天井の住人

月見 夕

天井の住人

 窓の外には、抜けるように青い空が広がっていました。

 あれほど強かった日差しも幾分か和らぎ、蝉は静かに土にかえり、庭の色とりどりに咲いた花々は、最期の時を迎えてせています。錠を外して窓を開けると、吹く風は木枯らしでした。

「外はもう、秋ですね」

 あるじはそうだね、と呟いてティーカップを置き、足元に寄り添っていた老犬を愛おしそうに撫でます。そして、当たり前のように壁を踏んで、天井に向って垂直に歩いていき、逆さに固定された椅子に腰かけました。



 私がこの館に使用人として雇われて一か月が経ちましたが、初めて主にお会いした時の驚きといったら、きっと私は生涯忘れることはないでしょう。

 青年は、天井に立っていました。髪の毛の一本に至るまで己の重力に従えたその姿は、この世の者とは思えぬ雰囲気を醸し、私をかせました。青年は真っ白な天井を踏みしめ、採光用の天窓の横に立ち、逆さまの私に仰いました。

「君が新しいメイドかい……高い所から失礼するよ」

 窓の外に覗く色彩豊かな花の色のせいでなく、目の前がくらんだことをよく覚えています。



 多少の混乱はありましたが、ともあれ、私はこの館で働き始めました。世の中には、私の想像を超えることなど星の数ほどあるに違いないのです。きっとこの館の御主人は、人より少し重力が歪んでいるだけなのだ、と私は考えることにしました。それなりに驚きはしますが、決して悪いことばかりではないのです。一日のほとんどを天井で過ごされる主のために、部屋中の家具は高い天井に合わせて、逆さ吊りにされたり固定されたりしています。そのため、主や家具に気兼ねなく床掃除をすることができるのです。まあ難点といえば、壁を掃除する手間がかかるということくらいでしょうか。

 また、主は一匹の老犬を可愛がっています。くすんだ毛並を持ちよたよたと歩くさまは、相当に歳をとっていることを窺わせます。彼は常に主のいる部屋におり、日がな一日中日向ぼっこや昼寝をして過ごしています。掃除のたび、定位置の日向から動かすのが億劫おっくうといえば億劫でしょうか。



 食事など、元の重力のほうが都合がいいとき、主は用事があるたび床に降りてきます。床で生活ができれば、そうなさったらよろしいのに、と私は呆れて言いましたが、主は床に降りるのも一苦労なんだよ、と少し困ったように老犬の頭を撫でました。

「お前と散歩することもできやしないな」

 俯いた老犬は、退屈そうに主人に擦り寄りました。

 主はこの館を出て生きてはいけないのではないか。そんな想像が頭をよぎりました。箱形の部屋に四方を守られ足元を保証されている主は、外へ出ることなど叶いません。ひとたび窓の外へ出れば、大空の彼方へ落ちていってしまうのではないでしょうか。ひとりきりの部屋で過ごし、たまに犬とたわむれ、また天井で過ごす。一体いつまで、そんな生活が続くのでしょうか。他人に触れることもできず、孤独に満ち溢れ、己の重力に囚われ続ける日々。恐らく、それを一番恐れているのはきっと、主なのでしょう。



 数日後のことです。その日は、季節の変わり目宜しくしとしとと細い雨が降り続いていました。一雨ごとに寒さが増し、窓の外の景色は日ごとに色彩を失っていきます。

 主人に愛された老犬は、そっとその生涯を終えました。年齢は分かりませんが、察するにかなりの老体であったのでしょう。最期は眠るように、息を引き取りました。

「僕が子供の頃から……ずっと、一緒に居たんだ」

 床に降り崩れ落ち、まだほのかに温かい亡骸を抱きかかえ、主はぽつりと呟きました。かけるべき言葉が見つからず、私はただ傍で立ち尽くすことしかできません。家族とも呼べる存在を失い、静かに、ただ静かにすすり泣く小さな青年を前に、私の如何なる言葉も無力に思えたのです。

 細い雨は、音もなく窓を伝い、幾筋も流れていきました。



 その日を境に、主は天井から降りられなくなりました。毛布に包まって、天井の隅でうずくまっているのです。灯りも点けず、細雨が降り続くせいで薄暗く、しんと静まり返った部屋は深い水底のようでした。主様、と呼びかけますが、返事はありません。

「主様……何か召し上がらないと、お身体にさわります」

 何度目かの呼びかけで、ようやく反応がありました。

「………………要らない」

 全てに対する拒絶のような言葉を絞り出し、着ていた毛布から手を離すと、毛布は普遍的な重力に向ってひるがえりながら落ちてきました。その瞬間、

「あああああああああああああ――」

 彼の中で何かが切れたように、突然暴れだしました。取り付けられた家具という家具を引き剥がし、振り回し、放り投げたのです。文机ふづくえが、引き出しが、クローゼットが、紙束が、ベッドが、ランプシェードが、衣服が、木材が、ガラスの破片が、床一面に降りそそぎました。

「主様! おやめください! 主様!」

私は悲鳴を上げながら、それらを必死に避けることしかできませんでした。一心不乱に部屋の破壊を続ける主が、どんな表情だったのか、知る由もありません。

 全てが床に転がったころ、主は力尽きたように天井に膝をついてうなだれました。

「どうして……どうして僕は、戻れないんだ……」

 うめくような言葉には深い悲しみが滲んでいます。流した涙さえも、彼の重力に逆らい零れ落ちていきました。



 しばらくして、少し落ち着きを取り戻した主は、ぽつり、ぽつりと独り言のように言葉を紡ぎ始めました。

「僕が十二の頃、最愛の母が死んだ。僕の肉親は母だけだったから……それはもう、何日も嘆き悲しんだよ。なぜいなくなってしまったの? って。周りのなぐさめの声も聞きたくなくて、僕の心から遠ざけようとした。……その頃から、壁や天井を歩けるようになった」

 誰もいない、主しかいない場所に、逃げるように引きもる様子を想像しました。周りの人間と物理的に、精神的に距離を置き、己の心を守ろうとする、ひとりの少年の姿を。

「でも、その時に気付くべきだったんだ……悲しいからこそ、恋しいからこそ人は人との関わりで癒さねばならないのに……。そうするうちに、元の足場で生活するのが苦しくなった」

 自らを守るために閉じこもったために、いつの間にか閉じ込められてしまった少年。助けを求めることもできず、自分しかいない、孤独の海をもがく小さな手。

「……僕は、ひとりだ」

 主は膝に顔を埋めて言葉を吐きました。

 私は少し考えた後、そっと部屋から出て、倉庫から大きな脚立きゃたつを抱えて戻ってきました。

「確かに貴方には、同じ立場に立てる者はいないかもしれません」

木製のそれを開いてがらくたの海に立て、ゆっくり、ゆっくりと一掛ひとかけずつ、足を踏み外さぬよう上っていきます。

「……ですが」

 一番上まで上ると、頭上の主に届く高さまでやってきました。顔を上げた青年を見上げ、

「こうすれば、貴方と同じ高さに来ることができます。貴方に近付こうと、努力することはできるのです」

手を伸ばし、その頬に触れます。同じ境遇でなくとも、同じ重力に引かれていなくとも、理解しようとすることはできるはずだから。

怯えた迷子のように震える瞳を真っ直ぐに見つめ、私は微笑みました。

「貴方はひとりではないのですよ」



 やがて、雨が小雪に変わる頃となり、物寂しかった風景は薄ら白く化粧しました。錠を外して窓を開けると、身が縮むような北風が入ってきます。これからますます雪は深くなり、白銀の世界が広がるのでしょう。

 あれから主は、また少しずつ床に降りることができるようになりました。いつか自らの手で扉を開け、外へ出るのだと語った彼の表情は、晴れやかなものでした。



窓の外には、雲の切れ間からこぼれたあたたかな日差しが景色を包み込んでいました。

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天井の住人 月見 夕 @tsukimi0518

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