲは恥じた。ヴォルフは傷ついている。平気なふりをしているけれど。根拠はなかったがアウゲはそう感じた。
「ねえ、話せる? 話せなければ無理に話す必要はないわ。でも……、もし話せるなら、話してほしいの。何があったのか。あなたが背負ってしまったものを、私も分かち合いたいのよ」
アウゲはヴォルフの頬を撫でた。
「姫さま……」
ヴォルフは頬に添えられたアウゲの手に自分の手を重ねた。
「離宮の裏庭に用水路、あったでしょう?」
「ええ、そうね……?」
突然昔話を始めたヴォルフにアウゲは戸惑うが、それを遮ることはせず、続きを待つ。
「試練のために用意された辺境の離宮の中に入ると、なぜかまた外にいました。同じ離宮の建物があって、用水路のほとりには姫さまが好きだった黄色い花が咲いてて。ああ、姫さまの誕生日の頃だなぁって懐かしく思ったんです。それで、用水路に何となく近づいたら水の中に白いものが見えて……。その、水路の底に、ひ、姫さま……が……」
ヴォルフは眉間に皺を寄せて目を固く瞑った。その目から涙が滲み出て流れ落ちる。アウゲはヴォルフを抱きしめた。
ヴォルフも次の言葉を紡ぐことができず、アウゲを抱きしめ返す。
「それは結局、姫さまに似せて精巧に作られた人形だったけど、でも……おれは……おれは、姫さまが、死ん……死んでしまったと……思って……それで、絶望して、怖くて……。それから……暗闇の中で冥府の者と戦ってると思ってたけど、明るくなって見たら、おれの、おれの剣、が……姫さまの、お腹に……」
ヴォルフは寒さに凍える者のように震えながらアウゲを抱きしめる。アウゲは何度も頷きながらヴォルフの背を撫でた。
「……っ、アウゲ……。アウゲ、どこにも行かないで……」
ヴォルフは幼い子どものようにしゃくりあげながら涙を流し続けた。アウゲは細い指先でその涙を拭う。アウゲは激しい怒りを感じた。魔王の伴侶を奪う企みのために、冥府の者たちがヴォルフに背負わせたものに対して。彼の心の傷は消えないだろう。ヴァイストの寂しげな笑みが頭をよぎる。それがまやかしだったと後で判明したからといって、それがなんだというのだろう。心に受けてしまった深い傷は癒えることがない。
「大丈夫よ、ヴォルフ。私はずっとあなたのそばにいるわ。あなたが私のそばにいてくれるのと同じように、私もあなたのそばにいて、あなたを守っているの。愛しているわ」
アウゲの言葉にヴォルフはハッとしてアウゲを見た。
「姫さま……。姫さまは自分で気づいているかわからないけど、何度もおれを助けてくれました。試練の時だけじゃない。その前の、冥府の者たちとの戦いの時も。知ってました?」
「私が? あなたを?」
ヴォルフは腕の径を緩めてアウゲの顔を見る。アウゲは不思議そうに首を傾げた。
「そうです。姫さまの魔族としての力がなかなか顕現しないこと、母上も不思議がっていました。でも、ようやくわかったんです。姫さまの力が『加護』だって」
「『加護』? それはどういう……?」
「『加護』はその名前のとおり、相手を守る能力です。アーウィンと一緒に冥府の者たちと戦った時、姫さまが騎士服の袖にしてくれた刺繍が光って、その光が盾になって攻撃を防いでくれました。近衛隊長のオルドは瀕死の重体だったらしいけど、姫さまの力で傷は全部癒えてしまったと言ってました。そして、試練の時も冥府の者を見破ってくれたし、冥府の王からおれを守る盾にもなってくれた。既に何度もおれを救ってくれたんです、姫さまは」
2人は無言で抱き合う。
「ひとりであなたを待つ間、寂しくて、怖くて、私は弱くなってしまったのだと思っていたわ。私は変わってしまったと。以前ならひとりでいることは当然で、それを耐え難いと思ったことなどなかったのに。でも……」
アウゲはヴォルフを見上げた。
「あなたを守ることができる力を持てたのなら、この変化も悪くないわ」
「姫さまは弱くなんかないですよ。だって、あんなに何度もおれのことを守ってくれたんだから」
ヴォルフは笑ってアウゲの髪を撫でる。アウゲはヴォルフの頬の涙の跡を拭った。
「愛する人がいて、その人を守ることができる力を持っている。……私が。ただそこにいるだけで、息をしているだけで人を傷つけてきた、この、私が」
アウゲは声を詰まらせた。涙がひと筋流れる。
「ねえ、こんな嬉しいことが、ほかにあって?」
涙を流しながら、アウゲは笑ってヴォルフを見た。
ヴォルフを待つ間、自分に力があればとずっと思っていた。しかしアウゲは既にそれを持っていた。アウゲの愛は盾となって愛する人を守ったという。そうあればと祈っていたとおりに。
「ありがとう、ヴォルフ。私と一緒にいてくれて。愛しているわ。全てはあなたが与えてくれたのよ」
「違いますよ。これは、姫さまが選び取ったものです。姫さまの愛が、おれを、みんなを守って癒してくれたんです。愛してます、アウゲ。おれのただひとりの人」
2人は微笑みあって抱きあった。冬の風は遠ざかり、ここはいつでも暖かだった。そしてこの後、孤独が2人の元を訪うことは二度となかった。
続・蠱毒姫 〜魔王の花嫁と冥府の王 有馬 礼 @arimarei
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