浪人と娘

森新児

浪人と娘

 西洋ではブ男のことをオラウータンと呼ぶ。


 童話の巨匠アンデルセンは生涯独身で恋愛と無縁だった。

 人々にオラウータンといわれたみにくい面相がその原因といわれる。

 

 フランスの詩人ヴェルレーヌのあだ名もオラウータンだった。

 アンデルセンと同じようにみにくかったからそういわれた。


 ヴェルレーヌはすでに結婚して子どもまでいたのに、当時十五歳だった「呪われた詩人」ランボーと同性愛の関係になる。

 しかし最終的にヴェルレーヌが拳銃でランボーの手を撃つ傷害事件を起こし、二人の関係は終わりを告げる。

 恋愛になれていないブ男が美少年に未練を抱いたために起きた、それはいかにも不器用で悲しい事件であった。

 ではわが国でブ男は、なんと呼ばれるのだろう?





 夕日が江戸の町を赤く染めていた。

 その浪人はふところから出した手で無精ひげをポリポリかきながら、道の真ん中を悠然と歩いていた。

 店じまいを急ぐ商人と夕食の材料を求める客で道はにぎわっている。すると、


「なあにあのお侍、ヒヒみたい」


 という若い女の華やいだ声が、浪人者の耳を打った。

 渋い顔で浪人が振り向くと、きれいな着物を着てはでなかんざしをさしたきれいな娘が、友だちと二人でこっちを見て笑っていた。

 すれちがった浪人の態度がせわしない江戸の町にふさわしくない、あまりにも悠然としたものだったので癪にさわったのだ。

 浪人が振り向くと、もう一人いた娘がいった。


「あ、お侍こっち見てる。ねえ、あの人すごく強そうよ!」


「おお、こわ」


 二人の娘はそういって笑い合いながら近くの油問屋の店内に駈け込んだ。

 江戸時代も末期になると、金を稼ぐ才覚のない侍より商売人のほうがはるかに強い。


「……」


 浪人はあいかわらず渋い顔をしたままその場を離れた。

 この小劇で明らかなように、西洋でブ男はオラウータンといわれるが、わが国でブ男は狒々ひひといわれる運命にあったのである。





 浪人は居酒屋で夕食をとった。

 お銚子一本に焼き魚とたくあんを添えただけの貧しい食事だ。

 酒をちびちびやりながら浪人は思った。


(なんか落ち着かねえ。なんでだ?)


 顔を動かさず、浪人は目だけぎょろりと動かしてせまい店内を見渡した。

 すると店のすみっこに、五人の人相の悪い男たちがいた。


(あいつらか)


 浪人は聞き耳を立てた。


 男たちは符丁(合言葉)を使って会話していたから、はじめは彼らがなにを話しているのかまったくわからなかった。

 会話の内容はわからないが、男たちはえらく殺気立っていた。


(まさか押し込み強盗でもやる気か? でも今はまだ月の半ばで奉公人への給金を出す月末に間がある。だから連中が押し込んでもその店に現金はないはずだが)


 そこで浪人は今度は会話の文脈を追わず、ただ単語だけ聞き取るようにした。するとこんな言葉が耳に入ってきた。


「今夜……油問屋……ワイロ……小笠原」


(なるほど)


 だいたいわかったと浪人はうなずいた。

 連中は今夜油問屋を襲うつもりだ。

 店に給金のために用意した金はないが、幕府のお役人へ渡すワイロはたっぷり用意してある。

 連中はどうかしてそのワイロのことを知り、それを横取りする計画を立てたのだ。

 おおやけにできない金だから、とられても店や役人が公儀に訴える心配はない。

 頭がいいなと思っていると


「全員だ……いいな?」


(いけねえ。やっぱりみんな殺す気だ)


 まだ酒は残ってるがぼやぼやしちゃいられない、このことを目明めあかしに知らせなければ、と腰を浮かせかけて、しかし浪人はふたたび椅子に腰をおろした。


(いや待て……ちがう……ちがうちがうそうじゃねえ、目明しに知らせちゃいけねえ。さっき連中役人の名前を『小笠原』っていったな? そいつたしか幕府の要職についてる大物だ。その小笠原だが少し前に別の収賄事件を起こして幕府から謹慎処分をくらったはずだ。謹慎が明けてすぐまたワイロをもらおうとするんだから太い野郎だが、小笠原にとってこれが二度めのやらかしだ。有名な切れ者だが、幕府は今度こそ小笠原をゆるさねえだろう。まさか腹は切らせねえだろうが今の役職は解かれるにちげえねえ。

 じゃあ職を失いたくない小笠原はどうする?)


 浪人は腕組みした。


(おれが目明しに知らせて、手下を連れた目明しが強盗を捕まえたとする。

 そしたら小笠原は口封じに五人の強盗を問答無用で殺すだろう。

 それから強盗を知らせたおれのことも、やはり口封じに殺すにちげえねえ。目明しに顔を見られるから捕まるのは時間の問題だ。

 それからなんだかんだと難癖つけて、油問屋もつぶすだろう。

 いけねえ。敵の敵は味方じゃねえし、売った恩のお釣りはあだだ。

 目明しに知らせるのはだめだ。ほかの手を考えよう)


「おーいオヤジ、もう一本つけてくれ!」


 とそこで浪人は大声で叫んだ。

 彼は酒を飲んだときのほうが頭が働くのだ。





「火のよ~じん」


 カチ・カチと、拍子木の音がさえざえと路地に響いた。

 時間は五つ半(午後九時)。

 五人の強盗は掘割(水路)に面した油問屋の裏口を、少し離れたところから見ていた。

 生ぬるい夜風が並木柳の枝を揺らす。


「小笠原が店に入って約半刻(一時間)」


「酒が入っていい気分になっておろう」


「いい頃合いだ」


 ひそひそ話す五人の男を、浪人はやや離れた物陰から見つめていた。


(やれやれ。いい手立てもなくここまでついてきたが、裏口にカギはかかってる。このままでは中に入れないが)


 と、そのとき、カラリと軽い音立てて、裏木戸が中からひらいた。

 だれかがひょいと顔を出し、月明かりに簪がきらりと光った。


(夕刻おれを狒々呼ばわりした娘だ)


 浪人は思わず舌打ちしそうになった。

 娘はこれから男と逢引きに行くのだろう。

 五人組はそのことも知っていてここで待っていたのだ。

 娘はそっと裏木戸を占めると、そそくさと走り出した。


「待て」


 ひっと息を飲む娘の口を、暗がりに隠れていた五人組の一人が押さえた。


「捕まえたぞ」


「よし、おい娘よく聞け」


 不気味な青い光が闇にひらめいた。

 一人の男がふところから抜き身のドスを出した。


「死にたくなかったら店に案内しろ」


 男は震える娘の鼻の先にドスをかざした。すると


「ちょっと待ちな」


 五人組はすばやく声のしたほうを見た。

 両手を垂らした浪人者が、暗がりにうっそり立っている。


「悪いこといわねえから娘を置いてさっさと立ち去れ。それでチャラだ」


「おい」


 娘を路地に突き飛ばした棟梁格の男にうながされ、ほかの男たちもふところからドスをとり出した。

 五人の男は浪人に対して一直線にたてに並んだ。


「やっぱりだめか」


 そういうと浪人者は五人組に向かってゆっくり歩いた。

 浪人が左腰にあった刀を抜いた。

 それも右手ではなく左手で、と娘が気づいたとき、一直線に並んでいた五人の男が朽ち木が倒れるように、左右にゆっくり倒れた。


(え?)


「おまえは店にもどってこのことを知らせろ」


 刀を鞘へもどしながら浪人は娘にいった。


「五人組に襲われたが通りすがりの浪人者に助けられたと見た通りの事実をいえばいい。じゃあな」


「あの、お名前は?」


「名前? 名前は……」


 そのとき夜風が吹いて柳の枝が揺れた。


柳四十郎やなぎしじゅうろう。このまえまで三十郎だった」


「は?」


「名前なんてどうでもいいだろ。じゃああばよ」


 そういって四十郎はその場から立ち去った。

 去ってゆく浪人の背中を見つめる娘の耳に、そのとき町の遠いどこかで鳴る拍子木の音が、妙に儚く聞こえた。





 それからしばらくして小笠原はふたたび収賄の醜態を犯し、ついに幕府の要職を解かれた。

 小笠原は自宅で切腹して果てた。

 時代は幕末の動乱期になり、あれほど隆盛を誇った油問屋も時代の奔流に飲まれ、とうとうつぶれてしまった。

 店で働いていた人間はちりじりになり、きれいで傲慢だった娘は吉原で働く遊女になり、病を得て若くして死んだ。





 幕末は北辰一刀流の千葉周作をはじめさまざまな剣豪が活躍した時代でもあった。

 しかしその中に柳四十郎の名前はなかった。

 彼はどこへ行ったのか?

 それはだれにもわからない。

 江戸の名残はすべて消えた。

 ただ風だけは変わらず、今日も柳の枝をやさしく揺らしている。【完】



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