武蔵野の嘘月

きつね月

嘘つきな月に嘘つきは何を見るか


 曲がりなりにも物を書き、卑しくも文章をこの世に残そう、なんて考えるのであれば、世の中のことについてよく知っておかなければならない。

 そうだろう?

 じゃあ尋ねよう。君の「経験」について。

 君は今までに何ヵ国ぐらい訪れたことがあるかな。何ヵ国語ぐらい話すことができて、何ヵ国ぐらいの人と話したことがある?国の数だけ文化がある。君の知らない様々な価値観を持つ人たちのことをたくさん知っていれば、それだけ登場人物の幅が広がる。なるべくいろんな場所に行っていた方がいい、見ていた方がいい、触れていた方がいい。

 当然、恋をしたことはあるんだろう。恋の話も書くのだろうから。振ったり振られたり、経験人数は何人かな?なるべくたくさんの人と付き合って、できれば結婚だけでなく離婚までも経験しておくといい。恋愛について語るときにそれだけ説得力が出るだろうってものだ。

 本は何冊ぐらい読んだかな?最低でも百の位、千まで行っていればもっといい。語彙を増やすには他人の文章に触れるしかない。つまらないプライドは棄てて、つまらないと思うような本でも、知らないジャンルでも、興味の無いことにまでも貪欲に手を出して、自分の力にしなくては。昔の人が遺した恋の歌から、最新の経済新聞まで。君の主人公がどんな職業に就いていたとしても対応できるように知識をつけておかなくては。

 広い世界に行く。

 ドアを開いて外に出る。

 世界は果てしなく広く、生きている時間は夢のように短い。ストイックに生きなくては意味がない。資格を取り、ありとあらゆる職業に触れ、成功した人、失敗した人、負け犬、勝ち馬、そんな様々な人の話を聞き、君にしかできない文章を完成させる。そうさ、目を閉じてぼうっとしている時間はないのだ―――




「―――ふう」

 と、そこまで考えたところで私は一息をついて、目の前で説教垂れていた分厚い資格の本を閉じた。

 資格の本の下には百科事典があり、その下には世界史の教科書があり、そのまた下には最新版の分厚い四季報、その下には恋愛の指南書……といった具合で本は積み重なっている。

 私はポケットからライターを取り出すと、それらに火をつけた。あらかじめ油を染み込ませておいたので火は勢いよく燃え広がり、暗い小部屋を明るく染め、私の心を少しだけ愉快にさせた。

「……」

 なんのことはない。心の中のお話だよ。

 実際は火事なんかになってない。ここは三鷹にある安アパートの一室。吊り下げられた電球の下にはどこから入り込んだのか、小さな蛾が羽をはためかせている。それを寝転びながらじっと眺めている。そんなふうになんでもない夜のこと。

 しかし時々こうやって頭の中のごみをひとつにまとめて整理しておかないと、身動きがとれなくなってしまう。なにより、ごちゃごちゃごちゃごちゃしてうんざりする。

 うんざりだ。

 やれやれ、勘弁してほしい。をしないために、私はこうして文を書いているというのに。

「……」

 私が本当に見たいと思うのは、読みたいと思う本は、例えば道端に咲く名も知らぬ花のことを命懸けで書いた文とか、例えば嫌いな自分のことをどうして嫌いなのか分析に分析を重ねてついに身動きが取れなくなってしまった男の話とか、そういうものだ。誰かの乾いた涙の跡とか、無理して笑う暗い影とか、磨り減ってついに消えた命の極光のような最期の灯とか、そういうものが見える本。

 そう、つまり、物語―――というやつだ。

 それはいつも狭く深く、誰かの命に触れている。命というのはそれが深ければ深いほど互いに共鳴せずにはいられない。この命まで動かずにはいられない。そういうものを求めている。勉強するための本が教科書なら、生きるために見るのが物語。今はまあとりあえず、そういうことにしておいてほしい。

 今はとりあえず、何においても生き延びなくては。

 嘘でもいいから誤魔化さないで、死にたいなら死にたいってちゃんと言ってほしい。それが生きるためについた嘘だって私にはわかっている。

 私だってそうなのだ。



「……」

 立ち上がって窓を開ける。秋の夜の冷たい空気が、この行き詰まったアパートの一室と肺に滑り込んでくる。見上げると、夜空から注がれる銀色の光がこの街を照らしていた。

 ―――月の話。

 今まで生きてきて、色々な場所で月を見上げてきた。

 どこで見ようと月は月、それ自体がなにか変わるわけではない。しかしそれぞれの土地にそれぞれの影を落とし、その色合いが変わるのは面白い。

 初めて武蔵野この街の月を見たときは驚いた―――それはあまりに空っぽだったのだ。

 空っぽというのはつまり、この土地だから、というものが何もないということだ。ただそこに月が浮かんでいるだけ。ここだからこそ見える世界があるわけでもなく、ここでしか見えない特別な光が射しているわけでもない。かといってどこにでもあるような平凡な月、というわけでもなく、何もない。空っぽなのだ。

 それは空白、と言い換えてもいい。

 それだけ聞くと「何てつまらない月なんだ」と思うかもしれない。しかし私はその銀色から目が離せなかった。なにかがあるはずだと思ったのだ。

 どんな土地にだってそれぞれ過ごした時間があり、だからこそそれぞれの月が昇る。何もない、なんてことはあり得ないはずなのだ。どうしてこんなことになっているのか。

「……」

 しばらく悩んで、これは隠されているのだ、と思い付いた。

 この街の月は誰かの手によって意図的に空っぽにされている。何もないことにされている。しかし一体誰がなんのために。

「……」

 一晩中眺めてもわからない。

 そのうち空は白んでくる。夜の黒が藍色に溶けていく。

 それでもわからない。

「……」

 月なんてものを一晩中眺めていると、嫌でも思考は巡る。その時私が考えていたのは、月を隠した少女の話である。

 彼女は夜になると決まって現れて、夜空に昇るはずの月を自分のなかに隠してしまう。そしてニヤリと笑うのだ。その笑顔は実に非現実的で非実在的で、とっても素敵だ。

 しかし一体彼女はなんのためにこんなことをしているのだろう―――

 そう思ったとき、彼女と目が合った。彼女のその瞳はまるで月のように銀色に光っていて、そうして気づいた。

 彼女はこんなことをしたのだ。

 そして彼女は私自身だ。彼女は私の妄想で、私の物語だ。

 私の物語は、私に見つけてほしくて月を隠したのである。

「……」

 これが武蔵野の月の正体。

 空っぽに見えたのは、そこに物語を描くため。武蔵野の空には夜な夜な、私はそこに

 武蔵野の月は、想像の月。

 武蔵野の月は、妄想の月。

 武蔵野の月は、見間違いの月。

 武蔵野の月は、嘘の月。

 武蔵野の月は、物語の月。

 別にそこにうさぎがいたっていいし、宇宙基地があってもいいし、幻想の温泉宿が建てられていてもいいし、誰かの命みたいに綺麗な花が咲いていてもいいし、自分のことが嫌い過ぎる男がいたっていいし、乾いた涙の跡があってもいいし、無理して笑う誰かの影があってもいいし、命の輝きがまるで極光のように降り注いでいてもいいし、別にそこに少女がいたって構わない。

 物語はいつも誰かの命に触れていて、それはいつでも押し付けられた知識ではなく、自分の脳から産まれた自由な妄想なのである。

「……」

 武蔵野の月は物語の月。ならば一体どうしてそんな月が昇るようになったのか。

 その答えはひとつしかない。

 ここにいる住人たちがそうあれと望んだからである。

 武蔵野は『想像の街』『妄想の街』『時代を超え多くの人にイマジネーションを与え続ける街』―――この街がそういう場所だったらいいな、そうあれかし、と住人たちが望み続けてきたからこそ、そういう月が昇るようになった。根拠なんてひとつもないけど、そう考えるしかない。そう思いたい。

 だってその方がいいじゃないか。

 月なんてその実、宇宙空間に転がる大きな石ころでしかない。そこに自分の脳を重ねてありもしないものを見てしまうのは人間のさが。それを見間違いで実のない妄想だと嗤う人はいるだろう。

 しかしそういうことが好きな人もいる。意味なし、ナンセンス―――だからこそ自分で劇場を開く。自分だけの嘘の月をでっち上げる。そんな物語好きな人間が集まってできた街、それが武蔵野。そう思った方が断然面白い。

 読みたくもない本を勉強と称して嫌々目を通すことよりも、自分で作っちまった方がいい。読みたい本がないのなら書いちまったらいい。命懸けの花の話を、自分が嫌いな物語を、乾いた涙の跡を巡る冒険譚を、あなたが無理して作った笑顔の理由を、命の最期を、それらをすべてひっくるめて飲み込んで、いたずらっぽく笑う少女の話を。書けばいい。

 それを例え誰が読まなくても、武蔵野の月にはその物語が映っている。その銀色はこの街に降り注ぐ。書く理由なんてそれだけで充分だ。それだけで呼吸を続けるに足る。生きるために書くのが物語。そのための空っぽ、そのための空白。

 だから、書けばいい。生きているのだから。その方がずっと面白い。




「……」

 炎は今まさに燃え広がり、臆病な私が自己防衛のために溜め込んだ知識を無意味に溶かし続けている。

 呼吸を続けるために物を書き、足跡として物語をこの世に残そう。

 生きているのだから―――理由はそれだけで充分。他人にマウントを取るための知識なんてなくても、見上げれば武蔵野の月がそこにある。誰に見えなくとも、

 必要なものは、ただそれだけ。

 





 

 

 

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