夏の香り
「雨……止まないね」
風が吹けば跡形もなく飛んでしまいそうな古びたバス停のベンチに座り、空を見上げて美空は呟いた。
少しずつ晴れ間が近づいて来ているので、もうすぐ止みそうな気配はするものの、如何せん夏目前のこの時期は天気が変わりやすい。
ましてやこの山間部の田舎であればなおのこと。
せめてバスがすぐに来てくれれば良いのだが、傾きかけた時刻表には、次のバスがやってくるのは1時間後と記されている。
要するに、諦めるしかない。
「ずぶ濡れになる前にここに入れただけマシだな」
しっとりと濡れた制服のシャツに生ぬるい空気を送りながら、彼女から一人分の場所を空けて翔太は腰を下ろした。
そして流れる無言の時間。
手を伸ばせば触れてしまう距離が、無意識のうちにお互いの鼓動を速くする。
「そういえば……もうすぐ夏休み、だね」
静寂に耐え切れず、何か予定あるのかと先に口を開いたのは、美空の方だった。
「いや、ばぁちゃんの手伝いで畑仕事やんねーと」
「畑?あぁ、すいかととうもろこしだっけ?」
「いい歳なんだから畑じまいすればって毎年言ってるんだけどな」
自前の畑で育てた野菜を近所に配っては「美味しい」と言ってもらえるのが嬉しいらしく、翔太の祖母はまだまだ現役で頑張ると張り切っているのだ。
小さい頃から可愛がってくれた祖母なので、元気でいてくれることはもちろん喜ばしい。
とはいえ、最近は腰が痛いだの肩が痛いだの、こっそりこぼしている姿を見ているので、複雑な心境ではある。
「お前は?予定、あんの?」
「これと言って……家族でちょっと旅行するくらいかな」
「しっかり予定あるじゃん」
「おじいちゃんの米寿のお祝いで行くだけだから、本当につまんないお付き合い旅行だよ」
出来ることなら行きたくないと美空は愚痴をこぼす。
翔太の家とは対照的に、祖父とはあまり良好な関係ではないらしい。
小耳に挟んだ程度だが、彼女の父も祖父も長らくこの地域の議員を務めているせいか、なかなかに厳格な家なのだとか。
そんな頭の固い人たちと四六時中顔を合わせているなんて息が詰まる。
美空は思い切り不満そうに頬を膨らませた。
「あーぁ、わたしだって”カレシと旅行”とかしてみたかったなー」
「……え?お前、彼氏いるのか?」
「いないよー。この前クラスの子がそんな話してただけ」
その言葉に、翔太は心底安堵した。
決してクラスの中で目立つ方ではないが、美空はそれなりに容姿も可愛いし頭も良い。
本人に自覚があるかどうかはわからないが、密かに彼女の隣を狙っている男子は少なくないのだ。
今日も偶然を同じバス停に居合わせたと彼女は思っているようだが、あわよくば二人きりになりたいがために、クラスを出たところから翔太はこっそり後ろから追ってきたのだ。
「あ、でも蛍火祭には行かれそうでよかったよ」
それは二人が通う高校のすぐ裏手にある神社で行われる、毎年恒例の夏祭りだ。
規模こそ大きくないものの、食べ物屋から射的、金魚すくいといった基本的な出店はほぼ揃っている。
おまけに祭りの最後には打ち上げ花火も上がるので、夏のイベントとしてはちょうどいい。
「なら……蛍火祭、一緒に行かないか……?」
女友だちに誘われたのなら、美空も二つ返事で承諾しただろう。
同じクラスとはいえ、それが翔太からとなると意味合いが変わってくる。
緊張のあまり目を合わせられていない彼を目の当たりにして、その心境を察することができないほど美空は鈍感ではなかった。
「え……わ、わたし?翔太こそ、他に一緒に行く人がいるんじゃないの……?」
C組の長坂さんとか。
美空の口から出てきたのは、隣のクラスの女子の名前。
確かに最近廊下でよく出くわしたり、合同授業の際は話しかけられたりしている印象はあるが、翔太にとっては眼中にすらない。
「行くもなにも……そいつ、全然知らないんだけど」
「そ、そうなの?!だって二人はてっきり……」
確かに顔立ちは悪くないとは思うが、事あるごとに話しかけられ、それも一方的に自分の話ばかりなので、正直どうあしらっていくか悩んでいたところだった。
もしも美空がその根も葉もない噂を信じているとすれば、今ここで全力で否定しておかなければならない。
「俺は、行くならお前と行きたいんだけど。もちろん、二人で」
とはいえ、上手く説明する言葉も見つからず、結局は直球勝負になってしまった。
密かにあたためていた本心までさらけ出すことになったが、もう後には引けない。
「それは……えっと……つまり……」
お互いの頬が紅潮し、鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほど、強く早鐘を打つ。
「俺は……美空が好きだよ」
二人を祝福するように、雨が止みあぐねていた空にはいつの間にか、大きな虹がかかっていた。
短編集 千颯 @kagaribi64
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