承:出会いいろいろ
昼間の行脚は追ってきているかもしれない奉行らをかわし、睡眠を経て夜は影から逃げ隠れる。長崎にいたころの日常とは寝起きの時間が大きく違い、心身ともに疲労が蓄積しているのを感じる。伊勢へのまだまだ長い旅路には、一度しっかりとした休息が必要だった。
※
この日ノ本に住まう人の数は見当もつかない。見当もつかないほど多いが、それが自分の人生に関わるわけではなく、普段はそれを気にする必要もない。しかし長旅のなかで久しい故郷を想うと、どれだけの往来があろうと知っている顔がないというのは寂しいものがある。眠りのうちで夢を見ても、旅先で出会った者たちはなぜかまだ現れない。
端的にいえば、おれは長崎が恋しくなっていた。
「だから顔見れて嬉しいぜ。湯治か?」
「たわけ! わぬしを追ってきたのだ!」
トビがそう叫んで立ち上がった。
場所は有馬、
「あれ、本当にホンモノ? 本当にトビ?」
「確証も持てぬうちからそのような話しかけかたをするのか……?」
呆れた様子の彼女に、おれは食べていた饅頭と隣の席をおすそ分けた。『たいこうさま』も認めたとかいう饅頭屋の店先で長椅子に腰かけ、二人で道行く者を眺める。
長崎奉行のトビといえば、少なくとも彼の地で名を知らぬ者はいない。奉行飛脚という役で各国を渡り、ときには武をもって事件を解決する。おれは飢饉の際、薩摩の一件でずいぶんと世話になった。岩のような大男だの
「意外と知られてるんだよな。普段は街中でおつかいとかしてるし」
「急にどうした」
「というかこんなところまできて、
「あのなぁ。わたしの本来の仕事はこれだ。ここで会えてよかった」
「わざわざご苦労なことを」
「追ってこいという意図を巡らせていたのはわぬしのほうだ」
トビが饅頭をぱくりと口にくわえた。うまかろう。
彼女の推察はおおよそ当たっている。お雪がどちらかというと口が軽いことと、トビと仲がいいことを併せて考えるとこの状況は予見できなかったわけではなかった。本来ならば九州か
「『写し』の件でちょっと話したいことがあってな」
「ああ、わたしもだ。まったくもって度し難い。いくらわぬしでもやっていいことと悪いことはある」
「庇いきれることと庇いきれないこと、だろ?」
「それはわぬしがいう言葉ではない!」
怒られた。いや、それはいまはいい。
おれはだんだんと暗くなってきた街を眺め、ふと考える。灯りがだんだんと広がり、もうすぐ夜だというのに人が減る気配はない。長崎もそれなりに人が多いほうだとは思うが、さすがは有馬といったところか。
こんななかでも、かの影はやってくるのか。夜更けは万が一をなるべく他人を避けてきた。はてさて。
そんなことを思っていると、饅頭屋の男店主から唐突に声がかかった。
「ご両人、今晩の宿はお決まりですかい? いいとこを紹介できますぜ」
おれとトビは顔を見合わせた。
「温泉が近くにある店はお侍さまや商人さまのための場所ばっかですから、いい場所ってのは限られてやす。へへ、お食事のお礼と綺麗な奥さんに免じて、よろしければいまからでも泊まれるようはからいやす」
「いや、わたしは奥さんでは――」
「そりゃあ助かる。ちょうど参ってたところでね」
「ちょっと待て! 話を遮るんじゃない!」
少しばかり無視していた隣に、いま思い出したかのように重要なことを訊いてみる。
「ときにトビ。たとえば姿かたちのない相手でも、鉄拳は通用するか?」
脈絡のない質問に、トビは目をパチクリとさせて首を傾げた。
※
「そのような話を信じるとでも思ったのか?」
「事実だ」
夜、紹介された宿の一角。意匠が施された行燈を挟んで、おれはこれまでの旅程についての説明を終えた。
怪異の話も包み隠さず話した結果、トビがおれを見る目は明らかに憐憫のそれになっている。
「事実と主張されるほうが心配だ。長旅で疲れているのか? ちゃんとご飯は食べているのか?」
話して損した。いや、冷静になればやはりおれが幻覚を見ているだけなのか。
バカバカしい。そういって鼻を鳴らしたトビが、一応しっかりと話を聞いてくれたのは事実だ。感謝の言葉を述べてから、いやいやしかしと考え込む。
仮に道中でやつらに捕まっていたとすれば、おそらくおれの旅はそこで終わっていたはずだ。それには妙な確信があった。根源的な、たとえば死という存在に、やつらはきわめて近い。おれは本能でそう感じ取っていた。
「わたしから一つ問うていいか?」
トビの言葉に、おれは思考を止めて頷いた。
「山陽をまるで徒歩で進んだような話ぶりだったが」
「そうだな」
「わたしはわぬしが長崎を出たすぐあとを追って、瀬戸内海を舟で進んだんだ」
「そうなのか」
「どんな速度で歩いたんだ?」
「普通に歩いただけだ。疑ってるのか?
「旅の話を聞きたいのではない」
トビはそういったが、結局どういう話をしたかったのかはわからなかった。庶民向けの温泉は陽が照っている間だけだから、おれもトビもそのあといくつかの会話を交わしてひと眠りした。今夜やつらが現れてくれるかどうかで、おれの旅路はだいぶ変わる。現れなければそれでよし。長崎に連れ戻されないよう、トビから逃げるだけでいい。いまはなんらかの事情のもと見逃されているが、おれには関係のないことだ。
しかし、というかやはりというか、やつらの気配はいつも通り、夜が更けるにつれて濃くなっていった。宿泊費はすでに払ってあるから、いざとなれば宿を飛び出せる。おれは横になっていたトビを揺さぶったが、心地よさそうな寝息は一向に途切れる気配を見せなかった。
「すやっすやじゃねえか」
「案ずるな。狙いはヌシよ」
気配は遠いのに、声の主はまるで耳元で囁いたようだった。これは大鎌の主ではない。やや女性のような響きを持つ、もう一方の影の声だ。
トビのことを信じるなら、同じく追っ手であるやつらの言葉も信じなければ一貫性に欠ける。
おれは勢いよく襖を開け、宿を飛び出した。
※
大坂を抜け、次の目的地は
シロと名乗った彼は人語を解する白い犬だ。さらに不思議なことに、シロ
有馬を脱出するために協力してくれたシロ公は、話によればなんと偶然にも同じく伊勢を目指しているらしい。なんと長旅に耐えかねるご主人に代わり、単身で
さて、実はシロ
ひとことでいえば行き倒れだ。これも縁ということで、おれたちは彼を助けることにした。しかし近くの村の医者によれば彼は単なる空腹ではなく病に冒されており、解決にはもっと名のある医者が必要だった。ニセモノを作ろうにも、さすがに人体や薬学に関する経験は積んでいない。
その名医のアテが、京を見回ったシロ公にはあるらしかった。
先行して医者を捜しておくというシロ公にどう合流するのかと問うと、
「ワシをなんと心得る」
シロ公はふふんと自慢の鼻を鳴らして答えとした。
実際におれが京へ着くとすぐに出迎えてくれたから、少なくとも行き倒れの男はシロ公に感謝するべきだろう。
男を診たのは壮年の医者で、江戸ではなかなかの有名人だという。その腕前はたしかで、血の気が引いていた男の顔色は、みるみるよくなっていった。シロ公や医者曰く、おれのほうがよっぽど土気色だという。大きなお世話だ。
利口な犬を見られた礼と親切にも医者は自宅を宿として提供してくれた。夜の件もあってはじめは断ったのだが、おれが語る怪異に医者は興味を持ってしまったらしい。それが真実なら宿と飯代は要らぬとまでいわれてしまい、おれはしぶしぶ宿泊に了承した。
そしてその夜、おれはトビ以来である他人とともにある夜を迎えたのだが、そこで妙な事実が判明してしまった。医者にはやつらが見えなかったのだ。見えないばかりか声すら聞こえない。巻き込むことがないのは助かるが、京の街を逃げ回るおれの姿がどう見えたことか。しかもシロ公の言葉がわかるのもおれだけというおまけつきだ。
しかし幸か不幸かその必死さを、医者は大真面目な顔で受け入れてくれた。
夜明けを迎えたばかりの街で、おれの説明に医者はふむと考え込む。
「っていうわけで、おれにも心当たりはない。たしかなのは、連中はおれを追ってるってことと、おれに対抗手段がないってことだ」
「なるほどな。触れられぬ怪異か……」
医者がおれをじっと見る。見定めるような目に、おれは視線を外さずに医者の言葉を待った。
「一人、紹介したい人物がいる。相当に歳で患ってもいるから、期待はしないでほしい。だが、見舞いついでに、事情を話してみるといい」
※
果たしてどのような者を紹介してくれたのやら。おれとシロ公は、はっきりといえばなにかを解決してくれる期待はしていなかった。医者に一飯をいただいた礼に、見舞いに訪れたようなものだ。
だから家の縁側に文字通りの全身が白く光り輝く男が現れたとき、おれは本気で困惑した。逆立った長髪が特徴の若い男は、その異様な眩しさや傾奇者のような風貌とは裏腹に丁寧に接してくれた。おれたちが医者の代わりに見舞いで訪れたことにも、怪異のことにも等しく耳を傾けてくれた。
家にあった湯を沸かし、縁側に座ったままの男の言葉をおれたちは待った。
「拙者が思うに、それぁおそらく
「しに、がみ? なんだそれ」
「死の勘定人、あるいは死を仕切る奉行。お前さん、死神の目算をくるわせた覚えは? 誰かを助けたりしたかい?」
「医者のとこに病人を運んだが、ありゃ大坂の近くだぜ。やつらが現れたのはそのずっと前で……あっ」
シロ公が首を傾げ、輝く男は満足した様子で頷いた。
もしかして、先の飢饉の件なのか。大勢が飢え死にしようとしていたところに芋を配ったことを、おれは思い出していた。
「さて、そうだとすると厄介じゃないか。この世のものではないなら、刀も矢も通じんに違いない」
「だから困ってる」
「ふふ、わかってるさ」
おれと輝く男の会話に、シロ公が鼻を鳴らした。
「シニガミなんてそんなもん、ワシぁ信じられんな……」
「見えるものが真実さ。見えぬものにも真実はあるがね」
男を初めて見たときかそれ以上におれとシロ公は驚かされた。医者を含めたこれまで出会った者たちによれば、シロ公の声は傍にはワンとしか聞こえないはずなのに。
「何者なんだ、あんた」
「いま重要なのは、拙者が何者であるかではない。拙者が助けになれるかどうかだ。だから拙者はお前さんたちに『発明』を託したい。興味あるか?」
病で上手く動けないという男に代わって小屋から二つの箱を持ってきたおれは、指示に従って収められていた
「今晩はここに留まるといい。その杖の使い方は実戦で試したほうが早いだろう」
「実戦ってなんだ? だからあいつらにはこういうのは無意味で……」
そこまでいって、おれは男の自信に満ちた顔に気づいた。
男は口端を持ち上げ、もう一つの印籠を渡すようにいった。漆を纏った上等な印籠は二つあり、一見中身に細工はなさそうだったが、開けたうちの空間が妙に狭いことにおれは気づいた。
「『
雷印とやらを手に、いわれるがままに外に出る。五間ほど離れたところで、突然謎の音とともに印籠から男のくぐもった声が聞こえ、おれはうっかりそれを落としそうになってしまった。
<取り落とすなよ。この世に二つしかないんだからな>
「なんだこれ。どこから声が」
<隔地間伝達装置だ。離れた位置にいても、これなら意思の疎通が可能だろう>
「どういう技術なんだ」
<それは秘密にしておく。だがこれで拙者の発明もニセモノとは思わんだろう>
いつの間にか陽は落ちかけている。またやつらの時間がくる。
しかし、いままでとは違う。握り締めた雷印を手に、おれは息を呑んだ。
<反撃開始というわけだ。気分はどうだ?>
「悪くない」
旅に出てから、おれは初めて夜を心待ちにしていた。
贋作師のおかげ! 島津十勝 @tekkamaki-umai
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