第3話 焼肉

「安い・早い・美味い」のそろった、学生大満足の焼肉屋の一席。


林はトングを手にロースをひっくり返していく。机の片隅には空になったジョッキと皿が山と積んである。店員さんは皆忙しそうに動き回っており、声をかけるのも憚られるのでそのままになってしまっていた。林も俺も、食べるのに集中しているので、そんなことは気にしてなどいないのだが。


「飲み放題そろそろ終わるんじゃね? 何飲む?」

「ビール」

「りょーかい」


注文パネルからビールとレモンハイボールを注文する。厨房の方から、注文を受信した機器の音がかすかにピロピロと聞こえてくる。


「ほれ」

と林が良い具合に焼けたロースを俺の取り皿に乗せる。


「もういい加減満腹なんだが?」

「いいやお前には第二の胃があるはずだ」

「俺、牛じゃねえんだわ」

「ロースって牛だっけ?」

「知らね」


首のあたりが暖かく、思考が鈍い。酔いを感じながら、俺は手元のジョッキをもう一度空にする。


「高校の時もさ、2人で焼き肉食ってたよな」

そう言う林の目が若干座っている。林は酒に強いが、目だけは座っていくタイプだ。


「食ってたな」

「もうあんなには食えねえな」

「今のこれだって充分食べすぎだからな?」

「絶対また太るじゃん」

「ドンマイ」


そこに、店員が「失礼しあーす」と慌ただしく飲み物を机に置く。そしてそのまま流れるように別の卓へと向かってしまった。


ほらよ、とビールを林の方に押しやる。と、「お前きもかったなあ」と林の口が動いた。


「はあ?」


目の前の男はこちらには目もくれず、新しいビールを一気に半分ほどあおり、満足げに目を閉じて、

「初めて一緒に焼肉行った時覚えてねえ?」

と続けた。


「覚えてねえよ、カレカノじゃねえんだから」


嘘だった。


レモンハイボールをのどに流し込む。


わざとらしく高い声で「まあひどおい」と文句を垂れて、林はタッチパネルから更に肉を注文していく。珍しく酔っているのか、単に頭が悪いのか、なぜか注文をまとめてせず、一品ずつ確定しては注文していく。そのせいか、厨房からはせわしなくずっとピロピロと音が聞こえてくる。


「きもいんだぜお前。まだそんなに仲良くない時、俺が放課後どっか寄っていかね? って初めて誘ったら、お前、『じゃあ焼肉』って言ったんだぜ?」


覚えている。


「いや、高校生が初めて一緒にどっか寄り道するってなったら普通マックとかだろ。なんだよサシで焼肉って。間がもたねえよ。気まずいだろ。普通。お前が先輩だったら最悪だったよ。いや、会えば話すレベルの仲でも充分きつかったわ」


流れるように次から次へと言葉が連ねられていく。ごめんて、となだめるが林の口は止まらない。ああこいつ酔ってるわ、と、彼以上に酔っている頭で気が付く。


「なんつーか、距離の詰め方が変っていうの? 友だちでも他人でもない、きもい時期すっ飛ばしてるきもさがあったね、お前」


ピロピロ、ピロピロ。

林の声と機器の音が重なって耳に入ってくる。


ああ、そういうことが前にもどこかであった。そう思って思考を過去に向けると、先ほど見たベンチがまたすぐに思い起こされた。意識が一瞬であの日のベンチの近くで立ち尽くす、ちっぽけな高校生の自分に引き戻される。


煙。


なぜ俺はそれに気が付いてしまったのだろう。そう後悔しても、一度気が付いてしまっては、その存在を意識から消すことはできない。


目はかすかなそれを捉えるし、鼻はその匂いを感じ取っていた。別に煙草は嫌いじゃなかった。数年前に家を出ていった姉貴も兄貴も吸っていた。でも俺は吸ったことがなかったし、吸いたいと思ったことも無かった。別に煙草は好きでもなかったのだ。


でも普通、高校生がタバコを吸っているところを誰かに見られたら、多少は何らかの反応を見せるものなのではないだろうか。彼を見ていると、その違和感の方が大きくなっていった。瀬木は泰然として座っている。少しの揺らぎも見せない瞳が、ただ俺に向けられているだけだ。まるで何事も起きていないかのように。いや、起きているそのことが当たり前のことであるかのように。


不思議だった。不自然だった。こんなことばっかりだ。


――高校生、煙草。


口を閉じ、一度瞬きして、ゆっくりと近づく。


――イケメンの男子高校生、教室に独りの姿。


そのまま何も言わず、彼の隣に腰を下ろす。


――隣のクラスの瀬木、悪い噂。


「どこのが好きなん?」


――俺、ここ。


そういう全部につじつまを合わせるみたいに。俺も泰然と、あたりまえみたいな顔をして。


顎で瀬木の手元を示し、返答を促すようにまっすぐとその瞳をこちらから見据える。

瀬木は一拍間をおいて、ゆっくりと口を開いた。


「マルボロ」


ピロピロ、ピロピロ。

不自然に不自然を塗り重ねたような空間だった。友達でないどころか、おそらく片方はもう片方の名前すら知らないのであろう関係の、瀬木と俺。いつもこの時間に落ち合わせて駄弁ることが習慣化しているかのように、さも当然のように友達としての会話をする、瀬木と俺。


ピロピロ、ピロピロ。

「あれー、俺らこんな仲良かったっけーとか思ってたら、お前会計全部払っちまうし」


過去のベンチの風景に、ピロピロ音と林の声が挟まってくる。


ピロピロ、ピロピロ。

「俺の兄貴も前に吸ってたことあったかも」

「一本いるか?」

「いらん」


ピロピロ、ピロピロ。

「高校生の奢りって、だからマックのシェイクとかが妥当だろが。なんだよ焼肉って」


ピロピロ、ピロピロ。

「ってか古典の富永って絶対ヘビースモーカーだよな。いっつも煙草臭い」

「あの人、新婚らしいぜ」

「まじで? どう見たって50代なのに?」

「それな。まじ希望だわ」


ピロピロ、ピロピロ。

「しかもお前さっとカードなんか出すの。『あ、カードで』っつって。はあ?って感じじゃん」


ピロピロ、ピロピロ。

「ってか、何。バイト帰り?」

「そ。あっちの大通りの酒屋」

「超遅いじゃん。親怒らんの?」

「そっくりそのままお前に返すわ」


ピロピロ、ピロピロ。

「あ、アイスも食いてえ。透哉もいる?」

ホルモンの油が落ちたのか、煙が一気に立ち上る。


ピロピロ、ピロピロ。

「うちはなんつーか、いいんだよ。そういうの気にしなくて」

「へえ」

バカみたいな相槌を打つ俺。また煙草を咥える瀬木。その顔を覆っていく煙。


ピロピロ、ピロピロ。

夜の川のせせらぎが聞こえる。

「やべ。肉放置してた」

パネルを手放し、トングを握る林。もうもうと上る煙が目に痛い。


ピロピロ、ピロピロ。

厨房から何かを指示する店員の声が聞こえる。

「そっちは?」

「俺は一人暮らしだから」

「へえ。めっちゃいいじゃん」

消えていく煙の奥に見えた瀬木の顔。なぜだろう。つんと痛んだかと思うと、目頭が熱くなった。


ピロピロ、ピロピロ。

「失礼しまーす。上カルビとトントロ2人前ですー」

「あざすー」

ホルモンが網の上から回収されていく。煙が収まる。


ピロピロ、ピロピロ。

「でもいい加減帰った方が良いんじゃねえの。童顔は補導されるぜ?」

瀬木が軽く笑ってタバコを踏み消す。目が、痛い。


ピロピロ、ピロピロ。

「え、何。透哉」

春とはいえ、夜はさすがに寒い。


ピロピロ、ピロピロ。

「透哉? なんで泣いてんの」

なんでぺらぺらのインナー一枚で座ってんの。


ピロピロ、ピロピロ。

なんでそんなに苦しそうに笑ってんの。

俺の口が動く。



帰ろう、瀬木。一緒に



「透哉!!」

林の大声が響き渡った。他の全てを踏み倒して。

川のせせらぎも、煙草の匂いも、ベンチの感触も、そして瀬木の顔も消えていく。


「どうした? 気持ち悪い?」

そこにあるのは心配している林の顔、冷たいジョッキの感触、焼きあがったホルモンの匂い、店員の声。

喧騒の仲、遠くで聞こえる、ピロピロという機械音。


頬を何かが伝って落ちていった。

途端、喉の奥からこみ上げてくる感覚が押し寄せ、俺は為す術もなくそれをその場に吐きだした。


林の声がした。店員が駆けよってくる音がした。他の客の話し声が、皿と皿がぶつかる音が、店の扉の開く音が、俺の吐く音がした。


そのどこにも、瀬木の声だけがなかった。

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変なもの送ってくるダチ 西夏 @nishinatsuorr0301

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