第4話
空の色は闇というよりはほんの少しの藍色を帯び、まばらに小さな切れ目のような雲が点在している。肌を滑る空気はいっそう冷たさを増した。夜が朝に向けて動き始めたのだ、という実感が湧いた。
俺と少女は住宅街を抜け、大型のチェーン店が軒を連ねる地区にたどり着いた。中華ファミレス、回転寿司、大手自動車メーカー、家電量販店、駐車場の広いコンビニ。それらは道路の幅が広くなるのに比例して増えていった。目に映る殆どが悠々としたスペースを携え、休日はそこに家族連れが群がる風景が想像できる。
「私、実は幽霊なの」
少女の声は淀みがなかった。まるで天気の話をするかのようにそっけなくそう言うので、危うく独り言かと聞き流すところだった。
「そうなんだ」
「怖い?」
「全然。むしろ興味が湧いてきた」
「信じてないでしょ」
「じゃあ訊いてもいいか? どうやって死んだんだ?」
その問いに少女はしばらく閉口して逡巡していた。てっきり設定を作りこんであるものと思っていたが、どうやら思いつきで切り出した話題らしい。彼女はきちんと二本の足で歩いていた。
「デリカシーないんだね」
「死因のこと? それなら君の死体が見つかって報道されたらそれもデリカシーないってことになるのか?」
「そうそう。だから目立ちたくない人は極力目立たないところで死ぬの」
「自殺だね」
俺と少女のすぐそばを大型のトラックが通り過ぎていった。それのあとに続くように冷たい空気の壁が俺たち二人の間を通り過ぎる。
「なんで、そう思ったの?」
寒さからか、彼女の声は少し震えていた。
「思ったんだよ。もしも交通事故や病死や殺人が起こって、君がその被害を受けたなら死に場所なんて選べないだろ? そういうものはこっちの都合なんて知ったこっちゃない。死に場所が選べるのなんて自殺者くらいだろう、って」
少女は前を向いたまま黙って歩き続けた。その様子は無遠慮な憶測から逃げるようでもあったし、俺の次の言葉を待っているようでもあった。
「もし仮に君が自殺者なら僕は君を尊敬するよ」
「尊敬?」
「だって途方も無いだろ。自分で自分の命を断つなんて。一体どれほどの勇気が必要なんだ、って話だよ。君はそれを実行したんだろ? 痛かったかもしれないし恐ろしかったかもしれない。でもそれらと正面から向き合った結果なんだ、と思う」
一度も自殺を考えたことがないなんていう人間はこの世にそういないだろう。しかし大抵の人間は考えるだけだ。今この電車に飛び込めば、オフィスを抜け出してビルの屋上に登り、身を乗り出せば。それらの妄想は一瞬頭をよぎるのみで押し入れに布団を押し込むように頭の片隅にしまいこんで見えなくする。
幽霊を名乗るこの少女が死んでいるかそうでないかはほんの些細なことに思えた。そしてそれは実際、俺にとって些細なことだった。
「私ね」
少女が口を開く。腕を後ろに組み、振り子のように大げさに足を動かして進んでいく。その後ろ姿がやけにぼんやりとして見えた。
「疲れちゃったんだ。いろんなことに」
「いろんなこと?」
「毎朝起きて家族と話したり、制服にハンカチが入ってるか確認したり、学校で挨拶する人としない人を選んだり、半日硬い木の椅子に縛りつけられたり、ついこの前まで友達だった子が目も合わせてくれなかったり、そういういろんなこと」
そうつらつらと話す少女の声は川に流れる木の葉を思わせた。長い時間をかけ芽吹き、そのうち自身の重み故に枝から離れ、細い湧き水を伝い自然の流れに抗うこともできずさまよいどこかの岸に流れ着く木の葉。そこで青々とした新芽だった頃のことを遠い昔のように思い返したところで戻れるはずもない。いや、実際遠い昔のことなのかもしれなかった。なぜなら彼女は幽霊なのだから。
いつの間にか舗装された道は夜露に濡れ、少しずつ傾斜を持ちはじめた。何重にも緩やかなカーブを描き、その様子が巨大な黒い蛇を思わせる。俺たち二人は蛇の背に乗ってどこへむかっているのだろう? 少女が前で俺が後ろ。その背中がひどく小さく見えた。
「いままで自分には霊感なんてないと思ってたんだけど」
「霊媒師の人とかお寺の住職的な人の目の前まで行ってみたことあるけどなんにも見えてなさそうだったし霊感なんてあてにならないよ」
「じゃあなんで俺には君が視えてるんだろうね」
「わかんない。相性?」
「それじゃあ......」
それじゃあまるで俺も幽霊みたいじゃないか。そう言おうとして言葉に詰まる。考えてみれば目の前の少女が幽霊のような質感が微塵もないように、自分が幽霊ではない確固たる理由もないように思えた。足はついていて、体が半透明なわけでもない。しかしそれは彼女とて同じことだった。たとえそれが少女の突飛な悪ふざけだったとしても。そしてなにより自分がいま死んでいて誰にも認識されていないことを想像しても、なんとなくそのほうが自然に思えたのだ。
そのことは俺に、誰の目にも触れる事なく部屋の隅にしまった小説を思い出させた。
「どうしたの?」
少女が不思議そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「いや、もしかしたら俺も君と一緒なのかな、って」
俺の書いた小説、学生時代の友達、好きだった人、一体そのどれが自分がこの世界に存在しているという証になるのだろうか。俺が世界に向けて働きかけてきた数々のことは、その実、大海に血を一滴垂らすような無意味なものなのではないか。そうだとするなら俺が幽霊だったほうが色々な物事をきれいに説明できるような気がした。誰も覚えていない、誰からも認識されない。それのどこが生きているってことになる?
「あなたは」
横を向くと、少女の二つの瞳がまっすぐに俺を捉えていた。
「あなたは私とは違うよ」
「違う?」
「違うよ。だって死んでないもん」
「死んでるようなもんだ」
「今はそうかも知れないけど、生きたいなら生きられるでしょ」
意外だった。彼女ならてっきり茶化してくるものだと思っていた。
「私いまでもちょっと考えちゃうことがあるの。ああ、自分がもし生きてたら、って。後悔ってやつだね。あのときこう言っておけばとか、こうしたらあんな出来事はなかったんじゃないかとか。でも死んじゃったから、生きることを放棄しちゃったから後悔なんてしてもなんにも始まりやしないし終わりもしない。そんないつ終わるともしれない時間の中でそれだけが膨らんでいく。想像できる?」
「気が遠くなるな」
「実際あたまがおかしくなりそうだったよ。もうムリって思った。死にたいって思ったね。もう死んでるのに。だから忘れることにしたの」
彼女の言葉は遠くで静かに揺れる波のさざめきのようだった。
「でもあなたはそうじゃない。後悔することがあっても、まだ前に進むことができる」
「ずいぶん簡単そうに言うんだな」
「死んで生き返るよりは簡単じゃない?」
「生き返りたいのか?」
「できたとしても、ってはなし。生き返る方法がどこかにあって、すぐにでもご案内できますよ、って言われてもやっぱり踏みとどまっちゃうんだ。生きるって私には難しいんだよ」
「俺だってそうだ」
少し投げやりな口調でそう告げると、少女は少し間を開けて、ねえ、とおどけた色の声を出した。
「死にたい、って思ったことある?」
「そんなのしょっちゅう思ってる」
「でもまだ死んでない」
「君はなにが言いたいんだ?」
俺は大きく息を吐いた。苛立っているような調子になってしまったが、それもまあいいか、と思い直す。
「あなたは自分で思っているより、ひどくないよってこと」
「君みたいな子供に俺の何がわかる?」
「そんな言い方しなくてもいいじゃん。だって焦ってるんだもん。一緒に歩いてたらわかっちゃうよ」
鼓動が高くなり、手のひらに汗が滲む。少女の言葉は頭蓋骨の内側を共鳴していくように俺の耳の奥で鳴っていた。
「焦ってる? なにを?」
「わかんない。だってさっき初めて会ったんだもん。わかんないよ」
彼女は乾いた声で、でもね、と付け加える。
「今になってわかるのは、何かを得ようと思うなら何かを捨てなきゃならないってこと。得ようとするものの大きさに見合う何か。お金だったり時間だったり、時には人間関係だったり。どんなに大きな木も育つには何十年も時間がかかるものだから」
「だから焦る必要はない、と?」
「幽霊の言葉は信用できない?」
そのとき、俺は腿の一部に痙攣のような振動を感じた。それは冷え切った体が耐えきれなくなり起こった身震いのようにも思えたが、機械的なバイブレーションであることに遅れて気がつく。スマホを取り出して画面を点けると、四時を十三分すぎたことを示すデジタル時計と一件のアプリの通知が表示されていた。
『ひさしぶり!!寝てた!!笑』
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