エピローグ〜月下の盃〜

「ここやな…」


関東は群馬のとある路地。


「笹井酒造」と言う淡い紅色の暖簾がかかった古めかしい日本家屋の前で、藤次と絢音と3人の娘は歩みを止める。


暖簾を揺らし、中に入ると、作務衣姿の稔が出迎える。


「ああ。迷わずこれてよかったッス!ちょっと僕今手が離せなくて…デンさん、この方々客間に案内してもらえますか?」


稔の言葉に、デンさんと呼ばれた老爺はにこりと笑う。


「はい若旦那、承知しました。ではお客様、母家にどうぞ。」


「すんません。…ほんで笹井、京極ちゃん、やない、嫁はんは?」


その言葉に、稔は僅かに顔を顰めたが、直ぐにまた笑顔になる。


「佐保子なら、今の時間厨房ですよ。職人の人達のお昼作るために。」


「さ、さよか…」


どこかホッとしたような表情の藤次に、絢音はポンと背を叩く。


「良かったじゃない。気持ち、整理する時間取れて。」


「あ、うん…」


「まあまあ、立ち話も何でしょう。冷たいものご用意しておりますので、どうぞ。」


デンさんにそう促され、藤次と絢音と、3歳になった3つ子の姉妹は、母屋にある客間に案内される。


「あ…美味しい…」


差し出された日本酒を一杯飲んで、絢音は感嘆の声を漏らす。


「そうでしょう?この辺りは水が綺麗だから、良い酒ができるんですよ。…お嬢ちゃん達には、イチゴジュースとか、どうかな?」


「わーい!!」


デンの言葉に、3姉妹は大喜びでグラスをとり中身を呷る。


「あまーい!」


「おいしい!」


「本物のイチゴみたい!お父さんも飲んでみたらー?」


「あ、その…」


出された冷酒も、藤香に差し出されたイチゴジュースのグラスも手をつけず、どこか上の空の藤次に、デンは皺だらけの顔をクシャッと窄めて笑う。


「若奥様と坊ちゃん、お呼びしてきましょうか?」


「えっ?!」


狼狽する藤次に、デンはお茶を差し出す。


「私(わたくし)めは稔坊ちゃま…今の若旦那の世話役を若い頃にしておりまして…ですから、今日あなた方が来られた理由も、伺っております。」


「そう、なんですか…」


「はい。厨房も落ち着いて来たでしょうから、ちょいと行って、お呼びしてきます…」


「あ、でも…」


待ってと言おうとした藤次に構わず、デンは奥の間に消えていく。


「バカね。意識しすぎよ。見透かされちゃって…どうするの?」


「せやかて、会うん初めてやし…緊張してきて、なあ、トイレ…」


「今更何よ。会うんだから、堂々としてなさい。」


「そやし…」


言った瞬間だった。


襖が開き、客間に佐保子と、彼女の脚に縋り付く小さな男の子が現れたのは。


「あ…」


佐保子の足に縋ってこちらをチラチラ見ている子は、在りし日の藤太に僅かに似ていて、藤次は破顔する。


「検事、奥様、3つ子ちゃん、本日はご訪問ありがとうございます。…ほら、藤矢(とうや)…ご挨拶。」


「…………」


佐保子に促されたが、藤矢は彼女の影に隠れてモジモジしてるので、絢音はにっこり笑ってそばに行く。


「はじめまして。おばさんに、お名前教えてくれるかな?」


「……………と、とうや。」


仄かに照れながらも名前を紡いだので、絢音は更に笑って、彼の頭を優しく撫でる。


「とうやかわいい!わたしもとうこって言うの!よろしく!」


「わたしはとうか。よろしく。」


「わたしはふじえ。ねぇ、いっしょにあそびましょ?」


「えっ…」


オドオドしていた藤矢だが、3姉妹はニコニコ笑って手を差し伸べてきたので、そっとそれを握る。


「良かったわね藤矢。オモチャのあるお部屋に案内してあげて、遊んでもらいなさい。」


「うん。ママ…」


「ちょ、ちょい待ち!!」


「!?」


急に上がった藤次の声に一同は瞬く。


「どうしたの?藤次さん。」


「あ、いやその…僕?おじちゃんにも、名前、教えてくれるか?」


「えっ……」


不思議そうに見上げる藤矢に笑いかけると、佐保子が屈み込み、藤矢に囁く。


「ママがたくさんお世話になった…おじさんなの。だから、挨拶してあげて?」


「う、うん…」


そうして、てちてちと覚束ない足取りで藤次の前に行き、藤矢は頭を下げる。


「はじめまして。ささい…とうやです。」


「ほうかほうか…偉いなぁ、ちゃんと挨拶できて。ええ子や。そら、飴ちゃんやるさかい、お姉ちゃん達と遊んでき。」


ズボンのポケットに入れていた小袋を渡して頭を撫でてやると、藤矢はパァッと笑ったので、藤次は目頭が熱くなる。


「じゃあ、いきましょう?とうやくん。」


「う、うん…」


またねおじちゃんと言って3姉妹と別の間に消えていく藤矢を見送った後、佐保子は膝を折り深々と頭を下げる。


「な、なんね。」


「ど、どうしたの佐保ちゃん。」


狼狽する2人に、佐保子は続ける。


「認知…ありがとうございます。十分すぎる養育費まで頂いて、お陰で藤矢に、しっかりした教育を受けさせられます。」


「当たり前じゃない。私達の子供みたいなものだし、佐保ちゃんだって、私に慰謝料くれたでしょ?おあいこよ?だから、頭上げて。ね?」


「慰謝料は当たり前です!私、奥様の優しさに甘えて、どれだけ酷いことをしてきたか…藤矢のことだって…」


「良いのよ良いのよ。同じ人を好きになった者同士じゃない。仲良くしましょうよ。ね?」


「奥様…」


そうして涙に濡れた顔を上げさせて、絢音は藤次に向き直る。


「ホラッ、子供…産んでくれたのよ?労ってあげなさい!」


「あ、ああ…」


戸惑いながらも、佐保子の眼前に行くと、彼女はワッと、藤次に縋り付く。


「ごめんなさい…約束、破って。…藤次さん…」


その言葉に、藤次の中で何かが切れ、止めどなく涙が溢れ彼女を抱く。


「ええんや。よう頑張って、あない元気な子、産んでくれたな?おおきに。佐保子…」


「藤次さん…」


涙を流して抱き合う2人からそっと離れて部屋を後にすると、絢音は廊下で稔と鉢合わせたので、口元に指を立ててウィンクする。


「ヤキモチ妬いてるでしょうけど、今は、2人だけにしてあげて?」


その言葉に、稔はフッと笑う。


「なら、奥さんが僕と遊んでくれるんスか?僕は今も、嫉妬でおかしくなりそうなのに…なんで奥さんは、なんでもかんでも、許せるんスか?!」


言葉を荒げる稔に、絢音は困ったように笑う。


「ごめんなさい。元はと言えば、けしかけたのは私なの。佐保ちゃんがあの人を好きだって気持ち、ずっと前から知ってたから、同じ女として、応援したかったの…だから恨むなら、私を恨んで?あなたが望むなら私、抱かれても良い。」


「ッ!!」


その言葉に、稔は側の空き部屋に絢音を連れ込むと、乱暴に押し倒してキスをし、胸を弄る。


「…なんで…抵抗しないんスか?泣くほど嫌なくせに…」


露わになった胸の先を舐めながら問いかける稔に、絢音は掠れた声で呟く。


「だって…こんなことでしか私、あなたに償えない…」


「……………」


声を殺して泣く絢音を冷たく見下げながら、稔は彼女の体から離れる。


「稔君?!」


しないのと言いたげな絢音に背を向け、稔は襖の取手に手を掛ける。


「検事には、佐保子と出会わせてくれた恩があるッス。だから、裏切る真似は出来ないッス。悔しいけど…耐えます。」


「稔君!!」


タンと襖を閉めて、稔は唇を喰んだ。



それから棗一家と佐保子達は夕飯を共にし、縁側で子供達は花火に興じ、とっぷりと夜の更けた頃、厠に行っていた藤次は、縁側で一人冷酒を呷る稔を見つける。


「なんや美味そやな。ワシにも一杯くれや。稔君?」


何の謝罪も言い訳もせず、屈託なく笑って横に腰を下ろす藤次に、稔は眉を顰める。


「嫌ですよ。如何な検事と言えども、この酒は、この酒だけは、譲れないッス。」


「な、なんねその口振り。確かにお前には悪いことした。いくら謝っても許してもらえんくらいわことる。そやし…」


「分かってます。結婚前に、佐保子に思い出作り…あなたに抱かれろと言ったのは俺です!けど、まさかその思いやりを、こんな形で裏切られるなんて…悔しくて…」


「笹井…」


「検事には分からないでしょうね。DNA検査で、父子関係が否定された瞬間の気持ちなんて。…俺、散々苦悩して、苦悩して、半分は佐保子の子だと思って、毎日必死に、良い父親になろうと頑張ってる俺の気持ちなんか!分かるはずない!!」


そうしてグイッと盃を飲み下し、稔はポツリと呟く。


「俺…今日、検事の奥さん抱きました。俺の下で、あんあんよがって、俺のが良いって、散々ねだられましたよ?」


「……阿呆、下手な嘘つくな。絢音はお前への罪悪感で誘ったかもしれんが、優しいお前のことや。断ったんやろ?」


「違う!俺は抱いた!めちゃくちゃにしてやったんだ!!アンタが佐保子にしたように、俺も!おれ…も…」


そう言って涙を流す稔の肩を抱きしめ、藤次は頭を下げる。


「お前にはホンマに、悪いことした。せやから、あの子が成人するまで、惜しみのう支援する。せやからこの先、実の子産まれても、あの子…藤矢に辛う当たるのは、止めたってな?」


「分かってます。そんな事したら、佐保子が悲しむって、分かってます。藤矢は一生…俺の息子で、この笹井家の、長男です。何があっても、佐保子共々、あなたには渡しません。」


「ん。ほんなら、男と男の契りの盃、交わそうや。お前が嫌や言うて隠しとる、とっておきで。」


「……………」


なっと笑いかける藤次に、稔は渋々、飲んでいた冷酒の徳利から盃に移し、彼に渡す。


「この酒は、親父が俺の産まれた時に特別に仕込んでくれた酒なんです。だから、藤矢にも今、仕込んでやってます。20歳になったら、3人でその酒、飲みましょう。それも、約束ッス…」


「ああ。分かった。おおきにな。稔君。」


そうして2人は、煌々と輝く夏の満月の下、静かに盃を交わした。


互いの守りたい者の幸せを、共に願いながら…





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死花外伝-運命の人-〜京極佐保子〜 市丸あや @nekoneko_2556

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