さくらんぼ食べたい
何時ものように仕事を切り上げ、馴染みの店へと向かった。薄灯りの提灯に「割烹 史乃」と書かれたその店には、三年ほど前から通っている。酒と料理が美味いというのもあるが、女将もまた、美味い。
「あら先生、いらっしゃい」
暖簾をくぐれば、また来たのかと苦笑しつつも女将は快活に迎えてくれる。決まった席に箸と突出しが当然の様に置かれた。
「いつものを頼む」
「はいはい。飲みすぎは厳禁ですよ」
これもまた毎度のやりとりで、最早お互い気にも留めていない。出てきた酒をぐいと煽れば、喉を通るアルコールが心地よい。なるほど、てきぱき女将が店を切り盛りする姿を肴に、今宵は甘口で桜桃の酒かと呟きながら、また一口酒を飲む。思わずにやりと笑みがこあぁ、ぼれた。
「随分とご機嫌だねぇ、先生」
「あぁ、今日の酒が一段と美味いからな」
その言葉に嘘はないが、女将が送ってきた合図への返事でもある。出てきた酒が辛口なら、今日の酒は苦いと返す。つまりただ飯を食って帰れの意。逆に甘口ならば、酒は美味い。店じまいの後に秘密の逢瀬が可能だということだ。
***
合図の通り、女将が暖簾を外すのを見届けると、それに合わせて席を立つ。そして勝手知ったる我が家の如く、店の奥にある階段で二階へ上がった。六畳一間に布団が一組。さもお待ちしておりましたと言わんばかりの状況に、あいつもなかなかだなと嗤った。間もなくして、頭頂部できつく結っていた髪を降ろし、襟元も少し緩めた彼女がやってきて、言葉を交わす暇もなく唇を重ねてきた。
「どうした、今日はやけに急いているな」
「先生が三日も来てくれないからですよ」
「まぁ、俺も暇じゃないんでな」
それはどちらの意味ですかと史乃は笑う。もちろん作家としての仕事だと口では並べるものの、彼女との逢瀬が待ち遠しくてそのことばかり考えていたのだから、果たして本当はどちらなのだろう。
「それよりお前は良いのか?旦那もいるだろうに」
「口だけなので大丈夫ですよ。しばらくはお友達と旅行だとかで、今夜も帰ってきませんから」
それに帰ってきたところで私の事など気にも留めません。史乃は哀しい瞳をした。本当なら旦那に抱いてもらいたいのだろう。だが当の本人は仕事や友人、友人と称した愛人ばかりを優先して、妻のことなど邪険に扱うばかり。おまけに彼女は昔患った大病が原因で子が出来ぬ身体らしい。それ故に愛想を尽かされたのだろうと、いつか話していたのを思い出した。
しかしそれは此方としては好都合だった。厄介事にならずに済むのならそれに越したことはない。愛されない淋しさを埋めたい彼女と、手軽に快楽を求めたい俺。ある種、利害の一致だった。
つまらぬ話はもう良いかと、史乃の着物の帯を半ば強引に解き、そのまま布団へ彼女を縫い付けた。気が急いているのは自分だったのかと自嘲しながら、彼女の冷たい肌に口づけを落とした。
「やはり不貞を働いていたのはお前の方だったか」
閉めたはずの襖が突然開き、こめかみに青筋を立てた長身の男が乱入してきた。俺の顔見知りではなかった。恐らく史乃の旦那だろう。その証拠に、彼女の表情がまるで生霊でも見たかの様に真っ青だった。
「俄かに信じがたい話だったが、この目で見てしまっては仕方がない。史乃、お前がここまで馬鹿な女だとは思わなかったぞ」
ばしんと乾いた音が二回響いたかと思えば、史乃の頬には真っ赤な痕が付いていた。俺も同じだろう。鈍い痛みが頬から伝わってくる。そうか、この男は自分都合で我々を殴りつけたのだ。
「……ははははははっ」
あまりに滑稽で、笑いが止まらなくなった。自分の所業を棚に上げるわけではないが、この男の心のなんと狭いことか。
「史乃、お前はやはり間違いではなかった様だぞ」
「間男が何をほざく」
「良いか、お前が史乃を捨てたと思っているようだが、それは大きな間違いだ。史乃がお前を捨てたのだ」
力だけで支配しようなどと笑止千万。そして、そんな男の言葉を鵜呑みにして尚、未練があるような史乃にも急に興醒めしてしまった。
「厄介事は最も嫌いだ。後は勝手にやってくれ」
俺の変わり身に呆気にとられた二人を後目に、足早に部屋を去った。もう二度とここに来ることはないだろう。
***
店から自宅までは歩くとそれなりの距離がある。このまま帰るのはちと面倒な気もするし、何よりこの不完全燃焼の身体と心を落ち着けねば、冷静に自宅になど帰れはしない。
―仕方ない、買うか。
一旦横道に逸れ、以前贔屓にしていた店に寄ることにした。しばらくは史乃の所へ通っていたせいでご無沙汰になっていたが、ボロ屋で安いわりには上玉を揃えている。ここから歩いても数分とかからないことを思い出し、今夜の宿とすることにした。
「先生、随分とお久しいですねぇ」
顔を見せると、待ってましたと言わんばかりに番頭が顔を綻ばせた。以前はこの店で俺が一、二を争うほど金の羽振りが良かったものだから、番頭も覚えていたのだろう。
「なるべく新しいのをつけてくれ」
「へぇ……生憎二日前に上がったばかりの新入りしか今は……」
「それで十分だ。部屋はいつもの場所で良いな」
二階の最奥。他の部屋よりほんの僅かに狭いが、窓際にちょこんとなぜか桜桃が置いてあるその部屋が、気に入ってよく使っていた。もちろんお使いくださいと番頭が頭を下げるのを見て、早速件の部屋へと向かった。しばらくすると、酒を乗せた盆をたどたどしく持った娘がやってきた。なるほど、流石に二日目ともなればまだ客を取ったこともないだろう。
「お前、名は何という」
「え……あ……小春、と申します……」
歳はいくつかと尋ねれば、十六だと言うから驚いた。少なからず化粧の加減もあるだろうが、二十歳かそこらかと思っていた。
「親に売られたのか」
「……いえ、自分から。妹が……病気、なのです……。それで、薬代を……」
この話が本当かどうかはわからない。客の同情を誘って金を落とさせようとするのはこの手の店の常套手段だからだ。健気に見せるための演技かもしれない。しかし、其れなら其れで此方は構わない。そんなことは百も承知で来ている。俺はただ欲が満たされればそれで良いのだ。
「随分と妹想いなのだな」
「はい、とても可愛らしい子なのです」
故郷に残してきた妹を思い出して笑うその表情に、あぁ今宵は本当に良い買い物をしたと思った。
「旦那様もご承知とは思いますが、わたくしはまだお客様を取ったことがありません。それ故、粗相など……」
「案ずるな。客の取り方なぞ俺が手鳥足取り教えてやろう」
敷かれた布団に小春を引き込むと、穢れを知らぬ肌に触れる度に初々しい反応を彼女は見せる。これが芝居でないなら末恐ろしい娘だ。男心をくすぐり、煽ることを自然とやってのけるとは。手ほどきとは初めだけで、後は思う存分こちらの欲望を満たすためだけに精魂果てるまで抱いてやった。
***
空が白み始めた頃、疲れ果ててすっかり眠り込んでいる小春を起こさぬよう、静かに身支度を済ませて部屋を出た。枕元には、それなりにまとまった金の入った袋と手紙を置いてきた。すぐにでも小春を買い上げること、置いた金はその頭金で足りない分は、小春を連れてくる際に、記した俺の別宅に取りに来いとしたためた。
そうして一夜の余韻を噛みしめつつ、現実という名の自宅へと戻った。
「おかえりなさいませ」
未だ鶏すら鳴かぬ早朝にも関わらず、妻の聡子はきちんと身支度した姿で出迎えた。だがその表情には隠し切れない疲労が滲んでいる。子ども二人の面倒を見るのはいかにも大変だったと言わんばかりのそれを察してくれとでも言いたそうに笑うところは嫌いだ。だが、昨夜どこにいただの、どうして帰って来なかっただの、あれこれ詮索してこないところは気に入っている。無論、それは自分も同じだからだ。俺は密かに聡子が他の男と蜜になっているのを知っている。子どもたちとて、滅多に顔を見せない実父よりも遊んでくれる他所の男の方が良いのだろう。お互いに別の相手を作っているのだから、余計な詮索は虫を藪を突いて蛇を出すようなものだ。
「また明日から仕事場に詰める。子どもたちにもそう伝えてくれ」
「……畏まりました。……でも、たまにはあの子たちとも遊んであげてくださいね」
「わかっている。それと、お前もな」
昔は誰よりも美しくて、かなりの苦労をして手に入れた妻だったが、子どもを産んで以来どうにも女として見ることはなくなった。だが、夫婦仲に亀裂を作って挙句子どもたちだけ押し付けて離婚だなんだと騒がれては面倒だ。だからある程度の頻度で抱いてやらねばならぬ。本心を気取られぬようやや強引に抱き寄せると、不意に脳裏を小春の顔が過った。
―あぁ……桜桃が食べたい。
***
突然、目の前の文字が赤黒く染まった。ひゅうひゅうと喘鳴音が部屋に響き渡る。息が上手く吸えずその場にばたりと倒れ込む。からんと文机の上に置いた万年筆が転がった。僕が咳き込んで倒れたのを聞きつけて、慌てて妻が駆け込んできて背中を優しくさすってくれた。
「あなた、大丈夫ですか?」
「あぁ……心配ない。ちょっと空気が乾燥していただけだよ」
不安そうに顔を覗き込んでくる妻の手を、そっと握った。いつの間に彼女の細い指よりも僕の手は細くなってしまったのだろう。懐紙で口元を拭って、妻が持ってきてくれた水を一気に飲み干す。ようやく生きた心地がした。
「少しお休みになっては如何ですか?お医者様からもしっかり養生するようにと言われているでしょう」
「そう……だな……」
この身体もいつまでもつかわからない。医者の見立てでは良くて年内と言っていたが、もっと早いかもしれない。恐怖が全身を駆け巡る。日に日に弱っていくのが分かっているからこそ、その時が来てしまうのが本当に恐ろしい。
「しっかりしてください!」
妻の声ではっと我に返った。涙をめいっぱい瞳に貯めて、それでも泣くまいと必死に気丈に振る舞う彼女は、男の僕よりもずっと強い。
「また次の春には美味しい桜桃を食べさせてやると約束してくださったでしょう?」
……そうだ。彼女の大好物だから、絶対に連れていくと約束したのだ。指切りもして、嘘をついたら針千本ではなく万本飲ます、と。
「あぁ……僕もまた君と一緒に桜桃が食べたいよ」
掠れた声でそう呟いて、僕は静かにペンを置いた。
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