少女戦

面川水面

第1話

 青を基調としたステンドグラスには伝説の少女神が描かれている。深い青のベールをかぶり、黄金の剣を前に突き出すその姿の周りには、赤くて小さいガラスがいくつも埋め込まれていた。攻撃を阻む鋼の甲冑、優雅に揺れる絹のドレス、舞い散る戦火と血潮。かの有名なモンテグリスの戦い、故郷を踏み荒らされ啼泣する民たちの前に軍神が現れ彼らを守った何百年も前の光景だ。

 ステンドグラスは光を受けて、石造りの聖堂の床に色を映している。砂埃が薄くつもり長らく人の手が入らなかった床に、海底に光が差したような青く淡い影が落ちていた。

 その上を温かい血が流れた。まだ体から零れ落ちたばかりの血液は石と石の溝の間に入り、その直線に少しばかり従ったが、乾ききった砂たちに吸い込まれて止まった。

 人が30人は収容できる聖堂には二人の少女と一匹の怪物がいた。カーキ色の軍用シャツを着た少女は振りかぶった姿勢のまま怪物の喉にナイフを突き立てている。手のひらほどの刃渡り全体が痙攣する灰色の皮膚に埋まり、その刃と皮膚の間から温かい血がぽたぽたと落ちた。血は少女の手や顔を汚した。少女は構わず顔をあげて怪物の目を見上げる。

 イルカのように前に突き出た鼻のすぐ横に、顔の面積に対して大きすぎるほどの赤い目がある。その目の黒い瞳孔がはっきりと収縮した。

「やって!」

 その言葉にばねの様にもう一人の少女が跳んだ。白いケープをたなびかせる少女の手には小さめの木を切る用の斧がある。空中で横に振りかぶり、刃を床と水平にして怪物の背中に狙いを定めた。怪物の2メートルはあるであろう背の部分、固い灰色の鱗で覆われたそこから肉の裂け目ができると、黒いパンパンに膨れた風船のような球体がせりあがってきた。それを認めると、少女は斧を黒い球体に向かって振り下ろした。

 グジュッ

 裂け目と十字になるように斧はたたきつけられた。球体は中に詰まっていた液体をこぼして真っ二つになる。こぼれた紫色の液体はひどい悪臭がした。煮詰め切ったタールのような匂いだった。それを毒だと知っている少女は斧をそのままに手を離した。斧は球体に突き刺さったままだ。

「潰したわ」

「そう」

 二人の口調は事務的だった。できる限り感情をそぎ落として、ただ意味だけを音にしている。共闘が終わったばかりなのに目すら合わせず、相手の傷の心配もしない。机に向かい合ってお茶を飲みながら談笑していそうな同じ年頃の少女たちだが、間には怪物の血さえ凍りつきそうなほど冷えた空気があった。



 戦争が始まったのは私が生まれる3年前。サン=ルミニールの殉教からちょうど100年が経った年で、ということはあの国と袂を分かってから150年が経ったという年ということだ。その独立150年の輝かしい記念日から今日までの19年間を、休戦を挟みながらも私の国とあの国は戦争をしている。そしてまだ終わらないだろう。だってあの国は神様のことを邪神と呼び、私たちをその僕と言い続けているから。

 他国の人間を生贄にささげる儀式? 高圧的で暴力も辞さない布教活動?

 どれもまったく実態とはかけ離れているのに、それを理由に武装をした兵は国境の壁を破壊した。警備役を捕縛し、要所を鎮圧していまだに我が物顔で居座っている。

 富にしか興味のない愚かな人種。快楽に依存して、次へまた次へ、もっともっとと際限なく欲望を腹の底で蠢かせる。彼らの顔は落ちている金貨を探すために目が大きくて、一度にたくさん頬張れるように口の幅が広いのだと、私を育てた司教様がおっしゃっていた。見た目が同じ人間でも、中身はまったくの別物だよ、とも。

 だから私は戦場へ行くまで恐ろしかった。兵士になる前もそうだったし、寺院から抜擢されて訓練を受けていたときも、何度も目と口の大きい化け物にむっしゃむっしゃと頭から食べられる夢を見た。そんな夢から覚めた朝は、練習用の木刀を持って部屋から出て訓練場の隅でひたすら振って過ごした。

 夢の怪物の目に突き刺して、口を横なぎに払った。じゃらじゃらと金の装飾を付けた巨大な手を、振りかぶった剣で手首から落とした。腰を低くして国土を荒らす足の健を切った。複数で迫ってくるそれの醜く膨れた腹を割いて回った。時には背後から腕を巻き付けて絞め殺した。夢だけではなく、訓練中にそれが現れるようになる頃には模擬戦闘で負けることがなくなった。仲間たちから頼もしいと言われ、自分の身を守るだけでは足りないと知った。

 夢の中の怪物は仲間をむっしゃむっしゃと食べていく。

 礼節を重んじ、常に他者を気にかけて、愛と信仰心であふれた敬虔な仲間たちを。

国の南北を隔てる川の橋が破られたことにより首都への侵攻の危機が高まった。そのためまだ訓練期間が浅い私たちも前線へ送られることになった。自暴自棄だった。自分の命一つであの国の人間を全員皆殺しにしようと、本気で考えていた。

 私は底まで澄んだ池の水にハンカチを付けた。それを絞ってまず顔の右半分を拭いて、次に左半分を拭いた。それだけで血や砂埃などのよごれがびっくりするくらいハンカチにつく。私は池の水でハンカチを洗い、胸から足へと順に拭いていった。

 池は人工のものだった。中庭の壁に空いた四角い穴からきれいな水が池に注いでいる。クレア川かその川が分岐した先の水だ。私も彼女もクレア川の氾濫に飲み込まれて気づいたらここにいた。広大な城のような建物の中の唯一安全な中庭。

 彼女は中庭の出入り口で見張りをしている。全身カーキ色の戦闘服に黒い頑丈そうなブーツ、手には血で黒ずんだ槍がある。焦げ茶色の前髪の分け目から黒い瞳が中庭の門を見つめている。それでもこちらを警戒しているのはわかった。

 彼女の腕には腕章がある。赤い腕章、あの国の国旗の模様が入った腕章だ。

 私は彼女の姿から眼を外した。

 中庭は人の手で整えられてはいないがきれいだった。生垣には桃色と白の花が混じったランタナが咲いているし、ところどころに植えられた金木犀はたくさんの花をつけて重く垂れさがっている。池から流れた水は小さな水路を通って中庭を囲った堀に注いでいる。

 堀のそばに赤いコスモスが咲いていた。風に揺れて長い茎が横に傾く。それが首をかしげているようでかわいらしかった。



 戦争が始まって19年経つらしい。私が生まれた時には雨の日に取り込み損ねた洗濯物みたいに国中に戦争がしみ込んでて、あの国のいい話はちっとも聞かなかった。

 国外から人をさらって生贄にしてるだとか、聖堂で黒魔術を行っているだとか。

 雨が降らないと生贄をささげる風習はあちこちあるらしいし、時たま現れる魔術師の良し悪しなんてわからない。だけど朝ごはんのパンがだんだんパサパサで固くなっていくのは堪えた。それに賃金が下がるのも。私があと3年早く生まれていれば、少しの間はふっくらしたパンをお腹いっぱい食べれたり、仕事に困らずにすんだのかな。

 母が言うにはそんな時期もあったようだ。想像もつかないけどね。

 幸い私は手先が器用だったから軍用制服の針子の仕事があった。型紙から切り出された布をずっとちくちくちくちくする仕事。朝から晩まで働いて、やっと私と弟と母が食べていける。日に日にスープは薄くなるし、パンは固くなっていくけれどないよりましだ。それにあの時積み荷が崩れなければお父さんは死なずにすんだのに、と耕作の機械が私の右腕を奪ったが口癖の母の相手をしなくていいのも嬉しかった。欠けて使えない木製のボタンを集めて友達と不格好なネックレスを作るのも楽しい。

 私が生まれたのも育ったのも国の一番北のほうで、あの国と国境を接している南側からはずいぶん離れている。それでも職場が職場だから戦争の話は毎日話題に上った。

「近く士官の選抜試験あるらしいじゃんね」

 いつも隣の席に座る彼女は口も回るがそれと連動するかのように手も早い。私も仲間たちの中では早い自信があったけれど、彼女のマシンガントーク(最高速度)の時に比べれば大したことない気がする。

「あんた行くの?」

「馬鹿言わないでよ。私が受かるわけないじゃない。身体検査でよしんば通ったとしても、筆記試験で即落ちよ、即落ち。それに何年もここを離れなきゃなんないしさぁ。子供はまだ手が離れないし、どの道無理なのよ。でもあんたの弟なら再来年いけるかもしれないでしょ。頭いいんだから問題集買って、体ちょっと鍛えればもしかしたらね」

 2つ下の弟は確かに頭がいい。話をすぐに理解するし、この町で一番本を持っているじいさんと知り合いで本もたくさん読むから知ってることも多い。彼女の言う通り、2年間あれば試験には十分間にあう。しかしどうしたって問題集を買うお金なんてない。

「兵隊って、ここよりお給料いいのかな」

 私がつぶやくと、彼女は手を止めて大笑いした。

「少なくともここよりずっといいよ!」

 そんな会話をした6ヶ月後には私は戦場にいた。

 私は中庭に実った無花果を食べた。よく熟れていて中の小さな種すらうっとりするほどの甘さに思える。食べられるギリギリまで食べて皮を土に放った。こうすればここに咲く無数の花の養分になるだろう。

 布に針を刺すのに代わって、槍やナイフで敵を刺すのが仕事になった。他にも補給とかいろいろあるけど、とにかくあの国の天使面した悪魔を殺せと言われたからそれが主な仕事だ。散々歩いた後でも、つかの間の食事の最中でも、敵の姿あれば槍を持って駆け付けなければいけない。白いケープを羽織って剣を携えた彼女たちは私たちを見つけると、目をギラギラとさせて剣を振ってくる。たしかに天使面した悪魔だ。

 無花果を縦に割いて中の赤い果実を頬張った。ほんのり酸っぱくてじゅわっと甘い。母や弟にも食べさせてやりたい。私たちが勝って戦争が終わったら、パサパサのパンじゃなくこんなに美味しい果物を食べられるだろう。

 中庭の出入り口に白いケープを着た金髪の少女が立っている。ケープはやや薄汚れているが上等な布を使っているようで破れやほつれがない。金属のボタンが射した光で白く光った。そのボタンの近くにはあの国の国旗の刺繍がある。糸の一本一本が兵隊みたいにきっちり並んだ、精密な刺繍。門の外を警戒していても視線に気づいたのか、彼女が振り返る。

 私はその青い瞳を目の端に中庭の花々を見やった。

 中庭の風景は今まで見たことがないくらいきれいだった。ずっと小さいころに父に聞かされたおとぎ話の楽園のような場所で、妖精がいてもおかしくないと思う。

 そこらじゅうで大輪のパンジーが日の光を浴びているし、レンガの壁の前には草丈の低いマリーゴールドが鮮やかに咲いている。

 私の足元には澄んだ水の流れる水路があって中庭を囲った堀に注いでいた。

 堀のそばに赤いコスモスが咲いている。風に揺れて長い茎が横に傾く。それが首をかしげているようでかわいらしかった。



「中央左の部屋をもう一度見たいの。襲われて全然部屋の中を見れなかったから」

 私はケープの下に入れていた袋に、中庭に生えるハーブのような頭がすっきりする匂いの草を入れながら彼女に提案した。この草はあの怪物が嫌う匂いのようで、おかげでこの中庭には近づかないし、袋にいれて持ち歩けば一時間は同様の効果を発揮する。タンポポの葉によく似た下向きにギザギザした薄い葉は、少し手に力を入れればぷつりととれた。

「あの大きなベッドがあった部屋のこと?」

「そうよ。前は時間がかかったけど、最短距離は15分だから少なくとも30分は安全に物色できる。もしかしたらあそこの部屋の窓なら開くかもしれないし」

 彼女は手書きの地図を右手の人差し指でなぞる。現在いる中庭から細い通路をまっすぐ進んで十字に伸びる大回廊に入り、十字の中心部分から西に折れた先の大広間の先にある左の部屋。

「だったら大回廊に入る前の食堂のベランダから大広間のベランダに移ったほうが早い。前に渡した梯子がそのままなら渡れるはず」

 彼女の言う通りベランダとベランダの間に梯子をかけて通れるようにしていた。ハーブの効果も尽きて、武器もナイフ以外ない危機的状況で怪物に見つかったときのものだ。しかしあれを道と呼ぶには梯子は劣化が進み過ぎている。私は選択肢として初めから除外していたが、彼女としては十分に使える手段らしかった。

「あなたが先に渡るならそれでいいわ」

 彼女は口をへの字に曲げてうなずいた。

 互いにハーブをもって中庭を出た。怪物がハーブが苦手といっても獰猛な個体はそれに構わず追いかけてくることもある。彼女は前方を、私は後方を警戒しながら食堂に入り、ベンダに出た。彼女は持っていた縄で梯子とベランダの手すりを固定し、梯子を何回も叩いて耐久性を確かめると慎重に渡った。ベランダとベランダの間は2メートルないくらいだ。下は大きな谷で、一面真っ黒な口を開けている。

「ほら、大丈夫だった」

 彼女は渡り終えて向こうのほうでも梯子を縄で固定した。これで梯子がずれて落ちることはない。手前の変な結び目を確認したが、しっかりと梯子と手すりを縛っている。

 私が渡っている最中に彼女が縄を切って、梯子ごと私を谷に落とす想像が頭をかすめた。

 疑いのまなざしを向けた先の彼女は、梯子のほうより大広間に意識を向けている。

 大丈夫。あの怪物は二人いないと安全に倒せない。

 私はできるだけ下を見ないようにして梯子を渡った。

 目的地に着くと悪臭がした。タールを煮詰めたような匂いから、何日も放置した魚のような匂いにかわっていて思わずケープで鼻をおさえる。悪臭の原因は怪物の死体だ。前にこの部屋に来た時に最悪にも2匹の怪物に見つかり、1匹は倒せたもののあとは逃げるしかなかった。その時の怪物の死体が残っている。

「最悪、ひっどい匂い」

 彼女はそういいながらも死体に近づいて、その体をあちこち調べ始めた。私は早速窓が開かないかと観察した。窓の外からは遠い山が見える。雲が頂上を覆っている大きな山だが、どの山かはわからない。下をのぞくと1階と2階が見えた。もし開けば縄での脱出を試みるだろうけれど、残念なことに開閉用の突起はなかった。ガラスをあちこち叩いても瓶の底より厚い感触がある。他の部屋もそうだけれど、ここの建物は二人がかりで斧をふるってもわずかな傷しかつかないくらい固い。

 私は窓からの脱出をあきらめて部屋を物色することにした。

 部屋は誰かの寝室のようだった。それか休憩室のような場所なのかもしれない。華美とはいかない程度の装飾が施されたクリーム色のソファに、それと同じ色合いの大き目のベッド。カーテンは落ち着いた深い赤色で、全体的に落ち着いて重厚な雰囲気がある。家具は他に両手で抱えるくらいのチェストがあるだけだ。

 神様、どうか私が仲間のもとへ帰える方法をお与えください。

 剣の柄に添えていた左手を胸の前に持っていって右手と握り合わせた。ほんの一瞬だけ目を閉じて祈りをささげる。

 こんな風に同じ部隊の仲間は私の安らかな死を祈ったのかもしれない。自分でも川の氾濫に飲み込まれたときは死んだものと思った。中庭の池の縁で花畑を見た時は、ついに天国に迎え入れられたのだと。しかし隣に流れ着いた彼女を見て、ここが現実であるとすぐに目が覚めた。

 チェストの蓋に手をかけて押し上げるとなんなく開いた。もし鍵がかかっていれば手先の器用な彼女に開錠を頼んだだろう。すっかり協力態勢が身についてしまった自分に嫌悪感を覚える。2週間の間に彼女にできること、私にできることを互いに完全に把握していた。戦闘の技術や文字の読み書きの能力は私が高い、一方細かい作業や修理、ものづくりは彼女が得意だ。もともと後方支援で前線にいたのは何か事情があったのかもしれない。

 前線に回さなければいけないほど、あちらも人員が足りず追い込まれていればいい。

 チェストの中は無造作にくくった紙の束だった。横に長い線が紙一面に書いてある。線と線の間に丸い点がぽつぽつとついて、その他にもどこかで見たことがある記号が添えられている。楽譜らしい紙をめくって題名を探すと、凱旋の詩と記載されていた。

「凱旋の、詩……」

頭を殴られたような衝撃に楽譜を落とす。チェストの残りの紙の束の上に落ちて、ドサと音がした。

凱旋の詩はずいぶん昔に失われたはずだ。モンテグリスの戦いから凱旋を果たした軍神を讃えた詩は、その後の行方が分かっていない。伝説では再び眠りについた軍神とともに消えた要塞にあるという。

 ということはここはその要塞かもしれない。もとは教会でのちに攻撃に備えて要塞となったアナディオ教会。伝説となってもなお探し求める人が後を絶たず、永遠の夢とされてきた幻の聖地。

 あの憧れの場所にいる。

 ずっと空を覆う厚ぼったい雲の隙間から、日の光が差し込んだ気分だ。怪物がうろうろする広大な建物の中に閉じ込められたような状況でも、神様の御手に抱かれているようなものだ。私にここを見つけさせたかったのかもしれない。だとすれば国にはここが必要なのだ。軍神の眠る大地の恩恵はきっとこの戦争を終わらせ、私たちを勝利へ導くだろう。

 吉報を持ち帰ることを想像し、ここに来て初めての笑みが浮かんだ。しかし一つの気がかりな点をすぐさま思い出し、緩んだ顔を引き締める。

 やっぱりここを渡してはいけない。

 首を動かさず視線だけ横にずらして彼女を見ると、怪物の死体を観察するのに夢中だった。この固い皮や立派な角、強い毒は高値で売れるだろうと、彼女がこぼしたのを聞いたことがある。あの国がここを知れば踏み荒らされて、中にあるこの貴重な楽譜やそれ以上のものが紛失してしまうだろう。

 怪物は二人じゃないと倒せない。それに一人ではここを脱出するのも難しい。

 ここを出た時だ。ここを出た時、私は彼女を―――。



 祈るな、手がふさがるだけだ。

 馬車がひっきりなしに行き来し、せわしない人の足が駆けてゆく。私はそんな往来で場違いに神に祈った。父が死んだ夏の日だった。固く握りあった両手をすれ違った男が乱暴に開かせる。

「握った手じゃ金はつかめない」

「父が死んだんです」

「じゃあお前がその分稼がなくちゃな。ぼうっと立ってねえでよ。水を汲んで運べば小銭が手に入る。他にも町の端から端まで物を届ける、金屑を集める、靴を磨く」

「父はお金じゃかえってきません」

「お前が生きる金だ」

 そう言って男は去っていった。茶色の長いローブの男で、顔は見えなかった。ブーツが砂でざらざらな道をジャリ、ジャリと踏みしめてどんどん遠くへ行く。真っ赤な夕日がローブの影を照らし、荒野の王のような彼は針の先よりも小さくなって消えた。

開いたままの私の手には何もない。

 私は怪物のやわらかい喉の皮膚と固い鎧のような部分の継ぎ目にナイフを当てた。横に滑らせてその継ぎ目を切ろうとしたが、ナイフが進まない。左右に何度も振っても一向に手ごたえがなかった。

 2日放置した死体でも無理、と。

 腐敗が進めば解体もできるようになるかと思ったが検討外れだ。この鎧も角もきっと高値で売れるだろうに、こうも手間がかかるとあまり儲けに期待はできない。残りは毒だ。少しかかっただけでもその部分がしびれて動けなくなるほか、触覚や痛覚も鈍くなる。毒は薬、薬は高価。

 こんなことを考えているのを知れば彼女はきっと怒りだすだろう。あの綺麗なブロンドの髪を逆立てて、汚いだ、醜いだ言い出すに違いない。

 私は中腰のまま怪物の背に移動した。腐臭と毒の悪臭が強くなって涙がでる。ポケットにあるぼろきれで鼻と口を覆って、頭の後ろで結んだ。ないよりましだ。

 怪物に初めて出くわしたのはここに来た初日で、池でほぼ同時に目を覚ました私たちは当然のように取っ組み合いになり中庭を転がり出た。互いに体力は底につくギリギリで、石でもなんでも必要だと近くの部屋に飛び込んだ先に運悪く怪物がいた。悲鳴を上げて、遮蔽物の多い中庭に逃げたら追ってくることはなく、そのまま怪物はそっぽを向いて戻っていった。その数秒後に同じように彼女が逃げ込んできて生垣に頭から突っ込んだ。

 背中にあるつぶれた球体から濃い紫色の液体が飛び散っている。濃い赤の絨毯に黒くしみとなって蝶の羽のような模様を作っていた。

 毒の効果は少しかかっただけで約10分。もし全身にかぶったら呼吸困難を引き起こすかもしれない。それに目に入ってしまって失明もありうる。口から接種したら? 

たとえば、そう、この悪臭の中で気づかれないようにさっきの無花果に仕込む。方法は簡単だ。お昼を食べようと言って無花果を切る。ナイフの片面に薄く毒を塗って、その面が接した方を彼女に渡す。私が何も知らぬ顔で食べれば彼女も口に運ぶだろう。さっき渡った梯子みたいに、最初の方はいぶかしんで、そして私が他の事に注意を向けていれば、あの天使はおっかなびっくり信用の橋を渡り出す。

「なんてねー」

 そんなことすれば私が怪物にやられてしまう。怪物の喉の急所を突くと、背中に亀裂が入って毒の袋が出てくる。その球体はすぐさま破裂し、怪物の全身を覆うほどの毒をまき散らす。急所を突いた瞬間その球体を跳ね飛ばせばいいのだが、言うは易しだ。安全策で対抗策で唯一の策は二人がかりで狩るしかない。

 それにこの建物にあるややこしい文字を私は読めない。神代に使われていた文字だとか彼女は言っていた。読み方どころか発音もわからないため、ここを抜けるには彼女の教養が必要だ。

必要だから利用する。必要なくなったら、邪魔なだけだ。邪魔どころではない、ここの本来の価値を知る彼女はきっとここを保護しようと考えているはずだ。そうなればこの怪物を売りさばくことができなくなる。特産品のない私たちの国の強みになるかもしれないのに。

一、怪物を狩る許可をあの国に求める。二、あの国が狩った怪物を買う。三、怪物を狩る許可と引き換えにここに来るあの国の人間を守る。四、ここの領地を主張する。五、そもそもここを知られずに独占する。

 食べてみたい。真っ白でふかふかでやわらかいパン。外側をカリッと焼いて、かぶりつくとほどけるようにちぎれて、舌触りはしっとりしたパン。惜しみなく夢みたいに甘いジャムを付けて。たっぷりと、とろけてあふれるバターを塗って。お腹いっぱい食べてみたい。

 私はマスクで見えないのをいいことに、目の下が口の端が届きそうなほどにっこり笑って、ナイフで強烈な悪臭を放つ毒をすくい上げた。



「いったん中庭に帰りましょう。この悪臭で気持ち悪くなってきたわ」

 チェストの前にいた少女が腰を上げる。紙切れを数枚ポケットにしまったのがもう一人の少女には見えたが、それについては何も言わずに同意した。

「時間はあるし帰りはベランダはやめておきましょう」

「なんで? 大回廊を通ると見つかりやすいじゃん。それにまだ耐久あるから大丈夫だって」

 彼女のいうことは本当で、ギシギシと音が鳴るものの渡っている間はびくともしなかった。手でつかんだ部分もまだしっかりと木の芯が感じられる。縄で強く固定もしたため、梯子は立派な橋になった。

「なに、高いところ怖いの?」

「怖いも何も、あんなところから落ちたら死んじゃうじゃない」

「ならまた私が先に渡ればいいんでしょ。ほら行くよ、あれに会わないのが一番の安全策なんだから」

 2人がベランダに戻ると、さあどうぞとばかりに梯子がある。茶髪の少女はその上に乗ると、慎重にだが怖がった様子は微塵もなく渡り切った。

一方金髪の少女はそっと梯子にひざをついて、両脇の木を強く握りしめる。顔は頑として下に向けないという意思が感じられた。

梯子の向こうでは、その姿にやれやれとあきれて眉を下げた表情を浮かべている。

「もう、さっさと行くよ」

 手を差し伸べると、自然な動作で手が重なった。二人ともあまりにも無意識だったので、どちらも同時に呆けた顔になる。

 水色の二対の瞳に、まだ子供の影が残る少女の姿がうつっていた。

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