忘却砂漠

月見 夕

忘却砂漠

 何の変哲もない朝が来た。しんとした部屋で静かに身を起こし、枕元の目覚まし時計を探す。衣擦きぬずれの音の他に、ちりちりと何かが零れ落ちるような音が耳の奥で鳴っていた。何の音だろう。無精髭を撫で、寝ぼけ眼を擦る。そういえば今日は何時に起きるんだっけ。はて、と思い起こしながら時計を見つけると、三本の針が姿を消し、代わりに微細な砂粒が文字盤の底に溜まっていた。ガラス面を射し込む朝日に透かすと、黄土色の砂粒がさらさらと揺れた。それは公園の砂場や海浜にあるような、ありふれた粗砂あらずなだった。

 時間の確認は諦めた。きっと、今日も特に何があるわけでもないのだろう。のそのそと万年床から這い出、居間に向かう。何やら足裏がざらついて、まるで土足で家へ上がった後のような違和を感じる。板間の床は細かい砂で白くかすんでいた。足裏をもう片方の足首にこすり付けながら、冷蔵庫を開ける。冷気で満ちた庫内には、昨日食べ残した弁当と、未開封の缶ビール、そして砂の小山があった。それはよくお袋が用意する、玄関先の盛り塩を想起させた。缶ビールだけを掴み、扉を後ろ手で閉じる。多分あれは、数日前に買ったサラダだと思う。多分。

 外へ出よう。ざらざらとした家に居ても仕方がない。草履ぞうりに足を引っ掛けて、立て付けの悪い安アパートの扉を押し開けた。服は、居間に転がっていたジーンズとTシャツを、砂をはたいて着た。久しぶりに開けたタンスには、土嚢どのうのように砂が詰まっていたからだ。

 街は、白砂でうっすらと煙っていた。家の中とは比較にならないほど足元は砂で埋まる。仕方なく、ざくざくと踏みしめながらぼんやりと歩を進める。行く先はない。どうせ用事なんてこの先もないのだ。缶ビールを開け、一口。何の労働もともなわない一杯は味がしなかった。炭酸が鼻に抜けていくのを感じながら、残りを一気にあおる。空き缶は、捨てるのが躊躇ためらわれてそのまま持ち歩くことにした。

 空き地にただ大量の砂が盛られている場所がいくつもあった。住宅の基礎部分を作るようでもなく、ただダンプカーが荷卸しをした後のように、砂が敷地に盛られていた。元は何か建物があった気がする。きっと誰からも忘れられてしまったのだろう。自分も思い出せない。



 あてなく歩いて、小さな公園に辿り着いた。日が暮れるまで子供たちが遊ぶ場所だということは、今も昔も変わりない。高く感じていた柵が腰ほどの高さになっていて、寂しいような懐かしいような気持ちがこみ上げてくる。看板の文字は粗砂で擦ったように霞んで見えない。どんな名前だったか、自分がその場所を何と読んでいたのか、思い出からすっかりと抜け落ちてしまっていた。

 公園には誰もいなかった。昼間なら当たり前だ。錆びてびて、砂煙に巻かれた遊具たちが、決して広くない土地にぽつりぽつりと並んでいた。いくつもあった気がするトーテムポールの場所には、先の建物のように砂が盛られていたが、風に吹かれてそこらに散っていた。その奥には砂場があった。



 誰もいないと思っていたが、砂場には少年が座り込んでいた。どこか見覚えがあるような、しかしどこにでもいそうな、ありふれた小学生だった。少年は手に持つ小さなスコップで砂をすくっては、足元に零してを繰り返している。砂山でも作っているらしい。

「何してるの」

 特に意味もなく少年に話しかけた。何故話しかけたのだろう。少年は一人だった。

「砂の山をつくってるの。できたらトンネル掘るんだ」

 少年は顔を上げず、黙々と砂を盛っている。少年と、砂山を挟んで向かい合うようにしゃがむ。砂山は掘り返された砂でまばらに黒かったり白かったりしていた。座り込んだ少年の胸ほどの高さがある。

「……トンネル掘るならさ」

 少年が顔を上げる。やはりどこか見覚えのある顔をしている。どこだろう。

「水、かけた方がいいよ」



 ビールの空き缶を使って水道で水を汲み、砂山に回しかける、水を吸った山は最初こそしぼむものの、後から砂をかけても崩れにくくなった。水と砂を交互にかけてさらに大きな山をつくる。

「おじさんはさ、どうしてここにいるの?」

 少年は砂を掬い山頂に零して聞く。なるほど、小学生からすれば二十代はおじさんらしい。そういえば伸びた髭もそのままだった。

「どうしてって」

 仕事を辞めさせられたから、他にすることがないから。目の前の子供に言っても仕方のない理由ばかりだ。

「……なんでだろうね」

 大人が子供に理由を濁すのは、大抵都合の悪いときだ。



 程なくして、砂山は少年の顔に届く高さに成長した。二人で両側から静かに穴を掘り始める。さらさらとした表面を削り、湿った中身に手をかける。じゃりじゃりとした砂の、冷たいようなぬるいような不思議な温かさに懐かしみを憶えた。指先で少しずつ、水で締まった山を穿うがち、砂を掻き出す。顔を近付けると、ほのかにビールの匂いがした。

 慎重に慎重に、大きな掌で崩れてしまわぬよう掘り進める。内部に近づくほど土砂は冷たくなった。

「おじさんはさ、好きな人っているの」

 唐突にそう聞く少年は表情一つ変えない。この年頃の子はこんなに笑わないものだっただろうか。もう二十年近く昔の自分を振り返ったが、愛想がないことにはあまり変わらなかったように思う。それでお袋に手をかけさせたことも、ぼんやりとだが覚えている。

「僕はさ、いるよ」

「へえ。クラスの子かな」

「そう。昨日、その子に告白したんだ。振られたけど」

 掌がすっぽりと山に埋まり、盛った砂の重みが内部からずっしりと感じられる。相槌を打ちながら、意外と積極的な子だと感心した。と同時に、少年の甘酸っぱい恋模様に回顧の念をもよおした。きっと自分にもあったはずだ。どこに仕舞ったのだろう。

 少年は「他に好きな子がいるんだって」と残念そうに呟く。

「でも僕、ユミちゃんのこと諦めないんだ。だから明日も告白するの」

 何故だかその響きは脳味噌の奥底で甘く鳴った。ユミちゃん。ユミちゃん。海馬が必死に微弱な電気信号を紡ごうとしている。何だろう、この感じ。

「ユミちゃんは髪が長くて」

「…………」

 砂の中で、ぴくりと指先が震えた。

「いつもお花のついたカチューシャを付けていて」

「……カチューシャ……」

 このまま掘り進めたら、どこかに思考の全てが繋がる気がして怖い。

「ピアノが上手で」

「……ピアノが上手」

 それでも、ゆっくりと砂を掻いていく。

「性格は大人しくて優しい」

「……そう、誰からも、好かれてた」

 トンネルの向こうで、指先が少年の柔らかい指先に触れた。

 瞬間、鋭い電流が脳内に走るとともに、少しずつ身体が、角砂糖が紅茶に溶けていくように記憶の海に溶けていった。桜の花びらの舞う校庭。風に吹かれて薫る少女の髪。音楽室に響くつたないエリーゼ。図工の時間に作った紙粘土細工の匂い。誰もいない図書室。土砂降りで帰れなくなり、親の迎えが来るまで一緒に話した薄暗い放課後。

 懐かしさにひたされて、目がくらむような感覚に襲われる。

「おじさん、忘れてたでしょう」

 少年は初めて笑った。頬にできた片笑窪かたえくぼは見覚えがある。ああ、全くだ。こんなに大切なことを忘れていたなんて。

「君は、俺か」

 やっと思い出したんだね、と少年は無邪気に笑った。忘れたくなかったのに。時の流れに身を任せて、大切な光景や思い出を自分はいくつも砂に変えてきたのだ。

 問いに答えが生まれた瞬間、砂に埋まっていた掌から、サンダルをつっかけた足先から、己の身体が砂に変わり始めた。ざあざあと音を立てて崩れる自分に、しかし不思議と恐怖は抱かなかった。

 最後に、少年と視線を交わす。


「……おじさんは、覚めたらきっと忘れてしまう。けど、いつかまた思い出して。僕のこと、昔のこと」



 何の変哲もない朝が来た。胸の奥の深い深い部分が、何故か切なく揺れている。悲しい夢でも見たのだろうか。分からない。微かな砂埃の匂いが、鼻先をかすめたような気がした。

 枕元の時計は、朝日に照らされて正確な時を刻んでいた。

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忘却砂漠 月見 夕 @tsukimi0518

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