第6話 専門魔術士と誓約の騎士。そして——

 負傷したゲープハルトとケイレブの前に出現した魔法陣からあらわれたのは、ヴィリとともに黒部屋で黒い椅子ブラックチェアを整備しているはずのカイだった。


「だらしのない人ですね、まったく。ケイレブ、貴方がついていてなんというざまですか」


 開口一番、カイが苦言を呈したのは今にも倒れそうなケイレブへだった。カイはトラヴィスやギードには目もくれず、倒れる寸前のケイレブの元へ行き肩を貸す。


「……カイ? そうか、お前が黒い椅子ブラックチェアを……」


 トラヴィスの黒い椅子ブラックチェア強制設定変更クラッキングをしたのは、カイだったらしい。


「貴方が助力などいらない、と言ったんですよ、覚えていますか。だから私も尊重して付与魔術をつけなかったのに……」

「……おい、カイ。小言はいいから、さっさと助けろ。痛ぇんだよ」

「瀕死の狂戦士は黙っていなさい。……ゲープハルト老、遅くなりました」

「構わん。……ヴィリは?」


「研究設備の整った椅子チェアを抜けるわけがない、と断られたので、黒い椅子ブラックチェアの内部に封印しておきました。まあ、そうは言っても天才ですから、直に亜空間から抜け出すでしょうけれど」


「そうか……それは残念だったな。儂はどうやら人望がないらしい。ははは!」


 カイに回復魔術式を施されながら、ゲープハルトが自重気味に笑った。


 ——今日は珍しいモンばかり見るな。


 ゲープハルトの笑い声に気を取られてると、トラヴィスとギードの後方、通路方向から気配を感じた。

 慌てて振り返ると、そこにいたのは序列六位の犬人クンツだ。


「わ、笑い事じゃあないッスよ! か、観念して投降するッス!」


 震える声でそう告げて、涙目で犬歯を剥き出しにして精一杯の威嚇をしている。

 そんなクンツの後ろから、背の高い男の影がひとつ。


「おーおー! いいこと言うじゃないのクンツ。ようやく度胸がついたかぁ?」

「り、リュディガー……!?」

「お。ジジイよ、敬称なしの呼び捨てかよ。はー、義兄上に心酔すんのは止めねぇし、別にそれでイイって言ったのはオレけどさ、時と場合を考えろよ。クンツを見習え、クンツを!」


「な、なに現場に出て来てんだクソ陛下!」

「ひ、ひぇ! す、すみませんッ、陛下がどーしてもっておっしゃるので!」

「落ち着け、クンツ。トラヴィスはお前を責めていない。そんなことより、なぜ陛下がここへ?」


 ひとり冷静なのはギードだけ。ギードは混乱するクンツにあるじに代わって弁解し、場違いなほど明るく笑うリュディガーに問いかけた。

 リュディガーは待ってましたとばかりに片目をバチンとまたたいた。


「決まってんだろ。オレ様を裏切る奴らの顔をきっちり記憶するためさ」


 茶目っ気のある緩んだ空気。呆気に取られるトラヴィスは、けれどすぐに背筋をゾクリと震わせた。

 表情を消したリュディガーが、裏切り者たちに向けて殺気を放ったから。


「ゲープハルト、ケイレブ、カイ。必ずお前らの顔を絶望で濡らしてやる。月があってもなくても夜には気をつけろよ?」


 と。リュディガーの空気に呑まれず敗走準備を着々と進めていたゲープハルトらに向かって、そんな宣言をした。

 これにはトラヴィスも混乱した。


「ちょ、なに敗走兵みたいなこと言ってんですか! 今! 状況的に有利なのは! こっち!」

「ははは。そうでもないぞ、トラヴィス。なあ、そうだろジジイ」


 トラヴィスは、そう言ったリュディガーの視線が、登場した時から祭壇上の玉璽からピクリとも動いていないことに気づいてしまった。


「——……あ、もしか、して……?」


「そうだとも。儀式はすでに進行している。玉璽を手元に残すのは諦めるが、帝位を諦めたわけではない。——カイ、離脱だ。ケイレブ、死ぬなよ」

「はい、ゲープハルト様」

「またヤろうぜ、魔術士の騎士よ!」


 カイが黒い手袋を嵌めた指を、パチリと鳴らした。

 すると、だ。乾いた音とともに新たなる転送魔法陣が起動して、赤い光とともにゲープハルト、カイ、そしてケイレブの姿が掻き消える。


「おい、待て! ……クソッ、逃げたか」


 無駄だとわかっていても、トラヴィスは手を伸ばして叫んでいた。

 けれど、魔術士の眼で魔力残滓を確認し、裏切り者三名が完全に離脱してしまったことを認めると、大きく息を吐き捨てる。


 その間も祭壇を中心に展開する儀式魔術は、周囲の魔力を取り込んで轟々と唸りを上げていた。


 ——アレに触れたら確実に狂う。魔力飽和で意識が飛ぶ。


 だからトラヴィスは顔を引き攣らせながら、ニヤニヤ笑うリュディガーに詰め寄った。


「待って、説明してくれ陛下。あの儀式、ヤベェの? いや、視ればヤベェのはわかるけど」


「おー、特上級にヤバいぞ。本人不在でも血と玉璽があれば儀式続行できるって、マジでふざけた術式してやがるからな。儀式上にいる人間の生死なんざ、まるで気にしてねぇ。加えて儀式が成立すれば、オレは廃帝決定。帝国は経済破綻し、そのうち内部分裂でもするんじゃねぇの? はー……こんな術式組み上げられんなら、カイにもっと給料弾んでやればよかったか?」


 まるで他人事、対岸の火事。


 もしかしたらリュディガーにとって、皇位はしがみついてでも維持したい地位ではないのかもしれない。

 そんな不謹慎なことを思っていると、急に真面目な顔をしたリュディガーが、トラヴィスとギードの肩をぽん、と叩いた。


「そういう訳だから、トラヴィス、ギード。お前らがなんとかしろ。こういう時のためにお前らを雇ってんだからよ。ついでに、なんとかできたらボーナス弾むぞ」


 バチン、とウィンクされても、混乱したままのトラヴィスは、リュディガーの意図を理解しきれなかった。

 真っ先に理解したのは、騎士ギードだ。


「なるほど、理解した。ボーナスは借金返済のためにも大事だ。……トラヴィス、私が道を斬り開く。術式の解除に専念を」


「へ? な、なに言ってんのギード君。騎士のお前にだってあのヤベェ魔力の渦は見えてんだろ? アレには死んでも近づきたくない。絶対ぇ、正気を失うぞ」


「問題ない。私はお前というあるじを得て正式な騎士へと返り咲いた。私に斬れないものはない」


 神速一閃。予備動作なく何気なく振るったギードの刀が、渦巻いていた魔力の塊を斬り裂いた。


「ま、マジかよ……魔力の壁を斬り開きやがった……!」

「行け、トラヴィス。なすべきことをなせ!」


 そうだ、そうだった、と、トラヴィスはギードの言葉で自分の存在価値を思い出した。


 玉璽と祭壇とを媒介とした儀式魔術は、まだ完成していない。祭壇と玉璽への道を阻む魔力の渦は、たった今、ギードが斬り裂いた。


 であれば、トラヴィスがやることは、ただひとつ。


 トラヴィスは腕を捲って気合を入れると、祭壇の元へと駆けてゆく——。




 トラヴィスの術式破棄スペルキャンセルは、向かう所敵なしだ。

 術式が完成していなければ、術式として成立していなければ、攻撃術式だろうが儀式魔術であろうが、どんなものでも破棄キャンセルできる。

 組み上げコンパイル途中の魔術式に介入して、強引に破棄キャンセルするからだ。


 トラヴィスが介入できる余地さえあれば、規模も速さも関係がない。


 だから——。


「お。解けた。はは、解けやがった」


 ものの数分で儀式魔術を破棄キャンセルしてしまったトラヴィスが、気の抜けた笑いを漏らす。

 安心して腰が抜けたのか、もう魔力のかけらも帯びていない祭壇の前でドサリと腰を抜かしてしまった。


 そんなトラヴィスの元へ、ギードが静かにやってくる。


「終わったのか?」

「ひと段落、というやつだ。直にまたはじまる。ゲープハルト老は諦めねぇだろうし、最後まで姿を見せなかった先帝とやらも、陛下が逃さねぇだろうからな。そうでしょ、陛下?」


 トラヴィスは冷たい地面に尻をつけたまま、祭壇上の玉璽を回収しようとしていたリュディガーにそう言った。

 リュディガーは美しく輝く玉璽を手にして、ニカリと笑う。


「お、よくわかってるな! そいじゃまあ、帰ろうぜ。反省会だ、反省会!」




「いやー、ご苦労ご苦労! それにして随分と減ったなぁ、俺の椅子チェア。残ったのはトラヴィスとギード、ヴィリにクンツ、……それから出張中のアウグストとザシャだけか」


 皇帝陛下が住まう帝都の砦城。

 その地下にある白い会議室で、椅子チェアたちの反省会が催されていた。傷を負ったのはギードだけ。けれど、椅子チェアたちは魔力の使いすぎでぐったり疲労していた。


「陛下、アウグストとザシャは大丈夫なんすかね?」

「ははは、あの規格外どもが裏切るわけねぇだろ。今のとこは心配ない」

「そうですか……」


 リュディガーの含みを持たせた言いようにトラヴィスの顔が曇る。

 けれど、トラヴィス以上に曇って嘆いている少年がいた。


「あーあ、カイ君。勿体ない。磨けばもっと光るのに、あっちに行ったらもう僕が磨いてあげらんないじゃん! せっかく、僕の超超超天才的術式に介入できるように成長したってのに! 勿体ない! トラヴィス君、なんで引き止めてくんなかったの!」

「そういうことを言われてもなぁ……」


 ジタバタと椅子の上で暴れるヴィリに手を焼いたトラヴィスは、ヴィリの相手を諦めた。そうして隅の方で小さく座っているクンツに声をかける。


「なあ、クンツ。お前は、爺さんに誘われなかったのか?」

「即答で断ったッス! 自分が忠誠を誓ったのは皇帝陛下ッスから!」

「ははは、犬人は忠誠心が高くて安心するなぁ! 地味で目立たねぇのにな! いいかー、お前らー。クンツ君の異常な忠誠心を見習うよーに!」


 リュディガーに応えるように、「はーい」だの「了解ッス!」だの「承知した」だのと声が上がる。


 トラヴィスも頷くことで答えたが、ふいに皇帝の気配が冷たく尖るのを感じて、反射的に眉を寄せた。

 リュディガーが皇帝の顔をギードに向けていたからだ。


「で、だ。ギード。お前、トラヴィスの騎士になったんだってな?」

「はい」

「そか。歪な縁が正しく結ばれたのは祝福しよう、おめでとう。だがな、俺の椅子チェアは、俺をあるじとして見ていねー奴は、正直いらねぇって、わかってるよな?」


 と。不穏な宣言をしはじめたリュディガーを止めるように、トラヴィスは慌てて口を挟んで立ち上がる。


「ちょ、ちょっと待ってください、ギードは……ギードが、今回の事件の一番の功労者ですけど!?」

「それは違う、トラヴィス。俺の功績はお前の功績。だから一番の功労者はお前だ」

「待って、ギード待って! 俺は今、お前が椅子チェアから外されるかどうかの話してんの!」


 ボケてる場合じゃないのだ、とギードを説教するトラヴィスの耳に、ぶは、と吹き出す笑い声が届いた。


「ぶ! ぶははははは! 相変わらず面白ぇヤツらだな。はー、笑った笑った」


 突然笑い出したリュディガーに、トラヴィスはポカンと放心するしかない。ギードはギードでどこ吹く風だ。ヴィリもクンツも、ふたりでなにかを話して盛り上がっている。


 ——待って、待て。同僚が解雇されようとしているってのに、この温度差、なに。


 トラヴィスの顔が思い切り引き攣った。

 そして、ひとしきり笑ったらしいリュディガーが、ガラテア帝国皇帝の顔と声と威厳とで、ギードに向かってこう告げた。


「ギード、お前の椅子を剥奪する」


「ちょ、クソ陛下! なに言ってんの! 息するみてぇに解雇すんな!」

「おー、トラヴィス。無礼にも程があるぞ。そんなトラヴィス君には、自分の持ち物をしっかり管理できるよう、二人分の給与を出そう」


「……は?」

「だって仕方がねーだろ。ギードはトラヴィスのモンになっちまったんだし。なら管理者はオレじゃなく、お前ってことじゃん?」


「あはははは! ギード、物扱いされてるー!」


「ヴィリ先輩、笑いごとじゃないだろ……じゃない、けど……ありがとうございます、陛下」


 トラヴィスはそう言って、リュディガーに向かって頭を下げた。

 机に額がつきそうなほど深く下げたのは、驚きと安堵とが入り混じる複雑な表情を見られたくなかったからだ。


 そしてギードもあるじとなったトラヴィスの姿をなぞるように、深く深く頭を下げた。


「感謝します、陛下」

「うむ。よきにはからえ。今日はゆっくり休んで明日から励めよ! って、あと一時間もないけどな! わはははは!」

「は、ははははは……」


 リュディガーの豪快は笑いに、トラヴィスも釣られて笑う。乾いた笑いを漏らしながら、気づいたことがひとつだけ。


 ゲープハルトが宣言したからか、それとも偶然か。


 奇しくもこの裏切り者事件はゲープハルト裏切り者が宣言した通り、今日中に事件解決を果たしたのであった。







「な、なぜ裏切ったのだ情報屋ァ!」


 帝都郊外に建つ歴史を感じる古く寂れた屋敷の一室。

 リュディガー・バーチュにどことなく似た顔の青年が苛ついた様子で爪を齧っていた。


 照明の少ないその部屋の影から情報屋エッカルトとその護衛ヤンが音もなく姿をあらわした。

 カラーグラスの奥にあるエッカルトの目は少しも笑っていない。それなのに、口元だけが柔らかく弧を描いて笑っている。


「嫌だなぁ。僕のせっかくの情報を有効活用できなかったソッチが悪いんでしょ。皇位簒奪すんのに醜聞気にしすぎ。慎重に動いたのが仇となっただけ」


「……トラヴィスと繋がっている情報屋はお主だな? だから我らを売ったのか」


 包帯と消毒液と治癒魔術の残滓にまみれたゲープハルトが、起伏のない平坦な声でエッカルトに問うた。


「あは。僕がトラヴィスの旦那を裏切るわけがないでしょ。せっかく魔術士協会からあの人の債権を全額買い取ったのに、ここで殺されたりしたら僕が損するじゃないですか。ちょっと考えたらわかりますよね?」


「……は? 債権……? 損……?」


 理解できない、と言わんばかりにクサーヴァ・バーチュが呟いた。

 その間抜けな顔を見て、目だけは笑わぬままエッカルトの笑みが深くなる。


「僕はね、あの人に儲けてもらいたいんです。ボーナスが出るような事件を提供してあげないと、いつまで経っても借金返済の目処が立たなくて。あの人、お人好しだから」

「そ、そんなことの、ため、に……?」


「いけませんね、駄目ですよ。僕にとってはそんなことじゃあ、ないんです。……ヤン、お客様がお帰りだ。丁重にお見送りするように」

「承知しました、我が主人エッカ


 ヤンがエッカルトに向かって一礼した。そうして、唖然とするクサーヴァと苦虫を噛み潰したような顔をして佇むゲープハルトをまとめて掴むと、窓の外へと放り出す。


 ガシャン、と窓のガラスが割れる音を聞きながら、エッカルトだけがうっとりと濡れた息を吐き出した。


「ふふ……僕が起こした事件を解決して、早く借金を返済してくださいね、トラヴィスさん。完済したら、その時は……ふふ、ふふふ……あはははははは!」


 割れた窓から差し込んだ月明かりが、恍惚とした表情で笑うエッカルトの顔を照らし出していた。

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