真空された終わりを歩く
夜は何事も無かったかのように静かに明けた。薄暗く、じめじめと陰鬱さ香る世界にやっと差した念願の光だった。
幸樹と寧々は男女という事もあり、監獄の部屋が別々で陽が昇ると同時に紅潮した表情を見合わせる事は無かったが、それでも嬉しそうに囚人服では無い洋服に心弾ませながら袖を通していた。
もうここのサプリメントでしか構成されない囚人食を食べることはないし、看守のストレスを発散される事はない。それだけで幸樹は形容し難い幸福を手に入れたと錯覚する程に、刑務所での生活は幸樹にとって苦痛でしか無かった。
そんな生活からの解放。表情が大げさに動くことの無い幸樹も口角が上がってしまう。
自身が今まで使ってきた独房、所々臼剥がれた壁紙の廊下。少ない予算で導入された近代技術だと謳われている必要性の解らない機械。それを幸樹は餞別する様にじっくりと見渡しながら歩いた。
着いた先で手続き諸々を、嬉しさを噛み殺す様に素早く済ませ、刑務所唯一の出入り口へと向かう。
そこには既に寧々が待機していた。普段の表情と相まって囚人服を着ていない寧々は刑期満了の人間には到底見えない。まるで面会に来たただの一般女性のようだ。
「あっ!幸樹くん!」
奥から余韻に浸るようにゆっくりと歩いてきた幸樹に寧々は大きく手を降った。近くに居た警備員がその高い声を疎ましそうに横目で見ていた。
「寧々、起きれたのか」
少しだけ歩調を早め、寧々の近くまで寄ると昨日よりも弾んだ声で軽口を叩いた。寧々は当たり前じゃん、と胸を張る。
あれだけ学生気分の寧々を嘲けて居たにも関わらず、朝教室で同級生に会ったかの様なうわついた気持ちだった。
「お世話になりました」
幸樹と寧々の声が重なり、看守共々警備員に深々と二人して頭を下げる。今まで散々、自分達を虐げてきた人間に頭を下げるのは、幸樹にとってかなり不服だった。
だが、この頭を上げた先には、目も眩んでしまう様な、明るく清らかで
ああ、やっと。
やっとだ。
膝についた手が歓喜に震える。瞬きをする度に世界に鮮度が戻ってくる。
自身の悪行を滝修行によって洗い流すかの様に、相手が反応を返すのを待った。
それは二秒にも満たない沈黙だっただろう、警備員等のうちの一人が律された声で言った。
「戻ってくるんじゃないぞ」
その言葉に二人は顔をあげ、真剣な声音で返事をした。
今日やっと、雁字搦めに自身に巻きついていた
「行こう」
隣の寧々に声をかける。幸樹を見上げた寧々は表情をこれでもかと綻ばせて頷いた。
睨みつけてくる眼光すら不思議と背中を押してくれるか様に、軽い足取りで二人は外へと向かう。
錆びついた鉄製の扉だ。随分前に通った記憶がありありと蘇り、すれ違う自身の面影に微笑む。
重たい扉が悲鳴を上げながらゆっくりと開いた。
「わ、眩しい……!」
扉を開けた幸樹の後ろに隠れていた寧々が声を漏らした。幸樹は目を
眼前に広がっていたのは青空だった。
絵の具のチューブをそこから捻り出した様な純粋な青が煌々と目に焼き付く。
「綺麗だ……」
ぽつりと幸樹が言葉をこぼす。寧々が幸樹の言葉に賛同するよりも早く、力いっぱいに扉を押し開け、駆け足で煉瓦造りの階段を駆け下り、外の地を踏み締める。
「綺麗だ、綺麗だ…!」
表情の変わり映えがない幸樹も久しぶりの、日光、青空、頬を撫でる風に感動が抑えられないでいた。寧々も辺りを一周見渡し、幸樹に続いて駆け足で階段を降りる。いつも口元しか笑みを浮かべない幸樹の表情の変化にも寧々は嬉しくなる。
「そうだね!とっても!」
二人にとって青空は50年以上の月日が巡った後の再会だった。
急激に老いることが無くなった為、精神の成長も中々発達が進まず、罪の自覚や償いをするにはこの世界の時間軸と合わせる他なかったのだ。
刑務所に入る前にはなかった沢山の高層ビルや、整地された区画や道路がより一層時間の経過を表していた。それでも二人にとってそれは虚しい事ではなく、新しい人生の出発地点として立つ二人に対して世界の祝福にしか見えなかった。
「ねぇ、幸樹くん!やっぱり二人だけでも何処かに行こうよ!こんな久しぶりの外、楽しまなきゃ損だよ!」
青空を映す反射に煌めく水面の様な瞳は、幸樹を突き動かすには充分だった。
「ああ、行こう」
あれだけ渋っていたのはなんだったのかと疑ってしまう程、考える間も無く喉から答えが出た。
寧々はその答えを待ってましたと言わんばかりに微笑む。
「けど」幸樹は興奮した熱を理性で押さえつける様な上擦った声で言った。
「この荷物を取り敢えず一旦家に置いてから、また集合しよう」
片手にお互いが持っているボストンバックの荷物を幸樹はわざとらしく持ち上げて言った。
一瞬、何を言われるのか不安がった寧々の表情にまた花が咲く。
「わかった!じゃあ、荷物を置いたら
二人はその言葉を別れの合図にお互いに背を向け帰路へ向かう。
幸樹は刑務所の中では味わうことの出来ない、変わり映えのある景色に視線を彷徨わせながらゆっくりとゆっくりと歩を進める。
30メートル程、寧々と別れて歩いた時に幸樹の止まることを知らない興奮は、徐々に言い知れぬ違和感に変わり、頭の熱を奪っていった。
寧々と別れて会話相手がいなくなったからだろうか、やけに寂しく感じる。だが、原因はそれではない。
なんだ?
その違和感に自然と足が立ち止まる。上を見て、右を見て、左を見た。
刑務所から出た時となんら変わらない、見違える程進んだ世界が幸樹の瞳に映る。違和感の正体はこれでもない。
幸樹が歩く歩道横の道路に一台のトラックが走行していった。
走行速度を守っていなかったのだろうか、それとも走行速度が改変されたのだろうかもわからないスピードが
そこで気付く。
「音が……しない……?」
昔、大々的に宣伝された水素で動く車か?いや、違う。
風が吹かなければトラックが来たなど気付かない程、何も音がしなかった。
それだけではない、さっきから鳥の囀りや、カラスの鳴き声。ましてや子どもの甲高い声も、おばさん達のニノバタ会議も聞こえない。
ここがそういう鳥や人がいない立地だからか?
車も、水素で動く車より更に音がしない車が発明されたとしても可笑しくはない。
50年以上経ってるんだ、技術がいくら進歩してるのか押し測ることなんて出来ない。
幸樹はやがてそう結論を出すと、再び歩みを進めた。が、その一歩も靴の裏から音が鳴る事はなかった。
「は……?」
幸樹が履いていたのは、ただのスニーカーだった。クッション性に優れている訳でもなく、ただ何年も履き潰したスニーカー。革靴の様な硬い音はせずとも何か音はする筈だ。なぜなら刑務所では鳴っていたのだから。
不安を拭うように足を地面に叩きつける。
赤い煉瓦造りの歩道だ。タンっという高い音が鳴る筈だった。だがその不安を蛇が嘲笑いながら絡みつき、そして蹂躙する。
何も音はならなかった。
何度も地面に転がる虫を殺すように叩きつける、足も痛かった。
頭の中で期待する音が悉く真空されていく。
「なんだよ、これ」
手に力が思うように入らず持っていたボストンバックが地面に落ちる。
煉瓦造りの在り来りな歩道の上に、重力に逆らう事はなくボストンバックは衝突した。
はっと我に返り、反射的にボストンバックに黒目が動く。
落ちた先、右足横。重さは1キロあるかないかの黒い鞄。
そこから音なんて概念は何もかも響いてこなかった。
波打って、平静 ぽのむら @ha-mra
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