第5話

 その液晶の光はまるで俺の目を焼き、脳裏に濃く焦げつくようだった。

「ちょっと、ごめん」

 俺はスマホのロックを解除し、メッセージアプリを立ち上げ、追加されている吹き出しを眺めた。

 どう返信したものだろうか。その疑問がぐるぐると頭の中を回遊している。ひどく現実感がなかった。

『早起きだね笑』

 しばらく逡巡して、結局一番はじめに思い浮かんだその短い文章を入力し、返信ボタンをタップした。我ながらそのチャットの不器用さにあきれて苦笑するしかない。

 相手が自分のチャットを開いて読んだことを意味する『既読』マークが妙に大きく見える。あるいは自分と相手をつなげているのは短い文章の応答ではなくこのマークにほかならないのではないか、という気がしてくる。たったいま送ったばかりのチャットに『既読』がつくまではその文字列はなんの意味も持たないのだ。それは川に笹舟を浮かべて流すような感覚に似ていた。

 辺りは月の表面のように静けさに沈んでいた。そこには光を放つスマートフォンと自分の体があるだけだった。

 少女の姿はなくなっていた。あるいは最初から存在しなかったのかもしれない。それとも単に見えなくなっただけで、まだそこにいるのかもしれない。

「でもまだ死んでない」

 そう言った彼女の声が耳鳴りのように頭の中を反響していた。

 スマホをポケットにしまい、ゆっくりと来た道を歩き出す。気づけば頭上は白煙で満ちたようにぼんやり朝の気配を取り戻していた。

 中華ファミレスを過ぎ、家電量販店を過ぎ、駐車場の広いコンビニを過ぎた。少女とともに歩いてきた道を辿っていく。景色が目の前を中心としてそこに収束していくような錯覚を覚えた。一晩中無防備なサンダルで酷使し冷え切った両足は、まるで巨大なリクガメのそれのように動きが重い。それでもこの歩みはどこまでも続いていくような気がした。

 そうして足で地面をなぞっていくうちに、いつからか踏み出した足の裏を地表が押し返してくる力があるように思えた。一歩、また一歩。押し返す力はその度に硬く強くなる。足の力を抜けば体がどこかへ吹き飛ばされるのではないかという気すらしてくる。目指す場所はひどく遠くに思えた。

 遠くでバイクのエンジン音が聞こえる。それにあわせて街全体を冷たく濡らす朝露がわずかに振動していた。青信号で足を止める度にそこを横切る車と対岸にいる人影が増えた。何かを大仰に抱え込むトラック、信号が変わっても夢中でスマホを覗き込むスーツ姿の男、家の周りを囲む鉢に水をやる老人。彼らはこれから眠りにつくまでという気の遠くなりそうな長い時間の中で何をするのだろう。いや、目的があれば一日という時間は決して長くはないのだろうか。目的があれば布団に身をくるんだ瞬間から幸福な眠気を感じることができるのだろうか。そうして次の日も時間通りに起きて、荷台に物を詰め込んだり、ネクタイを締めたり、葉の様子を眺めたりするのだろうか。

 角に差し掛かる度に後ろを振り返り、いま来た距離を確かめたくなる衝動が襲う。少女と歩いてきた道は俺が記憶していたより長くなっていた。サンダルの感触を確かめるように一歩一歩を呼吸とともに踏む。喉の内側が北国に生えた木の表面のように冷たく乾いていた。

 気がつくと俺は自室のドアの前に立っていた。

 鍵を回してドアノブを引くと、外とそれほど変わらない室温が何故かこれ以上ないほど心地よかった。先程感じた何者かの腹の中にいるような閉鎖感は今は毛ほども感じられなかった。部屋は無機質な白い空間を湛え俺を迎えた。靴も机も、ベッドもノートパソコンも。なにもかもがいつもと変わらない表情でそこにあった。

「そうだ」 

 俺は自分の中を半透明の霧のようなものが満たしていくのを感じた。こんなにも眠いのはいつぶりだろう。ほとんど目を閉じかけながら洗面所に向かい蛇口を捻った。水が湯になるのも待たずに自分の掌を洗ってから、手近にあったカップに水を汲む。それを注意深く部屋の隅の窓まで運ぶ。

「強いなお前は」

 窓際には小さなサボテンの鉢があった。サボテンは置き去りにされ忘れ去られても、枯れることを知らない造花のように依然としてそこにあった。ふとその針に触れると鋭く、しかし優しげで柔らかなしなりをもっている。緑色の丸い体は、今にも脈動しそうなほど生命力に溢れて見える。その小さな楕円球の頂点に、更に小さなつくしのようなものが生えていた。

「蕾だ」

 なぜか直感的にそう感じた。何も変わっていないかに思われたサボテンが、蕾をつけたのだ。俺はその蕾をしばらく眺め、震えだしそうな手で慎重に鉢をつまみ砂の部分にゆっくりと水を染み込ませた。

「幽霊の言葉は信用できない?」

 不意に少女の思わせぶりな口調が思い出された。彼女は間違っていないことはわかっていた。ただそれを認めることができなかっただけだ。あのときの俺には正解と間違いの差などどうでも良くなってしまっていたのだ。しかし彼女にそれを伝えることはもうできない。

 俺は重い体をベッドに深く沈めた。

 床がその重さに耐え兼ね、ベッドとともに沈んでいく。やがてその床に空いた孔に融解した部屋全体が、まるで排水口に吸い込まれる髪のように渦をなしながら落ちてくる。

 俺は目を閉じた。夜がやってきたのだ。

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夜を歩く 乙川アヤト @otukawa02

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