第四章 孤影拳『無我』 その五

 等価交換など存在しない。真にその物の価値が等しいのならば、交換の必要などないのだ。それ故、失う物は大きく、得る物は小さい。それがこの世の摂理である。そして真に欲するものがあるのなら、何を犠牲にしても奪い取る覚悟が必要だ。



 だからぶっ壊れちまっても良い。


 全てを失っても構わない。


 ただしそれだけは譲れはしない。


 孤影拳『無我』


「通常、クロスカウンターとは相手のストレートパンチに合わせてヘッドスリップで頭一つ分横に躱しつつ懐に潜り込み、距離が近づいた所をフックパンチで当てるものです。ただ半月選手、最大の破壊力を誇るスーパージョルトを避ける素振りすら見せませんでした。なぜなのか私にも分かりません」


 この時の半月はもう片目しか見えず、正確に距離が測れないためヘッドスリップでは躱せないし、半月の攻撃も当てられない。だから半月は敢えてBEMのその最強の一撃を受けることにした。


 相手が攻撃を出した瞬間は、相手が距離を教えてくれる。そして走っているBEMも正面から受けてしまえば止まらざるを得ない。その時だけは半月の攻撃が当たる。


「半月選手の攻撃は何ですか? ラリアットのようにも見えましたが……」

「相手の右ストレートの距離は腕を曲げるフックでは届きません。そこで半月選手はロシアンフックと呼ばれる技を使いました。顎の先端に掠めましたね」


 ロシアンフックとは腕を伸ばし、肩を回して、拳を横からぶん回して手の甲の部分を当てる技である。射程距離は腕を伸ばした分だけ長くなりストレートと同じになる。


 横からぶん回す分相手に避ける猶予を大きく与えるパンチだが、腰ではなく肩を回すため上半身はあまり動かずわかりにくい。更にBEMの右ストレートの外側からやってくるその拳は、BEMの右腕自体が壁になって全く見えなくなる。


「命を切らして肉を断つクロスカウンター。まさに『あしたのジョー』の再来です……」



*****



 半月はBEMのスーパージョルトを正面から貰うという高い代償を払った。半月の左頬骨、上顎、鼻骨は割れて陥没している。更に頑丈な奥歯が二本ばっくり縦に割れている。だが辛うじて意識はあった。それは拳をほぼ頭部の正面から受けたため、脳を揺らす回転力が発生しなかったためである。


 そしてそれだけの犠牲で半月が出来たことはBEMの顎の先端へ掠めるような打撃のみである。破壊力はあまりない。だが顎は頭部の先端でここを横から当てると、弱い打撃でもテコの原理のように力が増幅され、脳に対して十分な回転力が生じる。BEMの脳が揺れた。


 BEMが負ったダメージは僅かな脳震盪、平衡感覚の麻痺だけである。一分もすれば回復してしまう程度のものだ。


 負傷の差は歴然だった。


「夜行半月……」


 しかし重症である半月は立ったまま上からBEMを見下ろし、軽傷であるBEMは倒れて下から半月を見上げている。


「殺す! 殺してやるぞ夜行半月!」


 BEMは何とか立ち上がろうとするが、足を滑らせて尻餅を突く。再び立ち上がろうとして半月の前で前のめりに倒れた。


「『一撃で終わらせる』と言ったが、ありゃあ嘘だ」

「グっ!」

「ボクシングと違って十秒待つ必要はないらしい。簡単だな」


 半月はそう囁いて、背中を見せているBEMの背後に回るとBEMの首に後ろから左手を回した。半月の左肘がBEMの喉の前に来るようにし、半月の左の前腕と上腕でBEMの首の左右の頸動脈を締め上げた。スリーパーホールドと呼ばれる絞め技である。


「はん……げ………………」


 BEMは両腕で、首に回された半月の左腕を必死に剥ごうともがいた。しかし技が完全に決まったことを悟ると自身の両腕を半月の左腕から放し、後ろにいる半月の右目に指を突っ込もうとした。


 半月は右目の表面を爪で強く引っ掻かれた。右の視界が赤く染まる。唐突に母である満月を殺した時のことがフラッシュバックした。半月は「目を抉られるとはこういうことか、おぞましくて、気持ちが悪い」と呟いた。


 それでも半月は左腕を放さなかった。


 半月はもう自分の弱さを克服していたのだ。


 …………BEMの全身から力が抜け、BEMはロングタイツとマットに大量の小便を撒き散らした。失禁したのだ。今度こそ、本当に、完全に、意識を失ったようであった。


 半月は腕を解放してBEMを解放した。


「殺すつもりはねぇよ。たとえ薄翅蜉蝣衆に強制されたとしてもな」


 半月はBEMを殺さず、一方的に勝ち名乗りを上げた。どうせ遠くからではBEMが生きて気絶しているだけなのか、死んでいるのかなんて分かりはしない。


 死合終了のコングが鳴った。


 クロスカウンターからの大逆転劇に会場は大盛況だった。


 熱いコールと共にピンと誰かがコインを弾いた。


「雨……?」


 雨ではなかった。


 雨のようにと沢山の紙幣とコインが舞っていた。


 そんな中、半月は傷つけられた右目を酷使しながら辛うじて、檻の外にいるイヴの姿を見つけ出し、イヴの傍まで寄る。イヴも半月の傍の金網まで走って来ていた。そして金網ごしに半月とイヴの手が触れ合った。指と指が触れ合い、半月が指を絡めるとイヴも絡め返してくる。


 今すぐ抱き締めたい。


 この金網が恨めしい。


 半月はふらつきながら何とか片腕だけで、八角柱の檻の金網をよじ登る。するとイヴと半月の間にボディガード二人が割って入る。


「BEMなら生きている。治療してやんな」


 半月がそうボディガードに話すと、ボディガード二人は顔を見合わせて檻の中へ入って行った。ボディガードも薄翅蜉蝣衆の所属、奈落の賞品であるイヴを半月に渡すことに異論はないらしい。


「イヴ……」

「ぅぅう! ……ん! ん! ん!」


 イヴの視線が泳ぐ。どうやら半月のボロボロの顔面と全身を視ているらしい。潰れた顔と折れた右腕を視ているらしい。


 イヴの泣き虫がまた始まった。


 イヴは顔を真っ赤にして生まれたての赤ん坊のようにして泣き続けた。率直に言って不細工だった。せっかく綺麗なドレスを着て、薄く化粧して、おめかししているのに、……美人なのにそれが台無しだった。


 イヴが半月の胸に全身を押し付けるように、抱き着いて来る。細い両腕を半月の背中に回してぎゅっと小さな顔を半月の胸に強く押し付けて半月にしがみつく。絶対に離れないという鋼鉄の意思を感じさせるようだった。イヴの涙と鼻水がべっとり半月の胸に付着した。そしてイヴのドレスも半月の汗と血に塗れた。


「ァァ――――――――――――――――ウ――――――――――――――――ぁぁ――――――――――――――――っっっ! うぁ――――――――――――――――ぁ――――――――――――――――っ!」


 それはイヴの感情が爆発したために出た叫びだった。


 その声が小鳥の囀りように美しければ絵になっただろう。だが悪意ある手術によって取り除かれたその声は、お世辞にも綺麗なものではなかった。音が掠れて、調整に失敗した音の低い弦楽器が出すような、通常なら耳を塞ぎたくなるようなものでしかなかった。しかしそれでもその声は確かに、半月の心の奥底まで響き、震わせたのだ。


 気が付けば半月も感極まって涙を浮かべていた。そのボロボロの全身でイヴの感情を受け止める。左手で抱き締め返してやる。


「二人で、帰れるな……」

「ぁ……ん……ん!」


 半月はイヴの頭に手を置いて、撫でてやる。イヴは泣きながら何度も何度も頷いた。半月が歩き出そうとして大量の出血のためによろめくと、イヴが小さな体で半月の大きな体を支えてくれる。


「イヴ、すまんが重たいだろうが、少し肩を貸して誘導してくれ。目が両方ともあまり見えないのだ」

「ん!(こくり)」


 イヴの体が温かい。

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