本文(3章前半の内容)

 勇者が剣を振るえば刃は輝きを放ち、襲い掛かる魔獣は地に倒れ伏す。僧侶が弓を構えれば魔力で編まれた矢が幾本も放たれ、流星のごとくに墜ちかかる。すでに魔王が倒されその恩恵を受けることができない魔獣たちが、魔王を倒した勇者と僧侶に敵うはずもなかった。たとえ放たれた矢が狙いから逸れてうち漏らそうと、九死に一生を得て反撃に出る魔獣は勇者の振り上げる宝剣に血しぶきを上げる運命にある。

 今日も今日とて女勇者シレーネと僧侶アスティは強かった。

 しかし、絶好調というわけでもなかった。

「珍しいな」

 シレーネは剣を収めて隣に立つ相棒を見やる。その短い言葉に込められた意味を正しく理解して、アスティは美しい顔貌にいつも通りの笑みを乗せた。相変わらず惚れ惚れするような、道行く人が思わず立ち止まって振り返ってしまうような優美な微笑だ。

「昨日はちょっと寝つきが悪かったから」

 だが、あいにくここは彼ら以外に人影もない荒野で、その上シレーネは弓を握るアスティの黒い義腕の手に力が込もったことを見逃してはくれない。それが分かって思慮深い僧侶は顔を伏せた。

「お前さん、最近あんまり眠れてないだろ。顔色が悪い」

 シレーネの浅黒い手が伸びて相棒の前髪をかすめていく。気遣わしげな金と緑の瞳からアスティは目をそらした。落ちかかる影のせいか彼の頬はいっそうに白く、今ばかりは青白いと表現した方が正しいかもしれない。

「……あの城を出てからずっとだ」

 所々に岩の転がる草原の民を統べる貴族ドルゴザーンの居城。そこで催された酒宴でアスティの顔に張り付いた笑顔を見てから彼女はずっと相棒を注意深く見守っていた。

 指摘され、アスティは曖昧に首を振る。いつもの歌うような「そうだよ」だとか「それは違うさ」だとかいう声もなく、喉のあたりから意味もない音を出すだけである。

「お前さんがうち漏らしをするのは全然かまわないんだが」

 本当にどうでもよさそうな声でシレーネが言った。ついでに宙のあたりで彷徨っていた手で相棒の二の腕にそっと触れる。労わり、という言葉を体現したようなその手つき。

「寝ないと死ぬぞ」

 柔い手つきとは真反対の言葉が飛び出して、貴公子然とした男は思わず吹き出す。いちど堰が破れると、こらえきれないとばかりに声を出して笑い始める始末。思わずむっとしたシレーネは二の腕に添えた手に力をこめる。

「私は真剣だ!」

「いや、いや、分かってるんだけど……」

 挙句の果てにしゃがみこんだアスティは眉をハの字にしてなんとか口元で笑みを噛み殺そうとしているが全く効果はない。ようやく落ち着いた彼がのろのろと立ち上がり馬にまたがると、すでに馬上で手綱を握るシレーネが低く落ち着いた声で言った。

「真面目な話、どこかで限界が来る」

「ちゃんと休んでるって。寝れてないわけじゃないんだよ?」

「普段のお前さんを考えればそれを信じるわけにはいかんな。あの程度うち漏らさんだろう、お前さんは」

「過大評価だよ」

「……なら言わせてもらうが、お前さんさっき馬を走らせながら寝そうになってた」

 ほんとに死ぬぞ、とシレーネはきっぱり言った。これにはさすがのアスティも反論できずにいる。魔王を倒した勇者タッグの片割れが何もない帰路で落馬して死亡、など笑い話にもならない。

「ドルゴザーンにされたことだろう」

 しばしの無言を挟んで、きわめて平坦な声でシレーネが言った。

 隣を行くアスティの沈黙が図星ゆえであることを、相棒の女はもう充分にわかっている。たった2年の付き合いだが、その間文字通り一日だって離れず互いの命を預け合った間柄である。

 また沈黙があった。今度は長い沈黙だった。

「君がさ、あのとき、ドルゴザーン卿を脅したときに、彼を殺しかねない勢いだったって、それだけで結構嬉しいっていうか」

 ぽつぽつと零れる言葉も自虐的な内容も、あの美貌の貴公子、弁舌も見事な僧侶アスティには似つかわしくないものだった。

「救われたっていうか、その……」

 ごめん、と口にした当人にすら理由の分からない謝罪が発言を締めくくった。自身の抱えているものをつまびらかにする気はない態度に、シレーネは馬を歩ませながら思案する。

(無理に聞き出すのも酷ってもんだし)

 さっきだってうまくごまかされた感じがある。シレーネがあのとき烈火のごとく怒ったことが嬉しかったというのも確かにアスティの抱える本音だろう。だがそのもっと奥に、彼自身が語りたくても語ることができない何かが隠れているのは明らかだった。語るという行為は自らその事実に向き合うことで、場合によっては己の過去の傷をもう一度開くことにもなる。それを思えば、シレーネは無理にアスティから彼の抱えているものを聞き出す気にはなれなかった。

(とはいえ、そのことに触れずにい続けるのも無責任な感じがする)

 一方で何事か悩みや憂いを抱えている相棒を、彼のだんまりに甘えて放置しておくのはシレーネの望むことではない。

「話を黙って聞くくらいしかできんが、それくらいならする」

 この話はここで終わり、とばかりに彼女はそれだけ言って口を閉ざした。

 荒野を貫く大街道に馬蹄が響く。グランディア大陸史上初めて魔王が人間領に侵攻した際、それを食い止めるべく編成された100人規模の勇者パーティーのために作られた道である。パーティーの構成員は勇者に始まり僧侶、魔術師、踊り子、薬師、料理人、洗濯係、管財人……といった構成だったという。その大量の人員と荷物を乗せた馬車や荷車が効率よく通れるように道を整備したのである。さらに道のそばには一定間隔で宿場町が設けられ、史上初の勇者討伐パーティーが解散した後もこの道を行きかう商人や兵士、その他旅人たちにとって重要な休息所となっていた。

 しかし、今回の魔王による第5次侵攻が始まり約100年。魔獣の活性化により旅は危険な行為となり、大街道とは名ばかり。行きかう人足も遠のき、最近は廃墟になった宿場町も多い。特にディソレディア島は港町付近を除けばその傾向が強く、このあたり一帯などその代表例である。宿場町の管理を務める諸侯ドルゴザーンがその任に熱心でないこともあるだろう。

「今日はここに泊まるぞ」

 人影のない宿場町の入り口にたどり着くと、シレーネが馬を降りる。アスティは鞍に腰かけたまま目をぱちくりさせた。

「まだ日も高いよ、次の宿場町まで行けると思うんだけど」

「駄目だ。そのままだとお前さん、馬に乗ってる間に寝落ちる」

「平気だって」

「さっきまで船漕いでたやつに言われたくない」

「すぐに復帰しただろう」

「駄目だ」

「俺が大丈夫って言ってるんだ」

 いつも穏やかな僧侶が珍しく強い語調で言い、馬を降りる。そのままシレーネの前に立ちはだかる。一方で彼女も引く様子はなく、アスティを睨みつけて言い放った。

「この私が言っている」

? どの?」

 煽るとシレーネの金と緑の瞳が強い光を宿した。キュッと結んだ小さなくちびる、見開いた眼、吊り上がった眉。勝負所と決めた時にいつも彼女がする表情。そして、そんなときにいつも彼女は声を上げるのだ。

「お前さんの相棒であるこの私が」

 決して大声ではない。ただ凛然と、毅然と。

「そもそも、お前さんがそうやってらしくもなくムキになるのも睡眠時間が足りてないからだ」

 思わずアスティは一歩後ずさる。

 話はついた。

「自覚があるなら良い」

 言いながらシレーネは人のいない通りを歩き、廃墟群の中から外壁の損傷が比較的少ない建物を選ぶと扉を開いた。

「確かここの2階に綺麗なベッドがあっただろ。眠らなくてもいいから横になってろ」

 アスティの返事を聞く気はないらしい。馬をつないでくると言ってシレーネは外へ出た。

 階段に足をかけるとギシギシと音がする。少々埃っぽいが別に耐えられる程度だし、一晩だけの滞在なので扉が閉まらないことも気にならない。目的の部屋を見つけるとアスティは軽装になって窓際のシングルベッドに横になった。まどろむ意識の中、思い出すのは往路でのこと。

 往路においてもこの部屋で一晩を過ごした。割れていない窓、穴の開いていない壁、清潔な寝床の3つがそろっているのはこの一室だけで、二人で同じベッドにもぐりこんで眠ったのだ。

(朝起きた時にどっちも床に落ちてなかったの、よく考えたらすごいよな) 

 そんな下らないことで思い出し笑いをしているうちにアスティはゆっくりと眠りに落ちていった。


***


 ふと目を覚ますとすっかり夜になっていた。どれくらい寝ていただろうか、のろのろと体を起こそうしたところでアスティは胸や腹のあたりが暖かいのに気づいて被っていた毛布をめくった。

 見事な赤髪。

 んん、とむずがるようにうなったシレーネが身じろぎして丸くなった。小さな身体だ。彼女が勇者に選出された当初は「あんな小さな女の子が勇者なんて」と誰もが言ったものだった。しかしその張りのある声や堂々とした立ち姿、振る舞いは彼女の存在感を補ってなお余りある。アスティだってそれに圧倒された。

「シレーネ、俺どれくらい寝てた?」

「……いっぱい」

「いっぱい」

「うん」

 寒い、とシレーネは低い声で言って赤い髪の間から手を伸ばして布団をかぶりなおした。遮蔽物の少ない荒野は夜になると季節を問わず気温が下がる。たしかにそうだとアスティももう一度布団に深く潜ったが、ふと鼻先をかすめる石鹸の香りに勢いよく起き上がった。

「ごめんシレーネ、俺も体洗ってくるよ!」

「お? おお……」

「なんかほんとごめん、汗臭いだろ。というか起こしてくれて良かったのに」

「寝ろって言った本人が起こすのもな」

 ナイフで切り取った石鹸のかけらとタオルを持って、ギシギシ音を立てる階段を下りる。通りすがりの台所には煮炊きのあと。シレーネが一食分残してくれているが食べるのは明日に回す。

 奥にある浴室のタイル張りが濡れているあたり、シレーネがベッドに入ってからあまり時間が経っていないらしい。魔法で湯を出し、羞恥をごまかすように石鹸を泡立てて全身を洗う。

(汗臭いかもしれないのが恥ずかしいって何なんだよ俺は)

 激痛に涙を流してうめいている、とか。うっかり足を踏み外して崖から落ちる、とか。そういうもっとずっと恥ずかしいところをシレーネには色々見られていて、互いのはみ出た内臓の色まで知っている仲のはずなのに。そして、彼女はそんなこと気にもしていなかったのに。

 答えを教えてくれる者はいない。

 早々に浴室を出て寝室に戻ると月明かりのベッドに赤い髪の乙女が座り込んでいる。

「なんで起き出してるんだい。寝ててよかったのに」

「お前さんが寂しがるかと思って」

「君の方だろ」

 からかうと、静かに微笑して「そうかもね」。

 アスティは目を開きシレーネを見つめる。同時に「は、」と音を伴って吐き出した吐息は疑問と聞き取れるかもしれない。

「寂しいのかも」

 言いながら彼女は顔色ひとつ変えない。

「だってそうだろう、相棒と呼んではばからない相手がまったく頼ってくれずに意地を張るんだ。……お前さんがしてくれたみたいに、私にも相棒の心配をさせて欲しい。じゃなきゃ、なんのために敵なしのはずの私たちが一緒にいるのか分かんないだろ」

 シレーネは苦笑した。その眉間にかすかに刻まれたしわで、アスティは思い出す。サンドワームの葬儀を抜けて人知れず彼女が巨大鳥型魔獣の群れを相手に戦っていると気づいた時の焦り。体の芯が凍り付くような思いがしたし、悔しく惨めな思いがしたものだ。頼ってもらえないどころか一言、あるいは何のサインですらもらえないのか、と。

「……ごめん」

 声を絞り出し、シレーネの背に腕を伸ばした。彼女も同じようにして、アスティの背をポンポンと軽く叩く。

「ありがとう。さっきはちゃんと眠れた」

「なら良いんだ」

 どちらともなくゆっくりと布団にもぐりこんだ。触れ合う体温は優しく、アスティは崖から転げ落ちた時のことを思い出した。シレーネは眼前に迫る魔獣の群れを放り出して迷わず彼を追ったのだ。崖の下を流れる川の激流の中で抱き留められた時に感じた彼女の体温、それは冷えた皮膚の奥で確かに脈打っていた。

(敵に追い詰められていたわけでもないのに後退しすぎて崖から落ちるなんて本当にカッコ悪かったよな)

 思い出し笑いが漏れる。そのかすかな吐息に応えて傍から静かにくぐもった声がする。こちらもこちらで少し笑ったような声だった。

 今ならきちんと話ができそうだった。

「あのさ」

 シレーネはアスティの背をポンポンと軽く叩いて返事の代わりにした。どちらかというと子供を寝かしつける時のしぐさだ。

「俺の母親の話したことあったっけ」

「お前さんが妾腹の子、とだけ」

「うん」

 大貴族グレシャム家の末子は穏やかな声でしゃべる。グランディア王家と血縁のあるグレシャム家当主グレイグがアスティの父親であることは誰もが知っているが、母親について口にする者はいない。

「俺の母の実家は歴史こそあれど金のない貴族でね。母は、まあ、ありていに言えば金のために平民の大商人のところに16で嫁いだのさ。商家としてはそれで貴族の仲間入りだ」

 ゆっくりと言葉を選びながら小さな背のあたりを流れる長い癖毛に指を絡める。洗いたてのつやつやした手触りが心地よかった。シレーネは嫌がるそぶりも見せない。

「母と大商人の間に子供が生まれる様子は全くなかったらしい。でもそんなある日、彼女に妊娠の兆しがあった。夫だって半ばあきらめていたのにね。生まれた子供はこの俺、金髪碧眼の玉のように美しい男の子だ」

 おどけてみせるとシレーネがそっと彼の背を撫でた。

「まあなんというか、俺は驚くほどに似ていなかったわけさ、に。髪の色も違う、目の色も違う。肌の色だって。かといって母親とも違う。両家の先祖を辿ったって金髪の人なんていなかったらしいから」

 窓から差し込む月光を受けて、黄金を紡いだようなグレシャム家の末息子の髪が光っている。おとぎ話の王子様か、あるいは伝説に出てくる建国の英雄を思い出させるなとシレーネは思う。それも無理ないことだった。おとぎ話の王子様のモデルは大概が建国の英雄で、それはグレシャム家と血縁のある王家の始祖となった人なのだから。とはいえ、伝説などもう遠い昔、神代の時代のことなのだけれど。

「母はね、当時まだグレシャム家の家督を継ぐ前だった俺の父とどこかの夜会で出会ってただ一度だけ情を通じたことがあるそうだ。多分、妊娠の気配がなくて周りに色々言われていた頃なんだろうね」

 彼の父親譲りの青い瞳が寂しく光った。

「明らかに毛色の違う子供が生まれたってことはすぐ噂になって商家は後ろ指をさされて結局母とは離縁したんだそうだ。かといってすでに妻子のいたグレシャム家次期跡取りの父が彼女と結婚できるわけもない。母に家をあてがって使用人を一人置いて、罪滅ぼしのように毎月生活に困らないだけの仕送りをしてたんだ」

 ぽん、ぽん、と泣き出す子供をあやす時のようにシレーネの背が叩かれる。あるいはそうして彼自身なだめているのかもしれない。小さな相棒はただ黙っていた。

「母さんはね、いつも窓辺の椅子に座ってた。グレシャム邸の方角を見つめてよく刺繍をしてた。きれいなお手製のレースのハンカチでさ、父さんのイニシャルが刺繍されてた。俺がしゃべりかけても母さんはあんまり返事をしなくて、たまに竪琴を教えてくれたけど、それ以外に言うことといえばグレシャム家にふさわしい教養を身につけなさいって」

 アスティは努めて明るい声でしゃべる。その響きが痛々しかった。

「毎月仕送りを持ってくるグレシャム家の使いに、母さんはよく手紙や刺繍したハンカチを預けたんだ。グレイグに届けてくれって」

 返事が来ることは一度もなかったが。

「ずいぶん熱心だったんだけどね、ある時それがピタっと止んだんだ。その頃かな、母さんがたまに俺のことを父さんの名で呼ぶようになった」

 グレイグ、と。

「思えばあの頃から彼女はかなり限界が来ていたんだろうね」

 少年はゆっくりと目を閉じる。眉間に深く刻まれたしわが悲痛だ。

「最初は気のせいだと思ったんだ。けれど少しずつその回数が増えて、ある日」

 ある晩。

 13歳になるあの晩。

 つぶやきは震えていた。シレーネは黙ったまま彼の背をゆっくりと何度も撫でる。それしかできなかった。

「ある晩、寝ていたら母さんが俺のベッドに入り込んできて、俺を組み敷いたんだ。服を脱がされそうになって、俺、怖くなって彼女を思い切り突き飛ばした」

 声は泣き出すときの響きだった。

 彼の全身が緊張して、小さな相棒の背に回した腕に力がこもった。吐きだす息に言葉を乗せる。

「翌朝、母さんはいつもの窓辺で首を吊って死んでいたんだ」

 シレーネは目の前の少年を力いっぱい抱きしめた。無性にそうしてやりたかった。

「普段は意識しないのにさ、ドルゴザーン卿に組み敷かれたときからずっとあの時のことが頭にこびりついてる。……眠ると夢を見るんだ。俺を組み敷いた時の母さんの虚ろな目、ぶら下がった母さんの細い身体、汚れた床、窓の向こうのきれいな青空! 死んだはずの母さんが首だけクルっと動かして俺を見て言うんだ」

 お前が殺したんだよ! 

「……俺、どうしたらよかったのかなぁ」

 子供の声が呟いた。

 シレーネはじっとアスティを見つめた。深い青の瞳がこんな時でも美しいのがなんだか妙に悲しかった。彼女は何か言おうとして、けれど言葉が見つからず、目を伏せて眉間にしわを刻み、彼の肩をそっと撫でて互いの額を触れ合わせる。しばらくは黙ってそうして、そしてささやかな声で言った。

「アスティ、お前さんは何も間違ってない」

 月並みな言葉だった。

「それはお前さんの責任じゃない」

 だが、事実だった。

 しいて言うなら状況が悪く、周囲の大人たちが悪かった。少なくとも当時13歳だった子供が責任を感じなくてはならない状況になったのが間違っているのだ。

「……悔しいね」

 シレーネが泣きそうな顔で笑って言った。グレシャム家の末子はいたいけな顔で聞き返す。

「悔しい?」

「悔しいよ。できるなら私、今すぐ13歳のお前さんに会いに行ってどこかに連れ出したい」

 彼女は相棒の頬に手を添えて笑いかける。少しだけ体を起こし、彼の背を強く抱きしめてやってからそっとこめかみにくちづけした。ぱち、と音がしそうなほどゆっくり大きく瞬きをしたアスティと目が合って、シレーネはもう一度互いの額を触れ合わせる。

「お前さんが悲しんだり苦しんだりするのなら、少しだってそれを取り払ってやりたい」

 語りかけ、シレーネは相棒の目じりにくちびるを落とす。誰よりもアスティを大切にしてやりたい。憂いや痛みから遠ざけて、あるいは自身の施す言葉や仕草で彼を内側からめちゃくちゃにして忘れさせてやりたかった。

「それが無理ならせめて一番近くにいたい」

 ゆっくりとしたまたたきで緑の瞳から涙がこぼれる。

「……ありがとう、泣いてくれて」

 アスティは空いた方の手で相棒の頬をぬぐってやる。煮え立つかに感じられるほどのその熱。

 あの時、13歳の少年は突然のことに混乱して泣くことすらできなかった。ささやかな葬儀の席でも、その後も。今日この日まで。

 けれどそのことに対する罪悪感も、全て、今この瞬間から過去になるのだ。   

「なあアスティ、その頃のお前さん、何考えて過ごしてた?」

「……どこか遠いところに行きたかった。誰もいなくて、静かで綺麗で……楽園みたいなところ」

「楽園か。いいな、それ」

 その晩、アスティは夢を見た。母の体が吊り下がった窓辺で立ち尽くしていると、向こうから赤い髪の女が駆けてきて手を差し出して言うのだ。

「なあ、楽園に行こうか!」

「……一緒に行ってくれるの?」

「もちろん。だって相棒だもの」 

 見知らぬ女がいつもみたいに笑うから、少年は差し出された手を握り返して窓枠を飛び越えた。

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②亡郷のふたり 鹿島さくら @kashi390

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