終章 二人のその後



 その後、半月は大変だった。


 半月はイヴに付き添われながら、柳生に病院まで車を運転して貰い、入院していた病院に舞い戻った。


 勿論看護師達には物凄く怒られた。重傷を負っていた人間が逃げ出し、更にボコボコに酷い怪我を負って、また性懲りもなく帰って来たのだから当然だろう。正直なところ、あまりにも身勝手すぎるので見捨てられるのではないかと半月は危惧していたが、さすがはプロできちんと優しく治療してくれる。


「何か大変なことがあったのでしょう?」


 看護師にそう言われた。


 行方不明になった女の子が見つかったからだ。


「その、ありが、……あ、ありがとう、……ございます」


 半月は治療して貰っていることと、ビラ配りの件も合わせて、改めてと吃音交じりの不器用なお礼を言った。


「気にしなくて良いんです。見つかって本当に良かった」


 半月という人間はイヴと出会うまでは他人に虐げられ疎まれて来たため、接することを恐れていた。しかし礼節をもって接すれば他人というものは意外と優しいものなのだと知った。


「色んな人間がいるということか」


 何とも当たり前なことだが、半月はそう納得した。


 そして再び始まった入院生活はしばらくは緊張に包まれたものだった。


 それは半月が奈落でBEMを死に至らしめなかったため、薄翅蜉蝣衆から制裁が下るかもしれないと半月は考えたからだ。だがその奈落の件についてはあれで完全決着だったし、柳生が上手く処理してくれたようだ。


 またイヴを奪われ、激昂したBEMが薄翅蜉蝣衆の意向を無視して再び襲撃して来るのではないかとも半月は思った。しかし柳生の話によるとBEMは自分の人格を形成する唯一の拠り所である暴力で負けて、それどころではないらしい。BEMを支配していた危険なピエロの人格が崩れつつあるそうだ。


「面倒事には構わず、そのまま治療とリハビリに励むと良い」


 半月の病室で、そう柳生は破顔して言った。


「恩に着る」


 半月は柳生にも感謝の気持ちを伝えた。


 そしてそれからは半月は安心して病院のベッドの上で体を休めることが出来た。


 病室の窓は開いている。外には学校があり、梅雨晴れの校庭で野球、サッカー、陸上、テニス等の運動部の学生達が盛んに活動している様子が良く見える。また学校の周りには夏を感じさせる鮮やかな新緑があり、その木々から送られてくる新鮮な空気が風となって病室の白いカーテンを揺らし、半月の体を撫でて通り過ぎて行く。


 半月はそんな外の風景をぼんやりと眺めている。


「今はまだ目が見えにくいし、耳も聞こえにくいし、歯もごっそりなくなって、右腕も折れたままで体中が痛くてしょうがないが……」


 全身にガーゼを当てられ、包帯を巻かれ、それをギブスで固定していて、ミイラ男の様相を呈している半月が嘆く。


「ふむ」

「それでも医者の話によると、また格闘技が出来るようになるらしい」

「それは助かるのう。主にはまだまだ現役でいてもらわんと困る」

「道場破りもまた来るかもしれないし、だな。俺がいないとあんな小さなボクシングジム、誰も守れない」

「ホホホ、大口を叩きよる」


 そうして冗談を言い合う。


 半月と柳生の関係は以前ほど険悪ではない。少し前なら考えられないくらい柳生と打ち解けていると半月は感じていた。そうして二人が和やかに笑い合い、柳生が「また来る」と言い残して病室を去った。


 しばらくすると勢いよくガラガラと病室の扉を開ける音がした。


 イヴが来たのだ。


『げ・ん・き?』


 イヴが懐かしのタブレットを操作して半月に問う。


「あぁ、おかげさんでな」


 それを聞くとイヴはにっこりと微笑んだ。そしてイヴはそのまま床頭台の上で、オレンジや黄色のガーベラの花を整理し始め、籠に入れて飾った。


 イヴは毎日お見舞いに来てくれた。


 イヴと言えば最近、ファッションに気を配るようになった。女の子らしい服を着るようになった。イヴも心に余裕が出来て、自分を表現したくなったのだろう。アルバイトの稼ぎも少なく、お金はあまりないが、そんな制限のある中での服選びも楽しいらしい。


 今日もイヴは夏らしいひらひらとしたワンピースを半月に見せつけた。


「可愛いな。良く似合っている」


 半月は正直な感想を述べた。


「フー……」


 イヴは鼻息を荒くして、小さな胸を張って得意気だった。


 そしてイヴは今、病室で林檎を剥いてくれている。最初はソフトボールぐらいあった林檎だが、イヴの手に掛かると最終的にはピンポン玉ぐらいの大きさになることが面白かった。「下手だな」と半月が言うとイヴは拗ねた。


 半月は僅かに残った林檎を食べながらイヴに話しかける。


「生活、変わりないか?」

「(こくり)」

「今の生活に不満はないか?」

「(こくり)」

「そうか、……その、考えたのだが、学校へ行くというのはどうだ?」


 半月は窓の外の学校をイヴと共に眺めながら尋ねる。


 半月は前にイヴが通りすがりの高校生を羨望の眼差しで見ていたことを覚えていた。


 最近の日本では移民が増え、識字率や学力の低下が問題視されているらしい。そこで何かの理由で義務教育を受けられなかった子供達を年齢関係なく受け入れて、基礎の基礎から勉学を教えてくれる特別な学校ができたそうだ。


 まさにイヴに適している学校だ。


 半月はもう既に学校の資料の請求を済ませていて、パンフレットなどにも一通り目を通していた。半月はそれらをベッドの上に広げてイヴに見せる。


「ぅ……ん?」

『ど・う・し・よ・う』


 イヴは少し悩んだようだった。


 イヴは児童養護施設出身ではなく、人身売買で日本に来た人間であり、日本の義務教育は受けていない。そのため行ったことのない学校に対する憧れはあるが、同時に適応できるのかという不安もあるようだった。


「無理にとは言わないが、お前ならきっと新しい環境でも上手くやっていけると思う。学校に行けば困っていた漢字も覚えられるし、苦労していた算数も出来るようになる。それに友達も沢山出来て毎日がもっと楽しくなるぞ」

「……んー……」


 半月としては今まで通り自分が教えても良いのだが、イヴに色々なことを経験させてやりたいという気持ちがあった。


「今度一緒に見学に行くところから始めるか」

「!(こくり)」

「じゃあ準備をしないとな」


 半月は携帯電話を取り出す。すっかりこの文明の利器の虜である。この便利な機械を半月は六割ぐらい使いこなせるようなになった。


 半月は先ほど別れたばかりの柳生に連絡を入れて、イヴの世話をするようにお願いした。


 これから半月は柳生に遠慮なく甘えることにしたのだ。柳生も半月を息子のように受け入れている。そしてイヴも現在ボクシングを柳生から教わっている。半月もイヴも柳生から見れば兄妹なのかもしれない。


「学校で『私はプロボクサーなんだ』と言えばきっと人気者になれるぞ」

「っ(こくり)」


 イヴは少し興奮していて、その場でぴょんぴょんと跳ねてニッコリ頷いた。イヴは半月のベッドに腰掛けると、甘えるように半月の体にすりすりと自分の体を擦りつけた。まるで小動物のようだった。半月にマーキングしているのかもしれない。


 そうなのだ。イヴは柳生の下でボクシングに励んで実力が付いて来たため、今度のプロ試験に臨むと決めたのだ。


 


***** 

 



 数か月後、イヴは学校に通い始めた。勉強も友達作りも順調で、アルバイトでも成果を上げていて給料が上がった。色んなことが好転してイヴは毎日楽しそうにしていた。また見事にボクシングのC級のライセンスを獲得し、プロボクサーになった。そしてデビュー戦の直前である。


 半月の怪我は完治していないが、医者に許可を貰い半月は今回特別にイヴのセコンドとして駆け付けた。


「イヴちゃーーん! 皆で来たよう! 応援してるよ!」


 若い学生達の声が会場に響いた。


 会場の体育館の中は意外と薄暗く、狭い。締め切られた空間で照明は落とされ、低い天井からライトが中心にある青い四角のリングだけに注がれている。そして中央のリングの周りには所狭しと並べられたパイプ椅子の観客席がある。


 人は疎らであった。イヴの学校の友人が数人来ていたが、熱心な観客はそれぐらいなものだ。それもそう、イヴはまだ無名の選手なのだ。スタートは皆そんなもの、これから強くなって有名になっていく。


 イヴはスポーツブラとトランクス姿でリングに上がると、遠くで見ている学校の友達に手に填めた赤いボクシンググローブを大きく振る。


「緊張してないか?」


 半月はリングの外からリングの中にいるイヴに問いかける。


『だ・い・じょ・う・ぶ』


 イヴと会話するのにタブレットを使用することをレフェリーは認めてくれた。


 イヴは体を解すために軽やかにステップを踏む。こうしてイヴを良く体を観察すると出会ったばかりの時は痩せていたが、その時と比べると筋肉もうっすら脂肪も付いてすっかり健康な女の子になっている。


「すっかりボクサーになっちまったな」

『あ・と・む……』


 イヴの体は立派に鍛えられたとは言え、やはり小さい。イヴの階級は一番軽いアトム級だった。イヴはそれを気にしているようだった。もっと重い階級が良かったそうだ。


「別に良いじゃないか、ボクサーは皆自分の体格に合った階級で頑張るもんだぞ」

「……ぁぃ(こくり)」

「拳に血が塗れるかもしれない。肋骨が折れるかもしれない。腎臓や胃が破裂するかもしれない。網膜を剥離させてしまうかもしれない。それでもやれそうか?」

「!(こくり)」


 イヴは両腕を顔の位置まで上げると様になっているファイティングポーズを取り、左ジャブと右ストレートのワンツーを半月に寸止めをして披露した。


「選手、中央へ!」


 レフェリーが簡単なルール説明を行う。イヴは黙って聞いて、頷いた。そしてリングのコーナーに帰って来る。


 半月はイヴの口にマウスピースを突っ込みながら最後の言葉をかける。


「苦しいだろう、つらいだろう、でも苦痛が限界を超えれば強さになる。それが勝利に繋がる。頑張れ」


 ここからはイヴ一人だ。半月はイヴの背中を叩いて気合を注入して見送った。


「ん!」


 デビュー前の新人とは思えないくらい落ち着いているなと半月は思った。そして同時に戦場へ向かうイヴの背の何と力強いことかとも思う。


 半月はいつも強さとは何かと問いかけてきた。そして今回イヴを取り戻して、ある考えに至った。強さとは『思いを叶える力』なのではないのかと。イヴは優しさのない世界で、何度暴力を受けても立ち上がりたいと思った。そして半月は大切な人に傍にいて欲しいと思ったのだ。


 ならば自分の全てと引き換えにしても良いとイヴを欲し、それを叶えた自分は少しは胸を張っても良いのかもしれない。半月は率直にそう思えた。


 でもその強さは自分一人で手に入れた訳ではない。


 一人で弱かった自分は母を手放してしまった。それからは孤独で、大切な人なんていなくて、ただ漠然と死んだように生きる日々を繰り返してきただけだったのだ。イヴが現れて、傍にいてくれたから半月は強くなれたのだ。


「お前のおかげだぞ、イヴ」


 今、半月とイヴは同じ方を向いて立っている。


 試合の開始を告げるコングが鳴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

孤影拳『無我』 安東陽介侍 @a_a_9yo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ