魔法使いの――
チェルシーとムインを見送ったクラヴィは、二人の足音が聞こえなくなったのを確認してから、机の上にだらしなく突っ伏しました。
「これで、良かったはずだよね……」
そう独りごちながら、右手を上げて人差し指で宙をなぞります。すると、テーブルの上にあった食器がふわりと浮かび上がり――すぐにカシャンと小さな音を立てて落ちました。クラヴィが魔法を使うのを途中で止めたのです。
「あーあ……」
クラヴィは右手を下ろすと、そのまま机に抱きつくようにへばり付きました。
頬を押しつけたテーブルクロスはすべすべしていて、木のひんやりとした感触を和らげています。
クラヴィは自分の頭を冷やすために、テーブルを氷に変えてしまいたくなりましたが、すぐにバカバカしいと思い直して止めました。
「はあ……本当にバカみたい……」
――彼は、チェルシーたちが家を訪ねる前から、彼女が自分と結婚したがっているということを知っていました。
チェルシーが王様に嘆願するところを、遠見の魔法で見ていたからです。
今だって、目を閉じて意識をそちらに向ければ、森の中を歩く彼女の姿が見えます。チェルシーは下を向いて黙ったまま、元来た道を引き返していました。その隣には、周囲に気を配りながら彼女に歩調を合わせている、ムインの姿があります。
クラヴィは大きく溜息をつくと、彼女にかけた魔法を全部解いてしまいたくなる気持ちを堪えながら目を開けました。
「未練がましいなあ……」
チェルシーとの別れが、もう少しで終わる"仕事"の足枷になるほど辛いことだなんて、クラヴィは思っていなかったのです。自分の想像以上にチェルシーに焦がれていたのだと、今になって初めて気づきました。
「これなら、会わない方がマシだったかも……」
クラヴィは、チェルシーが彼と出会う前から――彼女のことを知っていました。
……何故なら、何年も前に王様から「チェルシーが城の外に出た時、何かあったら守れるよう魔法で監視してほしい」と、密かに依頼されていたからです。「幼い間は自由にさせてやりたいから、本人に気づかれないように」と告げられた時は「親バカだなあ」と呆れたのを、クラヴィは今も覚えています。
それまで彼が請け負ってきた密命に比べると、あまりにも簡単で和やかな仕事です。「こんなこと、宮廷魔術師に頼めばいいのに」と思っていたクラヴィは、直に王様の真意を悟りました。
彼が今まで受けていた『宮廷魔術師では出来ない仕事』の依頼が、ぱたりと止んだからです。それなら、姫のお守りにしては高すぎる月々の報酬にも納得がいきます。
国を脅かすものがあらかた片付いて平和になったルーン王国に、再び彼を必要とするような"何か"があった時の為の保険か、仕事をなくした自分が国を敵に回す可能性を恐れているのだろう……と、クラヴィは考えていました。
楽にお金が手に入るのなら、それに越したことはない。平和で結構――そんな風に思いながら、お城を抜け出しては街を駆け回るチェルシーを、遠くから魔法で守り続けていたのです。
クラヴィは『頭上に植木鉢が落ちてくる』『足を滑らせて――あるいは人につき落とされて――川に落ちそうになる』程度の危険は自動で回避できる魔術式を編んでチェルシーにかけ、その術式では対処しきれないような時だけ警報を鳴らすようにしていました。
それなのに――いつの間にかクラヴィは、チェルシーに危険がない時も、彼女の姿を遠見で眺めるようになっていました。予想以上に警報が鳴る回数が多かったので、最初は「面倒なお姫様を見張る式の改良のためだ」と思っていた気がします。
その理由が「チェルシーが目をキラキラさせながら歩き回る街の景色が、息抜きにはちょうどいい」に変わっていくのに、そう時間はかかりませんでした。
住処のある森から滅多に出ないクラヴィは「たまに見る街並みは、気晴らしにうってつけだ」と、思うようになっていたのです。……この時はまだ、自分がチェルシーに興味を惹かれているなんて、微塵も思っていませんでした。
――ちょうど一年くらい前でしょうか。チェルシーが風邪を拗らせて、寝込んでいたことがあります。
念のため遠見の魔法で確認しましたが「命を奪うような恐れはなく、一週間ほど安静にしていれば治る」という医者の見立てに間違いはありませんでした。
クラヴィはこれ幸いにとばかり、三日三晩集中を途切れさせずには作れない――貴重な魔法薬を作ることにしました。今ならチェルシーの警報に邪魔をされることもなく、完璧な薬作りを行えると思ったのです。
この時、「王様の依頼は、自分に長い魔法を編む時間を与えない為のものではないか」という考えが頭を過ぎりましたが、すぐに「どうでもいいや」と思いました。
やろうと思えば一日を自分の周りだけ一年に引き延ばすことくらいは出来ますし、魔法薬も必要に迫られて作るわけではありません。
クラヴィは「久しぶりに思う存分、大きな釜をかき混ぜたいなあ」と思っただけなのです。
――それから三日三晩寝ずに魔法薬を作り上げ、心地よい達成感と疲労に包まれた彼の脳裏に、ふとチェルシーの姿が浮かびました。「そういえば、風邪で寝込んでいるんだっけ」なんて思いつつ、クラヴィは三日ぶりのベッドに倒れ込む前に、軽く湯浴みをして食事でもしようと考えていました。
ですが、そんな考えと裏腹に、彼は転移の魔法に使う詠唱を口ずさんでいました。お城に張られている結界をすり抜ける術式を身振りで足して――そこで初めて我に返ったクラヴィは、慌てて自分が見つからないようにする魔法を添えます。「何で転移を取り消さなかったんだ」と後悔した時には既に、クラヴィはチェルシーが眠るベッドの前に立っていました。
すやすやと寝息を立てているチェルシーの顔が、窓から差す月灯りに照らされています。
風邪は大分良くなったのでしょうか――チェルシーは規則正しい呼吸をしながら、穏やかな表情で眠っていました。「バレたらクビだろうな」「そもそも何でここに」等と、色んな思いが頭の中でグルグル回っているのに、クラヴィはその寝顔から目を離すことが出来ません。
思わず手を伸ばしたくなる衝動を必死に抑えながら、ただじっとチェルシーを見つめていました。
空の端が白んできた頃、クラヴィはハッとして慌てて家に戻りました。自分の胸に手を当てると、早鐘を打つような鼓動が伝わってきます。そんな自分に、彼はひどく動揺しました。
他人を見てこんな気持ちになるのは初めてで、自分が抱いている感情が何なのか――自分でもよく分からなかったのです。
……それから、クラヴィがチェルシーを眺める時間はどんどん増えていきました。
王様には「外出した時だけ見張るように」と言われていますが、バレなければ問題ありません。お城の中は魔法を遮断する結界が幾重にも張られていますが、誰にも気づかれず遠見をするくらいは、クラヴィにとって赤子の手をひねるより簡単なことでした。
お城の中では裾の長いドレスを纏って――それでも無邪気に駆け回っているチェルシーは、見ていて飽きません。
年頃になった彼女に縁談が持ち上がらぬよう、王様にこっそり暗示をかけたりもしました。
もともと末娘を溺愛していた王様が「チェルシーを当分嫁にやるつもりはない」と言い出しても、誰も不思議に思いませんでした。――とはいえ、あと数年もすれば皆が違和感に気づき始めるでしょう。
思い返せば、彼女を見つめ続けていた数年は、クラヴィが生きてきた数百年のどの時間よりも充実していた気がします。
――クラヴィはチェルシーが15の誕生日を迎える前に、ある決意をしました。
それは、『彼女と出会って言葉を交わした後、この国を去る』というものでした。
数十年住み着いたこの国をクラヴィは気に入っていましたが、自分の中でこれ以上チェルシーの存在が大きくなっていくのは良くない……と判断したのです。
偶然を装って彼女と出会い、その件を口実にして国を去ろう――と、クラヴィは思いました。王様に引き留められても、その時はその時です。「次の百年は人の入らぬ未開の地で暮らせばいい」と呑気に構えていました。
そして、クラヴィが思っていたよりもあっけなく、彼の思い通りに事は進みました。
王様は「クラヴィなら、チェルシーに絡んだチンピラを未然に防げたはずだ」と訝しんでいるようでしたが、何も言わずに彼の申し出を受け入れてくれました。今までの礼に――と、頼んでもいない金銀財宝もたっぷり付けて。
「はぁ……そりゃあ、報酬も弾むよねぇ……チェルちゃんとの、手切れ金も入ってるんだろうし……」
ぐてっとテーブルにへばり付いたまま、クラヴィが大きなため息をつきます。
彼の思惑通り、チェルシーと言葉を交わすことは出来ました。クラヴィは自分が「チンピラから助けてくれた恩人」として彼女の記憶の片隅に残ればいい――そんな風に考えていたのです。
ですから、いつものように魔法で眺めていたチェルシーが「クラヴィさまと結婚したいの!」と玉座の間で叫んだ瞬間、クラヴィは思わず頭を抱えました。
それでも、すぐに王様が彼女をたしなめるのを見て「これはこれで、彼女の記憶に強く残って良いのかもしれない」と思いました。これからまだ数百年――出来ることなら数千年は生きようとしているクラヴィの頭に、チェルシーと一緒に生きる……なんて選択肢はありませんでした。
胸に燻るこの気持ちは、彼女と過ごす時を重ねれば重ねるほど、勢いを失って色褪せていくでしょう。
チェルシーに人並みの幸福な生を送ってもらいたい……という気持ちもなくはないのですが、クラヴィは自分が彼女を想った記憶を鮮やかな状態で留めておきたいと考えていました。
「いや、こんなに苦しくなるとか知らなかったし……ああ、どうりで、色恋沙汰で国がいくつも滅ぶわけだ……」
クラヴィが実際見聞きしただけでも、恋だとか愛だとかいう感情のせいで破滅した国が、少なくとも三つか四つはあったような気がします。これまで「バカだなあ」と一蹴してきたものに自分が振り回されるだなんて、思ってもみませんでした。
長い年月に擦り切れた記憶の底から、同じ師に就いていた兄弟子の顔まで浮かんでくる始末です。
師匠が一番目を掛けていたその人は、町娘に恋をして魔法の道を捨てました。――そのままパン屋か何かになって平凡な生を終えた兄弟子の気持ちが、ほんの少しだけ分かったような気がします。
もし、自分がまだ数十年しか生きていなければ……そんな選択を取る可能性もあったのかもしれません。
「ないない。そんなの、絶対後で後悔するって……」
クラヴィはブツブツと独り言をもらしながら、指先でテーブルクロスに意味のない模様を描き始めました。
「あぁもう、チェルちゃんを守る依頼なんて受けなければ良かった……んんん、もしかして、ボクを潰そうとしている同業者が動いてたりする?」
それまでデタラメに動いていた指が、素早く魔法陣を描き出します。その数秒後には、自分の想いに第三者の意思が介入している可能性は皆無だと分かりました。
「余計にタチが悪いよう……誰かのせいなら、そいつをどうにかして終わりなのにさぁ……」
すんすんと鼻を鳴らして、クラヴィはべそをかく真似をしました。……実際に泣いていたかもしれません。
「泣いてませーん! はぁ……本当にどうしよう……チェルちゃんを攫って逃げるのは簡単だけど、簡単だけど……」
――彼女を手に入れたいと願うなら、別に攫ってしまわなくたって、いくらでも取れる手段はあります。
チェルシーを自分のものにしてしまえば、この苦しみから解放されるでしょう。数十年くらいは一緒に楽しく暮らせるかもしれません。
ですが、その先の自分が彼女を飽いて捨てるのを、今の自分は許すことが出来そうにありません。
……かといって、この先千年を共にする未来も想像できません。
……一人の女の為に定命の流れに戻るなんて、もってのほかです。
「どうしよう……どうしよう……うぅ……」
クラヴィの目から数百年ぶりに流れた涙が、テーブルクロスに小さな染みを作りました。ぼやけた視界に映る見慣れた部屋は夕陽色に染まっています。
――本当なら今日、この国を発つつもりでした。次の工房だって、もう用意してあります。ルーン王国よりずっと北にある氷と吹雪に閉ざされた高い山の上で、むこう百年はのんびり過ごす予定だったのです。
「そうだよ……百年……ん……? 百年……? ……あっ、分かった!」
クラヴィは何か閃いた様子で、勢いよく顔を上げました。それから、指を一振りして紙とペンを手元に呼び寄せます。
テーブルの上でごちゃごちゃしている空の食器を無造作にのけて、クラヴィは簡単な――といっても、並の魔法使いでは十人集まってなお年単位の手間がかかる――魔法を紙の上に紡ぎ始めました。
それと並行して、自分の周りの時の流れだけを十倍遅くする魔法を口で唱えます。唱えながら「足りないかな?」と思ったので、もう十倍にする魔法も付け加えておきました。もちろん、ペンを走らせる手は止めていません。
この魔法が書き上がれば、皆の一時間はクラヴィにとっての一年になります。そうしたら、クラヴィは一年の半分くらいを使って、ちょっと大がかりな儀式を行うつもりです。必要な材料のストックが二つか三つ足りない気もしましたが、取りに行くだけの時間も十分あります。
――これだけ余裕があれば、現実の一時間をクラヴィの周りだけ百年にする魔法は完成するでしょう。
「とりあえず、十年……ううん、二十年くらいはゆっくり考えてみようっと。……待っててね、チェルちゃん」
愛しい少女の名を呟くと、自然と笑みがこぼれます。
クラヴィは期待に胸をときめかせながら、魔法を紡ぐ手を早めました。
お姫様の恋の行方は suna @konasuna
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