第3話

「それで?」

 少女の少し高い声が溶けるように耳に入り込む。懐かしいような新鮮なような不思議な感覚だった。

「なんでこんな深夜にこんなとこにいるの?」

「それは君もだろ」

 俺はあえて警戒心を隠さないような声色を出した。学生とはいえ初対面の相手に敬語を使わないのは気が引けたが相手がそうするのだからこちらもそうする他ないように思えた。

「私はここに住んでるからいいの」

 彼女はおもちゃの片付けを命じられた幼稚園児のように口を尖らせてみせた。その仕草はどこかわざとらしく、むしろ喜びに溢れているようにも見えた。

 苦手なタイプだ、と俺は心の中で毒づく。

「その歳で家がないなんて苦労人なんだな」

「そうじゃなくて……ってなんか怒ってる?」

「一人の時間を邪魔されたからな。むしろなんで怒られないと思った?」

「なんか寂しそうだったから、大丈夫かなーって」

 言い返そうと口を開いたところで、自分の胸に奇妙な感情を抱いているのに気づいて止めた。それは汚れた泥水をせき止めていた栓を抜いたような、何かが流れ出ていくようなそんなイメージの感情だった。

「どうしたの?」

 もう一度目線を上げて少女の顔を見る。ほんの一瞬ではあったが彼女の大きな黒目に一人の頬がこけた男が映っているのが見えた。その瞳には幼い憂慮とあどけない興味の色に見開かれていた。

「いや」

 言って俺はまたブランコを漕ぎ始めた。前後に揺れるたびに冷気が肌をなぞっていくのが妙に心地よかった。

「変なひと」

 彼女はおかしそうに笑った。

 スマホを取り出してロックを解除すると時刻以外何も変化のないホーム画面が午前2時を少し過ぎていることを知らせている。

「それってそんなに便利なの?」

 少女が揺れるスマホを目で追うようにしてそう尋ねる。

「持ってないのか?」

「……買ってもらってない」

「最近は中学生もスマホ持ってるもんだと思ってたけど」

「別にいいじゃん」

 そのとおりだ。彼女がスマホを持っていようがいまいが俺にはどうでもいいはずだ。自分でもこのやりとりの意味がよくわからなくなる。俺はこの少女に何を期待しているのだろう。

 ブランコを止めて立ち上がる。途端に今まであった浮遊感が霧散し自分が重力の支配を受けていたことを思い出す。

「帰るの?」

 今度は少女がブランコを漕ぎ出す。その声にはどこか淋しげな響きがあるような気がした。

「いや」

 俺は上手く発音できない外国語を話すように慎重に口を開いた。

「帰りたくないんだ」

 ブランコのまき立てる六月の冷ややかな空気は運動を止めた身体から容赦なく体温を奪い、わずかな汗を乾かし、震えを全身に伝えた。

いっそ出し抜けに駆け出してしまいたくなる衝動に駆られたが、少女から逃げたような格好になるのは本意ではない。静かに別れを告げようと彼女の方に向き直る。

 途端、そこに座っていたはずの彼女の体が宙を舞った。シャツの裾、髪の先、細く白い両腕。その瞬間彼女のそういったあらゆる要素がほつれて広がり、彼女は大きな一羽の鳥のように見えた。巨大な翼を翻し、何者をも省みず、ただ風のなすままにどこまでも飛行する自由な姿を俺はそこに見た。鳥は砂を巻き上げ、そっと地面に降り立つ。何百、何千回もそうして羽を休めてきたかのように。

「じゃあどこ行く?」


 団地の近くには寄り添うようにして巨大なマンションが建っている。途方もない人数を詰め込んだそのコンクリートの箱は何かを囲うようにそびえており、部屋ごとの照明はなにか工学的な信号のように規則性をもって灯っていた。

 そのマンションの規模はどこをとっても団地とは比べ物にならないほどで、それは自転車置場や周りに敷かれた道路の幅にまでも表れている。

 俺と少女はその幅の広い道路を落としたコンタクトレンズを探すみたくのろのろと歩いていた。

「君って趣味とかないの?」

「どういう意味?」

 自分の眉間にしわが寄るのがわかったが、隠す義理も必要も感じなかった。

「だって普通ひとって暇な時間は趣味に没頭したりするものでしょ? でも君は暇そうなのにこんなところでこんな時間にぼーっとしてるだけ」

「散歩だって立派な趣味だ」

「変わってるねえ」

 彼女は伸びをするみたく後ろで手を組み、楽しげに足を動かしている。

「小説、とか」

 この答えが出たのは自分でも意外だった。

「たまに書いたりもしてる」

 そこまで告げて隣を歩く少女の顔を見ると、彼女は先程もそうだったように顔中に興味の色を浮かべていた。俺は目線を前方に戻す。少し先に止まった青みがかったグレーのミニバンが怯えた獣のようにじっと息を潜めているように見えた。

「今書いてるのはどんなはなしなの?」

「説明するのは難しい」

 実際それは難しいことだった。小説というのはシンプルなものをいかにこねくりひねって難しく見えるようにするかというもの、というのが持論なのだ。それを一言で包んで持って帰れるほどにわかりやすくしてしまえば、十中八九自分がやっていることが無意味に感じられるだろう。

「じゃあ読ませてよ」

「断る」

「なんで? 恥ずかしいの?」

「いや……」

 俺は適当な返事を考えながら、なぜか自分の心の中に嵐が訪れた森の木の葉のように激しく揺らぐものがあるのを悟った。肺がより多くの酸素を送れと脈打っている。全身の血管があまねく収縮し、赤血球がこすれる音が耳の奥に木霊している。考えれば考えるほど言葉の沼は深さを増し、両足をぬかるみに飲み込んでいく。

「未完成なんだ」

 やっとのことで汲み出したそれを言ってしまうと、胸の肋骨の裏を叩く嵐のような律動が少しだけ軽くなったような心地がした。

「ふうん」

「完成したら賞に送る」

 俺は少女を牽制するようにそう言い放つ。

「賞とか出してるんだ。もしかして本とか出してたり?」

「そうなればいいかな」

 返事をしてから、少し冷たい調子になってしまったのを後悔する。少女は単に興味を抱いただけだ。これは俺の問題だというのに。

 しかし俺には彼女がなぜそこまで俺に興味を向けるのかわからなかった。この子は俺に何を期待しているのだろう。この子になんの得があるというのだ。そんな考えが水槽で飼われた尾の長い魚のように俺の頭の中を宛もなく漂っていた。

「君は?」

「私は小説なんて書けないよ?」

「そうじゃなくて。君は趣味とかないの?」

 少女は珍しい動物でも見るような目を向けた。どうも俺が他人に関心を抱くのが不思議でたまらないというような、もしくはそんな質問をされるのは初めてだとでも言うような、そんな目だった。

「忘れた」

「忘れた?」

「子供の頃はそういうのあったかも」

「じゃあ君だって人のこと言えないくらい変わってるじゃないか」

「たしかにね」

 彼女はこちらをからかうように小さく舌を出して笑った。しかしその笑みを見るとなぜかほんの僅かな諦めのようなものが胸をかすめるのを感じた。例えるなら、世界滅亡の日に宝くじが当たったような、大事なスピーチの前日に極度の緊張から体調を崩して休みの連絡を入れるときのような、そんな心地の良い諦めだった。

「散歩だって立派な趣味だよ?」

 彼女の言葉は妙に芝居がかっていた。

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