レースと薔薇の生垣
竹部 月子
レースと薔薇の生垣
リズはメイドの手当を受ける間、とてもおとなしく椅子に座っていた。
今朝完璧に整えたプラチナブロンドの髪はもつれ、毛先にクモの巣とホコリが絡んでいる。
「お嬢様、しみるかもしれませんが我慢なさってくださいね」
「かまわないわ」
足の傷に慎重に消毒液を含ませたガーゼをあてても、少女は眉一つ動かさない。そうしていると高級な陶器の人形と見まごうほど、彼女はすべらかな頬をしていた。
「お嬢様、どうか
「お転婆リズが薔薇の生垣をくぐりそこねて、ちょっぴり怪我をしたと言えばいいのよ」
メイド二人と、年かさの執事は揃ってため息をつく。
何故なら、少女の現在の様子があまりにひどかったからだ。ドレスは背面がひどく汚れている上にくしゃくしゃで、裾からレースがむしりとられたように破れている。
左足についた擦り傷は、深くはないが血がにじんでいて、屋敷に戻った主が「薔薇にひっかけてしまったの」と可愛らしく舌を出しても、到底「そうでしたか」と言えるような状態では無い。
「デビュタントを明後日に控えているのですから、
16歳になるリズには、彼女が社交界デビューする日を待ち望んでいる婚約者がいる。二つ年上で侯爵家の長男は、申し分ない好青年だった。
「そうね、軽率だったわ、ごめんなさい。でも、ダンスに支障があるほどの怪我じゃないし、お嫁に行ったらこんなお転婆はしないわ。安心して」
そんな事より、と少女はメイドに申しつける。
「少し早いけど、お風呂に入りたいわ」
執事は先代が深く愛したバラ園を、生垣に沿ってぐるりと歩く。どこであんな有様になったのか、分からなくては主人に報告することもできない。
日暮れには早いが雲は厚く、雨を含んだ風がシャツを湿らせて不快だった。
「おお、ようやく見つけた。庭師よ、少しいいか」
道具を持って、ウロウロしていた老年の庭師は、執事の呼び声に慌てて駆け寄る。
「へぇ、何か」
「おまえ、今日の昼前にこのあたりでお嬢様をお見かけしなかったか」
くたびれた藁帽子のつばが、左右に振れる。
「いんえ、向こうの端からずうっと生垣を手入れしていましたが、気づきません」
元より土いじりを始めると、あまり他のことまで気を配れる男ではない。執事は不満そうな声を漏らした。
「このバラで仕立てた生垣に、お嬢様がくぐれるような穴があっては困る。それで怪我をされて、トゲでドレスの裾をボロボロにしてお帰りになったんだぞ」
まさか、と庭師は飛び上がって驚いた。
「そ、そんな穴どこにもねぇですよ。だいたい、この生垣の薔薇はゼフィリーヌドルーアンで、トゲのねぇ品種です」
「まさかそんな薔薇などあるはずが……本当だ。トゲが無い。ずいぶん長くこの屋敷に勤めているが、知らなかったぞ」
もっと庭の事も知ってもらいてぇものですと、庭師がつぶやくと、ぽつぽつと雨が落ち始めた。
バラ園の奥には庭師の休憩所を兼ねた、道具小屋があった。
何の収穫も無かった執事は、雨宿りしてもう少しお嬢様の怪我の原因を探ろうかと逡巡したが、ここからでは生垣が邪魔でずいぶん回り道になる。それも面倒だな、と屋敷に戻ろうとしたところを、今度は庭師が呼び止めた。
「あのぅ……見習いの若けぇ庭師を見かけませんでしたか」
「私が知るはずがあるか。おおかたどこかでサボっているのだろう」
うぅん、と庭師は首の後ろを掻く。
「ちょっと頭は足らねぇが、仕事は真面目なヤツなんでさ。昼メシにも戻らんし……はぁ、どこいっちまったかなぁ」
ハッと息を呑んだ執事は、足早に屋敷へとって返した。
「お嬢様!」
ドアを開きながら執事が呼びかけると、リズは背中を向けて、メイドに長く美しい髪の手入れをさせているところだった。
「……お嬢様、どうか
先ほどと同じセリフを、先ほどよりずいぶん深刻に繰り返す。
「今日の昼前、どこにいらしたのですか」
不審そうに手を止めてしまったメイドを仰ぎ見て、肩をすくめてリズは答える。
「庭にいたわ」
「では、何をしてそんなお怪我を!」
「薔薇を楽しんでいたの。だって、私はもうすぐこの家を出て侯爵夫人になるんだもの。ただのリズでいるうちに、楽しんでみたかったのよ」
朗々と話す声に、執事はごくりと唾を飲み込んで、最後の問いを投げかける。
「……若い庭師は、どこへ行ったのです」
ようやく振り返ったリズは、恍惚とした光をたたえた瞳で執事を見つめた。
湯上りに上気した頬は、白磁の肌の上で薔薇のように赤く、すでに彼女は少女ではないのだと咲き誇っているようだった。
ふふ、と柔い笑い声をもらして、リズは首を傾げる。
「さぁ……知らないわ」
レースと薔薇の生垣 竹部 月子 @tukiko-t
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます