第2話 冬服
「透哉」
自分の名前を呼ばれて目を覚ました。声の主は林だった。見れば窓の外はすっかり暗くなっている。いつの間にか眠っていたらしい。
「これ」
と言って林が燃えるごみの袋を差し出してくる。俺が寝る前に詰めた冬服がたたまれた形のまま入っている。
「捨てんの?」
「うん」
「これから寒くなるのに?」
「邪魔だから」
ふうん、と答え、林はしばし袋を見つめた後、それをまた玄関に戻しに行った。
「俺も去年の冬服かさばってんだよな。今年ダラの飯のせいで太ったし。透哉、好きなのあったら勝手に使ってくんね?」
自分の服が収納されている物置を指さしながら、林は気だるげにこちらを見やった。
まあ、既にある物を使うのであれば。物が増えるわけではないし、問題ないか。
「ありがとう」と軽く頭を下げると、林は小さく「ん」とだけ返した。
「そうだ、ダラのやつ、今日外で食べてくるって」
スマホを触ろうとした林が指を止めて言った。
「まじ? 珍しいな」
ダラは俺たちの中では最も家庭的で、外食を好まない。特に予定がなければ、いつでも美味しい自炊を振舞ってくれるかっこいい男だ。
「なんか、今日のインターン先で知り合いに会ったらしいよ。そいつと池屋で飲んでくるって」
池屋とは、俺たちがよく行く居酒屋の一つである。
ふと机上のれんこん時計を見ると、時刻は19時半。そろそろ夕飯の時間だろう。
ぐぐううううう。林の腹が盛大に鳴る。
「……なあ透哉よ」
「なんだね」
「今夜は男二人で焼肉パーティーといかんか?」
饅頭の下に大判を忍ばせる悪人のようなあくどい笑みを浮かべる林。俺もおそらく同じ笑みを浮かべただろう。まるでピストルが鳴ったかのように、二人とも一目散に玄関に走り出た。
すっかりと日の落ちた暗闇の中、俺と林は肩を並べて川沿いを歩いて進む。
川のこちら側、俺たちが今歩いている側は住宅街に面しているが、反対側にはちょっとした山がそびえており、あたりには心地よいせせらぎしか聞こえない。
俺も林も、途中まで走ってきたことによる息切れを整えるように、大人しくゆっくりと歩く。酸欠になった空っぽの脳内に、そのせせらぎが染み込んでいくような、みずみずしい被支配を感じる。
ふと、それが目に入った。
ベンチ。
川の向こう側に不自然に一つだけ設置されているそれに、目が留まる。
なぜだろうか。普段は視界に入っても気にも留めないというのに。今日、あいつからの布が届いたからだろうか。
古い古いベンチ。そこにあいつが座っていたのは、もう何年前のことになるのだろう。
瀬木だ。
暗闇の中、街灯も無い中であるにもかかわらず、俺は一瞬でその人物を見分けることができた。その日の俺は、高校に入ってから始めた酒屋でのバイトから帰るところで、間違っても補導されないように少々大人っぽい私服に着替えていた。
瀬木も私服だった。しかし制服を身に纏っているかどうかなど関係ないくらい、瀬木の顔は目立つものだったので、そんなことは些末なことである。
ひと月前の入学式の時から、隣りのクラスにかっこいい奴がいる、でもどうやら影をしょっている雰囲気らしい、いやそこがいいんでしょ、などといった噂が流れていた。おまけに名前は「瀬木」という、なんともキザなものであると来たのだからいけ好かなかった。
これは一度、やじ馬に混ざって一瞥してみなければと思った。そして後悔した。噂は納得せざるを得ないものだったからだ。
顔のパーツ一つ一つは主張の激しいものではないのだが、どれもバランスが良いというか、お互いを際立たせているように見えた。派手でもなく、地味でもなく、なんというか「端正」とか「品のある」といった言葉が似合う相貌なのだ。
しかし目元のくまははっきりと濃く、不健康そうな印象を受けた。が、それすらも不潔でもなければ不快でもなく、「影をしょったアンニュイなやつ」にしかならないのだ。
そんな瀬木が、今目の前で、ベンチに座って川を眺めている。
と言っても、俺は一方的に彼を見たことがあるだけで、会話したことは無かった。おそらく俺のことは認知すらされていないだろう。
気が付かなかった風を装って歩き去ろうとした時、ふいと目に入ったそれに、俺の口から「え」と微かに声が漏れた。
瀬木の指先の、煙草。
彼がこちらを見た。目が合う。その時になって、俺はやっと自分の足が止まっていることに気が付いた。
動けないでいる俺とは対照的に、瀬木は動かないでいた。
動揺も驚きもない。川の水面に木の葉が落ちたのを眺めるように、ただ俺を眺めているだけだった。
瀬木の手元から、見えづらい煙が、しかし確かに上っていた。
今でも思う。
あの時、あの時間にあの場所を通って良かった、と。
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