ゴーストライト
木立ゆえ
ゴーストライト
人々が寝静まった夜のことだ。
雪片が絶えず降り落ち、積もったそれに音を吸われたかのように街は静まり返っている。雪雲に覆われた閑静な住宅地は、日が昇れば容易く溶けてしまうだろう白を今だけ黙認して眠りにつく。
そんなさなか、ある洋館じみた一軒家のドアが開いた。そろそろと一歩ずつ、雪を踏む音にすら気を配るように、ひとりの少女が夜の銀世界に足を踏み入れる。腰ほどまである黄みがかった赤の癖っ毛と、薄青の瞳。白いネグリジェにピンク色のコートを羽織り、重そうな編上げブーツの紐は不格好に絡ませて。その手に何かを大事そうに握りしめ、濡れないようにコートのポケットへ隠した。
少女は足跡ひとつ無い住宅地の細道をひたすらに、もたもたと雪に足を取られながら歩く。朝まで誰も通らない道を進み、高い塀と金木犀の植木に隠れた横道へと入っていく。歩いて歩いて、少女はようやく足を止めた。そこには、赤い塗装が剥げ落ち、雪と小さな氷柱に塗れたポストがある。郵便マークさえも掠れてしまった、細長い形の古びたポストだ。
「こんばんは。今夜もさむいね」
少女は微かに笑んでポストに向かって囁くと、手袋もしていない小さな手で薄く積もった雪を払い、脆いガラスのような氷柱を剥がしてやった。ひととおり綺麗にして、少女は赤くなった手のひらをこすり合わせ、コートのポケットに仕舞っていた手紙を取り出した。
「……届きますように」
そう言って、小さな花のシールで封をした手紙をポストの口にそっと入れた。カサッ、と手紙が底に落ちる。少女は祈るように目を閉じてから踵を返した。どこか急ぎ足で、またひとり夜の道を戻っていく。
――その後ろ姿を、電柱の陰からじっと見つめる者がいた。
冷たい闇に溶け込んでしまいそうな、黒。喪服を思わせる漆黒のスーツを纏った、長身で痩せぎすの男だ。撫でつけられた艶のない黒髪に、青白くこけた頬。眠たげな目を少女に向けて鈍く光らせている。
はぁ、と男はため息をついた。
「ああ、寒い。なんでまたこんな時間に出歩くんですかねぇ」
少女が降りしきる雪の中に紛れていったあたりで、ぶつぶつ言いながら歩み出る。その表情には鬱屈した疲労感が浮かんでいた。
「何が悲しくて冬の夜に残業なんか……早く家に帰って寝たい……。ではもう様子見はこの辺にして、さっさと終わらせてしまいますか」
愚痴を垂れてから、男はパチンと指を鳴らした。すると突然――その手に大きな黒い〝鎌〟が現れる。外灯の淡い光を反射して、氷のように刃が光った。男は重そうな鎌をビニール傘のように握り直し、少女の後を追ってポストの前を通り過ぎる。
しかし、そのとき。
「――おい、そこの黒スーツ野郎」
男の背後から声が飛んできた。どことなくハスキーだが幼い声色だ。男は足を止め、静かに振り向く。
少年、いや少女だろうか。襟足の短いウルフカットの黒髪にキャップを目深に被っている。先ほどの子どもと歳はさほど変わらないように見えるが、ブルゾンのポケットに両手を突っ込んで堂々と男を睨みつける姿には妙な迫力があった。
「あの女に何の用だ? 不審者」
「……どうもこんばんは。こんな夜中に子どもがひとりで歩いていたら補導されますよ」
鋭い眼光を男はのらくらと躱し、動じることもなく言葉を返す。少女は怯まずに目を眇めた。
「アンタが職質されるほうが先だろ。そんな物騒なモン持ってガキの後つけてる奴、気狂いのストーカーにしか見えねぇよ」
「ごもっともな指摘ですね。ワタシもこの鎌はどうかと常々思います。死神というテンプレ的概念を未だ頑なに守ろうとする、弊社の古臭い社風には甚だ疑問を感じておりますので」
「…………」
少女はあからさまに顔をしかめた。何言ってんだお前、とその眉間の皺で物語る。男は億劫そうにネクタイを締め直して少女に歩み寄った。警戒心を露わにして少女は身構えたが、男は鎌の柄を上にしてポストに立て掛け、スーツの裏ポケットから革製の黒いケースを取り出すと、すっと軽く腰を折って少女に一枚の紙を差し出した。
「ワタシ、株式会社ハッピーエンディング関東事業部執行課のヤマダと申します。以後、どうぞお見知りおきを」
「……株式会社?」
少女は渡された名刺を見て、さらに疑問符を浮かべる。シンプルなロゴの会社名と役職名、それから男の顔写真と名前らしき「ヤマダ」の文字。端に小さく電話番号とFAX番号とメールアドレスが載っている。
「弊社は表向き終活コンサルタントや葬儀事業などを請け負っておりますが、死神の通常業務として魂の回収も行っております。本日は後者の仕事でこちらに参りました」
「馬鹿にしてんのか、と言いたいとこだが……冗談にしては茶番が過ぎるか。それで? 死神のアンタはあの女の魂を狙ってるワケか」
「ご理解いただけたようで何よりです」
「理解はしたが納得はしてねぇ。なんでアイツなんだ? 殺すなら他にも人間は腐るほどいるだろ」
少女が険しい表情になると、ヤマダと名乗る男はまたぞろため息をついた。
「我々の仕事は無闇に命を奪うことではありません。死期が近い者の魂や、成仏できずに彷徨っている霊魂をあの世へ正しく送り出すことが主な役割……そこいらの殺人鬼と一緒にされては困ります」
「アイツは病気も怪我もしていないし、普通の生きた人間だ」
「彼女をよくご存じなのですね。貴女のご友人ですか?」
澱みなくヤマダが尋ねると、少女は一瞬言葉に詰まった。
「……オレは、アイツの文通相手だ。だからアイツのことはだいたい知ってる」
「ほう、彼女が足繁く通って投函していた手紙は貴女へ宛てたものでしたか。――しかし変ですねぇ。もう既に、このポストは使われていないのに?」
その言葉に少女はまた口を閉ざしかけたが、顔を背けて小さく舌打ちした。
「ああ、そうだよ。このポストは何十年も前に放棄された粗大ゴミ。手紙なんか出しても届きやしない。オレはアイツが入れた手紙を勝手に読んでる……ただの、幽霊ってやつ」
少女はキャップのつばを下げてぽつりと呟いた。ヤマダは合点がいった様子で頷く。
「なるほど、貴女はこのポストの地縛霊……だからワタシの姿も見えるのですね。そして貴女は毎夜手紙をくれる彼女に同情し、魂の回収を阻止したいと思っておられる」
「ふん。分かったなら家なり会社なりにさっさと帰りな」
「この時間に会社行けとか拷問ですか。いえそれはともかく、これもワタシの仕事ですので了承しかねます。彼女の危険性を見過ごすわけにはいきませんから」
「……危険性、だと?」
少女は声を低くしてヤマダに詰め寄った。やれやれとヤマダは肩をすくめて、ポストに立て掛けていた鎌を手に取り、くるりと回して肩に構える。
「我々は先に述べたような魂だけでなく、この社会に害なす存在と判断された魂の監視・回収も担っております。彼女はその執行対象となりましたので、一刻も早く死んでいただかなくてはなりません。……本来は機密事項なのですが、貴女は関係者のようですから一部お教えしましょう」
そう言って裏ポケットからコピー用紙を出すと、少女の眼前に広げた。
「
「被害?」
少女は書類を食い入るように見つめながらも、半歩後退る。ヤマダはすぅっと目を細めた。
「異能力については驚かないのですねぇ。――貴女もまた、柊リリカの想像力によって成立した存在だからですか? もしくは彼女が考えそうなことをよく知っているからでしょうか」
「っ、お前……!」
「怒らないでくださいよ。それでまぁ、つい今朝方起きた被害がこちらです」
ヤマダは飄々と受け流し、尻ポケットから出したスマホの画面を少女に見せた。そこにはフロント部分が滅茶苦茶に潰れた赤い自動車が映っている。どうやらブロック塀に衝突したようだ。少女はハッと息を飲み、目を見開く。
「心当たりがお有りですか?」
「…………。昨日の、手紙に……『登校中に赤い車から泥水をかけられた』って」
「ほう。それで?」
「……『あんな車、ぐちゃぐちゃになればいいのに』」
口にして、少女は愕然とした表情になる。
「本当に……本当にアイツが願ったことが現実になったっていうのか?」
「彼女に泥水を掛けたのはこの車で間違いありませんよ。狭い通学道路で堂々のスピード違反、偶然で片付けられる程度の事故に見えますが――この車、突然ブレーキが効かなくなって、一切スピードを緩めないまま塀に衝突しました」
「ただの故障じゃないのか?」
「つい昨日、車検から返ってきたばかりだそうですよ。家を出たときは何の異常もなかったと。……幸い、運転手はエアバッグに守られて九死に一生を得ました」
ヤマダが付け加えたフォローに、少女は微かに安堵の滲む息を吐いた。「しかし」と話は続く。
「運転手が助かったのは単に運が良かったからにすぎません。弊社の死期リストに載っていない人間が予定外の命の危機にさらされると、経過観察とか事後処理とか余計な仕事が増えるんですよ」
「けど、アイツがやったって証拠も無いだろ」
「そうですねぇ、確かにそこは我々としても判断が難しい。……なので、貴女に会えたのは幸運でした」
ヤマダは口元に薄い笑みを描き、スマホの画面を次々とフリックしてみせた。そこに映し出された画像を見て、少女はさぁっと青ざめる。
『今日ね、イヤなことがあったの』
「一昨日、小学校の男性教諭が校門前で街路樹の倒木に巻き込まれ腕を骨折。四日前は駅前の雑居ビルで不審火があり、彼女が通う英語教室のみが全焼。そして一週間前には彼女のクラスメイトがひとり、持病もなしに心臓発作を起こして病院に運ばれています」
『あの先生、いつも校門の前で肩をつかんでくるの。わたしの服がおかしいんだって……』
『英語教室行きたくないなぁ。わたしが発表すると、みんなクスクス笑うんだよ』
『あの子はなんでわたしをいじめてくるの? かみや目の色がみんなとちがうから?』
「それから――」
「やめてくれ!」
少女は空気を裂くように叫んだ。ヤマダは口を閉じ、平坦な表情に戻ってスマホを降ろす。
「……本当に、リリカは死ななきゃいけないのか?」
「この状態が続くのであれば。彼女は無意識に周囲を呪い、己が望むままに事象を歪めてしまっています。まだ死者が出ていない今のうちに対処しなくては、早晩手遅れになりますよ」
男の宣告に少女は奥歯を噛んで黙した。静寂の中、雪だけがひたすらに降り続く。
しばし経って、おもむろに少女が口を開いた。
「それなら、オレがリリカを止める」
「ええ? 本気ですか、貴女」
眠たげな目が少しばかり丸くなる。少女はキッとヤマダを睨め上げた。
「本気だ。オレはアイツに死なれちゃ困るんだよ」
「……うわーこれ絶対に面倒くさいやつだ」
「本音出てんぞ死神野郎。――要するに、アイツの想像で人死にが出なきゃいいんだろ。それなら先回りして事故なり何なり止めてやろうじゃねぇか」
少女はそう意気込むと、ポストの裏側に回って回収口の蓋を開けた。空洞の中に積み重なった手紙の山の中から一番上にある一枚を取り出して開封する。
「これが今日の手紙だ。ここにもしアイツの〝想像〟が書かれていたら、それを阻止すればいい」
『Dear』
『元気ですか? わたしは今日も、ちょっとイヤなことがありました』
『通学路にあるアパートの二階に住んでる太ったおじさんが、ベランダからわたしを見下ろしてツバをはいてきたの。それがスカートについちゃって、クラスのみんなやお母さんに見つかったらどうしよう、ってすごく怖かった。あんな汚い人、ベランダから落ちてしまえばいいのに』
『あなたは誰かにツバをはいたりなんか絶対しない。だってやさしい人だもの』
丁寧な字だった。ひとつひとつの文字を、心を込めて書いているように見える。少女は静かに便箋を閉じた。一緒に読んでいたヤマダがまた薄く笑う。
「ほう。今度のターゲットはこの〝太ったおじさん〟のようですね」
「……これを未然に防げば、アイツが悪さをしたことにはならないはずだ」
「しかしどうやって? 貴女はポストの地縛霊、ここから離れることはできないはず。通学路のアパートは一キロ近く先にありますよ」
「ぐっ……だったらお前が止めてこいよ!」
「貴女がやるって言ったくせに。……まぁ、先を予見できるようになったのであれば、まだ手立てはありますね」
「なに? どうすればいいんだ、教えろ!」
「大声出さないでください、寝不足に響く……えー、それではちょっと失礼」
ネクタイを掴み上げる勢いで迫っていた少女を、突然ヤマダは片腕でひょいと抱え上げた。すかさず少女の裏拳が飛んできたが、ヤマダは頭を軽く動かして躱す。くたびれて見えて存外に俊敏だ。
「何してんだセクハラ野郎! 降ろせ!」
「はいはい暴れないで訴えないで。こうでもしないと円陣の中に収まらないんですから」
疲れた声色でそう言った途端、ヤマダの足元に金色に光る複雑な模様の円が浮かび上がった。少女は「なんだこれ!?」と驚いてヤマダにしがみつく。
「場所を移させていただきます。――ああそうだ、貴女のお名前を伺っても?」
金の光に包まれながら事務的な口調でヤマダが問う。少女は口をへの字にし、逡巡の後に「……ディア」と答えた。
「それではディアさん。ワタシの残業に付き合っていただきますよ」
「はぁ!?」
ディアが素っ頓狂な声を上げた直後、二人の姿は光の中に消えた。
目を開けると、そこには明るい街の風景が広がっていた。ざわざわと人びとが行き来する雑踏。道路にはラッシュアワーに苛立つ車たち。先ほどまでの夜更けの静けさが嘘のようだ。ディアは自分がいつの間にか朝の街にヤマダと二人で立っていることに気づく。
「ど、どういうことだ? ってか死神、その鎌しまえよ!」
「大丈夫ですディアさん。ここは柊リリカの〝想像〟の世界。周囲の人間たちは意思なきエキストラですから、誰も我々のことは気に留めません」
「想像の世界……?」
「ええ。貴女が持つ手紙を介して、睡眠中の柊リリカの精神に直接干渉してみました」
理解が追いつかない様子のディアにヤマダはつらつらと説明する。ディアは状況を飲み込むまでに数秒を要した。
「ここは……もしかしてリリカの通学路か」
「ご明答。そしてあちらが、件の〝太ったおじさん〟――
ヤマダは淡々と答えて、道路を挟んで向かい側の建物を指さした。アパートの二階、三つ並んでいるうち真ん中のベランダで、雑に干されたズボンとトランクスが風に揺れている。
「溝川は毎朝七時半頃にタバコを吸いに出てきます。灰や吸い殻をよく階下に落とすので、おそらく苦情は日常茶飯時でしょうねぇ」
「よく知ってるな」
「柊リリカを監視する過程で、周囲の状況も目に入りますから」
そう言ってヤマダは近くの横断歩道を渡る。周りは誰も気にしないと言いながら交通ルールは律儀に守るらしい。ディアは物珍しい景色にきょろきょろしながらヤマダの後を追う。二人はアパートの前に来てベランダを見上げた。
「溝川が落ちるとすればタバコを吸うときでしょう。いつもベランダの手すりにもたれて吸っていますので」
「でも、大人が間違って落ちるほど低い手すりじゃないよな」
「そうですね。彼女が溝川を落とすために捻じ曲げた事象が何なのか――我々はそれを考えなくてはならない」
「……考えるもなにも、単に溝川がベランダに出てこないようにすればいいだけだろ? どっかに縛り付けるなり、タバコを取り上げるなりすればいいじゃねぇか」
「ほう。ではディアさん、どうやってあの住人のもとへ行きますか?」
「はぁ? そんなのアパートに入って部屋に突撃すれば――って、ん?」
勇ましくアパートの共通出入り口のドアを開けようとしたディアはそこで首を傾げた。セキュリティも何もないのに、ドアは硬く閉ざされている。
「無理ですよ。柊リリカはこのアパートに入ったことがない。彼女の想像力の範疇外には基本的に我々も干渉できません」
「先に言えよ!」
「ですから、我々は彼女の想像が及ぶ範囲で事象を書き換える必要があります。彼女は自身の能力にまだ気づいていませんし、今は眠っていますから、こちらの干渉を邪魔してくることはないでしょう」
噛み付くディアをヤマダは軽くいなすと、胸ポケットから何かを取り出して「お貸しします」とディアに手渡した。金色に鈍く光るそれを見て、ディアは訝しげな顔をする。
「……懐中時計?」
「周囲の環境に合わせて時を刻む特殊な時計です。それを見ればこの世界の現在時刻が分かります」
時計の針は七時を指している。あと三十分で溝川がベランダに出てくるということだ。
「どういう仕組みだ……。それはともかく、溝川が来る前に何とかしねぇと」
「焦りは禁物ですよ。まずはこの近辺をよく調べてみましょう」
二人は行ける範囲でアパートの周囲を歩き回りつぶさに観察する。アパート前は客待ちのタクシーが一台停まっているくらいで他に目につくものは無い。アパートの中は入れないが、一階の部屋ならばベランダを乗り越えることができそうだ。窓を割れば入れるのではとディアは考えたが、ヤマダに却下される。
「ダメですよ。この世界で起きたことはどんな不合理でも現実になりかねません。余計な被害を増やさないでくださいね」
「面倒くさっ」
一階のベランダにも、これといって役に立ちそうな物は見当たらない。しかしディアは妙な違和感を覚える。外観はごく普通のアパートなのに、何かちぐはぐな気がしてならないのだ。そのとき、ある一点がディアの目に留まった。
「このベランダの柵、根本のとこが錆びてるな」
ちょうどディアの目線と同じくらいの高さにベランダの床があり、錆が浮いて若干の腐食が進んだ柵の根本がよく見える。それを聞いたヤマダは「……ああ、なるほど」と溝川の部屋を見上げた。
「これですね。原因」
「え?」
「このアパートは築五年ほどの新しい建物です。ほら、外壁や屋根はどこも綺麗でしょう? しかしベランダの柵だけがやけに劣化しています。一階だけでなく二階のベランダも全部。まぁそう簡単に折れることはないでしょうがね。――よほど体重の重い人が寄りかからない限りは」
「……」
慄然としてディアは思わず腐った金属柵を見つめた。
「彼女は毎朝ここを通りながら、この柵が腐って壊れればいいと思っていたのではないでしょうか」
「……じゃあ、現実のアパートもこうなってるのか」
おそらくは、とヤマダが頷く。
「しかし厄介ですねぇ。大家に連絡して修理を頼んでも明日の朝には間に合わない。溝川に伝えたところで、他人の忠告をまともに聞くとは思えませんし」
どうしたものかと頭をひねるヤマダの横で、ディアもまた思考を巡らた。
(他人に頼っても溝川本人に忠告しても危険は回避しきれない。もっと確実に、溝川をベランダから遠ざける必要がある……)
そのとき、ディアの脳裏にひらめくものがあった。
「――先に壊せばいい。溝川の部屋の柵だけ、アイツが出てくる前に壊すんだ」
ディアの提案に、ヤマダは少し目を丸くした。思案するように黙した後、「悪くない手ですね」と頷く。
「器物破損はいただけませんが、誰が壊すかの差ですし。明らかに柵が折れていれば溝川も近づかないでしょう」
「よし。ならどうやって壊すかだな」
「……それなら、ワタシにひとつ考えがあります」
ヤマダはそう言って、手に持っている黒い鎌を横向きに構えた。すると突如、鎌が白く光りだす。その光は柄の先端から長く伸びていき、黒い鎖へと姿を変えた。代わりに刃は半分以下のサイズに小さくなっている。
「な、なんだそれ……?」
「
端的に説明して、ヤマダは「危ないので離れていてください」とディアを遠ざけると、鎖鎌をぶんぶんと器用に振り回した。そして狙いを定め鎌を二階のベランダに放つ。鎌の刃は柵の隙間に入り込み、しっかりと引っかかった。
「やるじゃねぇか! あとはこの鎖を引っ張れば――――って、あれ?」
ディアはヤマダとともに黒い鎖を思いきり引いてみたが、柵はわずかに軋むだけでなかなか折れてくれない。
「おい、ちゃんと本気で引いてんのか?」
「ワタシ非力なので。というか鎌の位置が悪かったですね。人力で鎖を引くならもっと上に掛けないと……」
ヤマダがぶつぶつ言う横で、ディアは懐中時計を見る。時刻は七時二十五分。溝川が出てくるまであと五分しかない。
「あーもう、まどろっこしい!」
ディアはヤマダから鎖を奪い取り、ベランダの真下に来てその安定感を確認すると、「ふんっ」と鎖を掴んで登り始めた。これにはヤマダも驚いたようで、「ディアさん!?」と声を上げる。
「ちょっと何やってるんですか、危ないですよ」
「だったら落ちてもいいように下で構えててくれ!」
言い放ってディアは鎖を伝い登る。一階のベランダを足場にして蹴り上げ、勢いに任せて二階へ。そしてなんとかベランダの柵に手が届き、身体を引き上げて手すりに掴まった。
「ふう……鎌を上のほうに掛ければいいんだったな」
外れないように鎌を掛け直す。あとはもう一回引っ張れば――とディアが鎖に全体重をかけたとき。溝川の部屋のカーテンがシャッと開き、太った中年の男が姿を現した。
「げっ、溝川――――うわっ!?」
見られた焦りで体勢を崩したせいか、ヤマダが渾身の力で引いたのか、バキッという音を立てて柵が折れた。手すりの結合部も錆びていたらしく端から外れて大きく歪む。その弾みで鎌がすり抜け、ディアの身体は宙に放り出された。それを下にいたヤマダが寸でのところで受け止める。たたらを踏んで、そのまま歩道の上に転がった。
「貴女ねぇ……なんでそう無茶ばかりするんですか」
「わ、悪ぃ……」
とっくに死んでいるが命拾いした。安堵の息を吐いたとき、上階で「なんだこりゃあ!」と野太い声が響いた。溝川が折れて外れた柵を見て、大慌てで部屋に引っ込んでいく。
「彼に我々の姿は見えませんから、柵がひとりでに壊れたと思っているはずです。……ひとまずこれで最悪の事態は避けられたでしょう」
「……なんか、すげぇ疲れた」
「現実の結果は追ってお伝えしますよ。……ディアさん?」
すぐ近くでヤマダの声がする。頭がやけにぐらついていた。抱えられていることを気にする間もないまま、ディアの意識は遠ざかっていった。
――翌日。
昼過ぎにヤマダは言葉通りディアのもとを訪れた。その顔はなんだか昨日よりもやつれて見える。どうやら上司への報告や事後処理に追われていたらしい。
「結論から言うと、溝川は無事でした。大家を呼び出して『もうこんな所には住めない』と元気に喚いていましたね。柵は全て修理することになったので、他の住人に被害が出ることもないでしょう」
「ふふん、上々の結果だな」
誇らしげな顔のディアに、ヤマダは意外にすんなり「ええ」と頷いた。
「人的被害を防いだだけでなく、溝川を柊リリカの前から消すことができた。彼が遠くに引っ越すことを願うばかりです」
それを聞いて、ディアは複雑な気分で黙り込む。
(リリカ……)
何もしなければ溝川はベランダから落ち、命を落とす可能性もあった。確かに溝川は迷惑千万な男で、リリカ以外の人間からも恨まれていたかもしれないが……。
その考えを見透かしたようにヤマダが言う。
「気にしすぎですよディアさん。対象の人格まで考慮していたら公平な仕事はできません。まだ先は長いんですから」
「それはそうだけど――待て、今なんつった?」
ディアが視線を上げると、ヤマダは青白い顔で薄く笑いかけてきた。なんだか嫌な予感がする。
「ここで一つお知らせが。弊社役員の決定で柊リリカは処分見合わせとなりました。ただし、今後も彼女の〝想像〟を阻み続けなければならない、という条件付きです」
「まっ、まさか……」
「ちなみにワタシ、役員命令で柊リリカの担当責任者にされてしまいまして。余計なことはするもんじゃありませんね。まぁ、いざとなれば彼女の魂を回収すればいいだけの話ですから。……貴女がそれを良しとするのであれば、ですが」
寒気のするような営業スマイルを貼りつけ、死神はディアに選択を迫る。
「……お前、分かってて言ってんだろ」
ディアが全力で睨みつけるも、ヤマダはどこ吹く風といった様子で左手を差し出した。
「――ご協力、何卒よろしくお願いします。ディアさん」
幽霊と死神は、こうして手を取り合った。
――親愛なる、あなたのために。
ゴーストライト 木立ゆえ @yue-kodati06
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