夜を歩く
乙川アヤト
第1話
寝返りをうつのはこれで何度目だろうか。形の合わない箇所にむりやりパズルのピースをはめ込んでいるような気分だった。
「寝れねえ」
俺は誰に言うでもなくそうつぶやいた。しかし狭い部屋で独りそんなことをぼやいてみても余計に目が冷めていくだけだというのは嫌というほど分かっていた。ただそのことをはっきりと確認したかっただけなのかもしれない。つまりある種の諦めだ。
目を開けて上半身を起こした。そうしてみると覚醒しているはずの体に少しだけ眠る意思のような重みを感じることができるから不思議だった。
ベッドを抜けだし、冷蔵庫を開けた。中は明るくがらんとしていてマヨネーズとマーガリン、そして残り僅かな水だけが淋しげに残されている。水のペットボトルを掴んで、その軽さと買い出しに行かなくてはならないという事実に辟易としながら、中身をすべて体に流し込む。
ベッドに戻ると先ほどほんの僅かに感じていた糸のような眠気も冷水とともに飲み込んでしまったかのように消えているのがわかった。
「くそ、またかよ」
手探りで充電ケーブルにつながったスマホを探り当てる。傾けると目を焼くような眩しい画面が23時9分を示しているのが見えた。
俺は自分がどのくらいの時間に寝支度を整えたか思い出そうとしたが、うまくできなかった。ただひどく長い時間目をつむっては開けまたつむっては開け、右を向いたり左を向いたりを繰り返していたことだけは確かだ。
そしてそれは今日だけに限った話ではなかった。
おかしなものだ。一日中半ば夢遊病患者のようにうつろに過ごしておきながら、眠らなくてはならない段になって枕に顔をうずめても眠ることができず、疲れを抱えたまま朝を迎えて脳を半分寝かせながら白昼夢のような現実に戻っていく。この数ヶ月間、まともな睡眠をとった日がどれだけあっただろう。
俺は明日の朝番に思いを馳せた。トイレ掃除にゴミ出し、レジの点検、夜勤が残していった仕事の片付け、早朝に買い物に来る痴呆のような客の相手。このままだとほぼ確実にまぶたをこじ開けながらそれらの面倒な作業をこなさなくてはならない。そう考えるとどれだけ悲痛な映画を観たときよりも心に影が差すのを感じた。
そもそも俺が不眠をこじらせたのは俺自身の責任ではなく、あの馬鹿げた店長の馬鹿げた働かせ方に問題があることは明らかだった。少しでもシフトに穴が開けば、朝も昼も夜も関係なく出勤を持ちかけてくる。人のことをゼンマイを巻けば動くブリキの人形かなにかだと考えているのだろう。その人形にしても見た目が良くて重宝されたり、面白い動きをしてやつを喜ばせたりするものがいて、とりわけ俺は少しのゼンマイでもよく働くブリキの兵隊といったところだろう。
俺は自虐的な感情に押しつぶされそうになるのを認め、また体を起こした。
もう全身のどこにも何をする力も残っていない停滞感があるというのに、目が冴えているという事実だけで何かをしなくてはいけないような気分にさせられた。しかしペンを持つのも本を開くのもノートパソコンの電源をつけるのも億劫で仕方がなかった。
不意に悪寒がした。
それと同時に部屋の空気がみるみる淀み、壁が歪みはじめた。見上げると天井が少しずつ床との間隔を狭め、俺をすり潰そうと動いている。肺がしめつけられる感覚がして、呼吸が細くななる。玄関へ向かう廊下はその輪郭を崩し、一点に収束すべく縮まっていく。俺は悲鳴を上げて立ち上がり逃げるように部屋の外へ転がり出た。まるで大蛇の腹の中にいるような気分だった。
外気は涼やかで微量の雨の匂いをはらんでいる。
おそるおそる振り返ると玄関の蹴飛ばした靴以外は、壁も天井も床に並べた発泡酒の空き缶も机の上のペン立てになっているマグカップも窓際においたサボテンの小さな鉢も何事もなかったかのように普段どおりの形を取り戻していた。
俺はアパートの廊下に座り込んだ。着ているTシャツが汗を吸って重くなっているのに気づいたのはやっと呼吸が落ち着いたころだった。
「なんなんだ、いまの」
とてもじゃないが眠るような気分にはなれなかった。
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