第2話

 俺はレジ袋から冷えた缶コーヒーを取り出しタブを起こした。ぱきっ、という小気味よい音に反応して入り口の側にいた二人の女の客が会話を止めてこちらを見ている気配がする。俺は舌打ちしそうになるのを堪えてその場を離れた。見慣れたはずのコンビニの明かりが眼球に刺さるようだった。

「いちいちみてんじゃねえよ」

 6月だというのに気温は冬に逆行するのではないかというほど冷たかった。半袖にハーフパンツという格好で家を出てきたのを後悔する。挙げ句に靴下も履かずサンダルを引っ掛けて、バイト先とは逆方向のコンビニにいる。普段自分のいるところと違い深夜でもひどく明るい印象の店だが、今はそちらの方が都合がよかった。

 店内の時計は午前0時半を指していた。やけに時間の進み方が遅く感じられる。

 俺は家路とはまた逆の方に足を向けた。とにかく今は家やバイト先と、一歩でも遠く離れていたかった。

 俺は買い物袋をぶら下げて腰を落ち着ける場所を探した。肘にかかったその胃袋めいたナイロンの薄膜を思う。このようなご時世になってもレジ袋を買う客は多い。そしてそうやつに限って常連だったりする。そんな連中の相手をする時は決まって自分の中に煮えるものがあるのを自覚した。

 少し歩くと幅のあるドブ川に行き当たった。川の流れは緩やかで、水面は暗く、大量のタールが流れているようだった。その流れに沿って少し歩き、石のベンチがあるのを見つけた。周囲に人がいないのを確認してそこに腰掛ける。腿に伝わる石の感触がひどく無機質的で冷たかった。

 レジ袋の中からロースカツサンドを取り出し、まとわりつくパッケージを取り払った。

 サンドイッチという商品を買う客に当たると、そいつがひどくマヌケに見える事がある。企業たちの策略で具はどんどん小さくなっていき、味もたいして美味いわけではない。何が悲しくてこんなにコスパの悪いものを食べているのだろう。もっとも、コスパのいいものなんてコンビニには売られていないのだが。

 ロースカツサンドは俺の予想に反することなく安いソースの味がしたし、深夜の空腹には焼け石に水だった。

 ふと前の方に目をやると、背の低い椰子のような木が連なって遊歩道の脇の街灯を浴びている。それらが帯びた南国の風貌はこの都会にはひどく不釣り合いで、まるでその一角に追いやられたようにお互いに身を寄せ合っていた。

 その光景は俺に小さなサボテンを思い出させた。ただ身じろぎもせずにウイスキーグラスほどの鉢に収まった安い小さなサボテン。花を咲かせる種類だと店員に言われ、興味本位で買ったはいいものの一向にその気配はない。最後に水をやったのはいつだったか。

 俺は大きく息を吐いた。

 体の内側では投下したエネルギーの吸収がはじまり、熱を帯びてやけに喉が渇いた。

 コンビニ袋からペットボトルのコーラを取り出す。ビニールが冷えた容器についた水滴に未練がましく張り付いていた。

 俺はベンチから立ち上がった。空になった袋をそのままにしておこうかと考えたが、思い直してハーフパンツのポケットにねじ込む。強めの炭酸が喉を刺した余韻で少し気分が紛れた。

 俺は植物とは違う。自分の足でどこへでも行ける。

 ネットニュースで自殺の記事を見かけることがまれにある。先月の自殺者は1572人で例年よりは少ないという。

 その数字は俺の頭に現実感のないもの、しかし勇気を持って自分の結末を選び取った者たちとして残った。彼らに比べれば俺はこの椰子やサボテンと何ら変わらないのではないか、という気がしてくる。

 ぐるぐると脳内を巡る黒い煙のわだかまりのような考えを振り払うようにして俺は足を動かした。俺は植物とは違う。

 話し声がして道路の反対側を見やると若いカップルがちょうどすれ違おうとしているところだった。二人とも髪を明るい金髪に染め、それが安いプラスチックのように街灯を反射している。しかしこの距離では何を話しているかまでは判然としなかった。

 ふと立ち止まりスマホを取り出してホーム画面を眺める。

 もうほとんど誰とも連絡をとらなくなって久しい。まれに通知が鳴るのはバイト先からの業務的なもののみだった。スマホの液晶はそんな俺のことをなじるように照らしていた。

 メッセージアプリを下へスクロールする動作はまるでタイムマシンの行き先を設定しているかのような奇妙な感覚がある。その時自分が誰とどんな会話をしていて、どんな感情を抱いたのか。チャットのやりとりを見返すとそれらを容易に思い出すことができる。

 俺は自分と世界との距離が急速に縮まった時期を覚えている。それは今では結局のところ、手の届かない曖昧なものに変化してしまっているが、俺はもう一度世界と自分との距離を測ってみたくなった。

『いま何してる?』

 チャットの画面に短い吹き出しが追加される。

 こういう送信をしたあとでは毎回と言っていいほど、自らが入力した文に実感がなくなる。まるで第三者が勝手に俺のスマホを弄くり、勝手に文を作り、勝手に送信ボタンをタップしたかのように現実感がないのだ。

 俺は機械特有の冷たい重みを一分ほど手のひらに感じたあと、諦めて画面を閉じてポケットに戻した。

 外気はいっそう冷え込みをみせ、大通りを吹き抜ける風に鳥肌が立つ。自室に帰ることが頭をよぎったが、それを振り払うようにして歩調を早めた。

 風から身を守るようにして通りを脇道に逸れると一気に生活感のある建物が多くなる。その周囲ではどこからか聞こえる換気扇の音だけが木霊していた。まだ明かりのついた小綺麗な家の窓からは食器を洗う音やテレビのバラエティ番組の作られた笑い声が漏れ出していた。そういう音や光があって初めてここに人が住んでいるのだなと実感が湧く。それ以外の家は俺にとっては他人の墓のように無機質なものでしかなかった。

 俺はそういう場所を求めて歩を進めた。まるで目を閉じて眠りに落ちていくときのように。静かな方へ、静かな方へ。

 やがて今までにない静寂が訪れた。それは巨大なドミノのような白いアパートが幾重にも敷き詰められた団地の公園だった。

 そこは公園というよりは小さな空き地のような趣で、狭い砂場と赤茶色にくすんだ背の低い二席のブランコがあるだけだった。世界広しといえどこれほど質素な公園はそうお目にかかれるものではない。子供だましもいいところだ。これではサッカーのドリブルの練習もできないだろう。

 俺はブランコに腰を下ろし、少し揺らしてみる。その感覚は長い間忘れていた浮遊感だったが、子供の頃ほど楽しいものではなかった。

 膝を伸ばして折り曲げる。その動作を前後で交互に繰り返すと、ブランコはより大きく揺れた。伸ばす。折り曲げる。伸ばす。折り曲げる。

「こんばんは」

 気づくといつのまにか隣に人が座っていた。少女である。高校生くらいだろうか。

 俺はぎょっとしてブランコを揺らしたまましばらく彼女の姿を眺めていた。オーバーサイズの白いプリントTシャツから淡いブルーのホットパンツが覗く。ぴったりと被ったグレーのキャップからは滑らかな漆のような黒髪が胸辺りまで伸びている。それは俺の漕ぐブランコに合わせて静かに揺れていた。

「こんばんは」

 考える時間が欲しくて、俺はブランコが自然に止まるまで待ってからそれだけ告げた。

「え?」

 彼女は信じられないものを見たというような表情になり、こちらの顔をまっすぐに注視する。見開かれた黒い瞳の向こうには底知れない闇が広がっていた。

 俺はその闇から抜け出すように視線を落とした。少女の服装とは不釣り合いな学校指定のようなローファーが目にうつった。

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