第四章 孤影拳『無我』 その四

 試合までに与えられた三日間はあまりに短すぎる筈だった。


 通常格闘家は試合から次の試合までの準備期間を二、三ヵ月取る。それくらい体というものはデリケートで、試合により摩耗した体の仕上げには、慎重かつ大掛かりな準備が必要なのだ。


 半月は病院で体が固まらないようにストレッチをして、鈍らない程度の筋力トレーニングもしたが、入院生活の中ではそれらは限度がある。この三日は試合のために肉体を仕上げるというよりは、普段通りに動けるように留まる筈だった。


「信じられん」


 柳生は驚嘆した。


 今や半月のコンディションは今までにないくらい完璧な仕上がりだった。半月はオフを作らず常に体作りを意識して生活していたが、それでも過去最高の仕上がりだった。


 半月は奈落の控室で裸になりパンツを履き、拳にテーピングを巻き終えたところだ。


「心と体は想像以上に繋がっているということだ。今日という日がどんなに大事か、体も知っているのだ」


 半月は乾燥大麻を噛みしめる。ゆっくり口の中に苦みが広がり、少し後に鎮静作用と覚醒作用が効きはじめる。気が付けば心は落ち着き、恐怖は消え、人間の攻撃的な性質が前面に現れ始めていた。


 半月の心の奥底から、半月を散々苦しめてきた筈の例の怪物が再び現れていた。


 シャドーボクシングはしない。少しでも余計に動けば、体の内側から怪物が肉を突き破って暴れ出しそうだからだ。半月は「後でうんと暴れさせてやる。それまで待て」と呟き、じっとして怪物を抑える。


 心が煮えたぎっていた。


 全身が発熱し、震えていた。


「年齢二十二歳、身長一八九センチ、体重九十六キログラム! 和製元ヘビー級プロボクサー、進撃烈火の拳を持つ男! 夜行半月ぅぅううう!」


 半月と柳生は控室を後にし、花道を通る。薄翅蜉蝣衆の賭博場だ。


「半! 月! 半! 月! 半! 月!」


 ギャラリーが沸いた。


 照明の熱い光が注がれ、ギャラリーの熱い視線が注がれる。


 アメリカンプロレスからやってきたタイタンと戦った時よりも激しい。それもそうだ、あの時の試合は賭け事を楽しみにしている層が多かったが、今回のギャラリーの興味は死合そのものなのだ。


 つまるところ薄翅蜉蝣衆のお偉いさん方は殺し合いに興味があるのだ。


「救えねぇ」


 半月は全身に打ち付けるような歓声に応えず、ただ八角柱の檻の中に入る。


「対するは! 年齢二十七歳、身長二〇二センチ、体重一二〇キログラム! 本業は殺し屋! 深淵の王! Black-eyed monster! BEMぅぅぅううううう!」

「B! E! M! B! E! M!」


 ギャラリーが半月の時よりも沸いた。BEMは奈落では非常に人気があるらしい。


 そして対面の方角からBEMがやって来る。


 恰好は裸に黒いロングタイツのみを履いている。だがそこだけは譲れないのか、顔はべっとりとピエロのペイントをしている。


 半月の心の奥底からドス黒い感情が沸き起こる。半月は腹の奥底から嗤いが込み上げてくる。何とか唇を噛んで堪えるが、どうしても犬歯が隠した口内からはみ出してしまいそうだった。


「よく来たね。楽しい夜になりそうだ」

「……イヴはどこだ?」


 今の半月に緊張は微塵もない。吃音はなく、流暢に話せた。


「僕の後ろ」


 BEMが親指で後方、檻の奥を指差す。


 半月がBEMの後ろに目をやる。八角柱の檻の外、沢山のギャラリーに混じって二人の屈強なボディガードの間に挟まれるようにこぢんまりと座っているイヴがいた。


 イヴと半月の目が合う。


 イヴはフルフルと首を横に振ったが、半月は黙って頷いた。


「この奈落ではね、勝者には薄翅蜉蝣衆から何か賞品が与えられることになっているんだ。例えば過去の死合で、僕は問題児だったから罪の赦しを得た。君は何が欲しい? 沢山のお金? それとも地位?」


 BEMが顔を目一杯近づけながら、笑顔で、半月をおちょくるように問いかける。


 半月はBEMの顔面を殴り付けたい衝動を抑える。


「何もいらん。イヴを解放しろ」


 BEMにイヴは相応しくない。いやこれは建前か、失ってやっとその存在の大きさに気付いた。本音はイヴが欲しい。そう、半月は今日、イヴを助けるためではなく、イヴを貰うために来たのだ。


「へぇ……まぁそうだよね。でもそれは死ぬことよりも嫌だなぁ。僕も頑張らないと」

「約束しろ」

「はいはい」


 BEMは手をひらひらさせて応えた。


 奈落にはレフェリーはいないが、二人のリングアナウンサーが軽く死合について選手両名に説明しつつ、専門のスタッフが凶器などを隠し持っていないかチェックする。


「それではコングと同時に死合を始めて下さい」


 そう二人のリングアナウンサーが「素手のみの何でもアリ」と説明し終えると檻から出てアナウンサー席に戻る。スタッフもボディチェックを終えて檻からギャラリーに混じる。


 半月とBEMは端にある自陣に戻る。


「半月、昂っていることはわかる。だが落ち着いていけ。呼吸を整えろ」


 柳生が半月にそう助言をした。


 息吹と呼ばれる呼吸法がある。まず腹を膨らませながら息を吸う。次に丹田に力を込め、腹を凹ましながら口を開き、内筋を用いて瞬時に息を吐き切るというものだ。半月は両手に正拳を作るとそのまま自身の顔の下で両腕を交差させ、息吹を行った。息を吐き切ると同時に交差させた腕を脇の下まで引き下ろす。


「我は一拳の刹那に生きる武士、仇敵の魂を食らう怪物也」


 半月は精神を統一させ、怪物を解き放った。


 コングが鳴った。


 瞬間、半月はBEMに向かって駆けた。BEMも半月目掛け駆けていた。


 両者共に、先の先を取るために開幕から仕掛けることを狙っていた。


「チッッッ鋭ィィイイイ!」

「ヒェエエエイ!」


 半月は左足で踏み切り、右足を一瞬前に出した。しかしそこから曲芸的に空中で体勢を変え、後ろの左足を前に出してその左足刀で相手を蹴る真空飛び二段蹴りを繰り出した。


 BEMは巨体の全運動量を右拳に込めて走りながら右ストレートを繰り出した。


「初っ端から魅せたァァアアアアアアア!」


 リングアナウンサーが叫んだ。


 会場が漲っていた。


 半月の飛び足刀蹴りはBEMの喉に直撃し、BEMのストレートは半月の水月を直撃した。そして二人共相手を攻撃しても体は止まらず、すれ違う。そして両者近い距離で二人共バランスを崩して倒れ込んだ。


「夜行半月選手の真空飛び二段蹴りは強力ですね。最初に蹴り出すかと思った右足ではBEM選手に当たらないと悟り、空中で軌道を変化させ左足で蹴りました」

「さすがのBEM選手も喉を強く押され、胃液を吐き出しました。しかしBEM選手の攻撃も急所に当たり、半月選手も悶絶しております。BEM選手のパンチは何ですか? 走りつつ殴ったようですが……」

「BEM選手得意のパンチですね。勢いよく跳びかかりながら殴りかかるパンチを『スーパーマンパンチ』と呼びます。ただこのパンチは走っているだけで足は付いているのでステップインと同時に殴る『ジョルトブロー』とも言えます。その二つのパンチの名前を取って『スーパージョルト』とファンの間では呼ばれています」


 リングアナウンサーがそう解説する。


 何がスーパージョルトだ……。「効くじゃねぇか」と半月は吐き捨てた。


 今BEMは左横で倒れている筈。仕掛けねばと考え、水月に貰ったダメージで呼吸ができないまま半月は辛うじて立ち上がった。そして起き上がろうとするBEMの顔面を目掛けてローキックを放つ。


 腰を下ろし上半身のみ起きた状態で、BEMは右腕で頭部を守りローキックを受けた。そのまま左手をマットに付ける。するとマットすれすれの低い位置から半月の足首を狙い、足払いを放った。


 半月はローキックを放っていたため片足立ちである。その足を払われてガクっと膝を付いて屈する。


 BEMが喉を押さえながら堂々と起き上がった。


「君、凄いね……。僕、わくわくして来たヨ。名前何て言うの?」


 BEMは戦う相手の名前を知らないようだった。


 半月は何とか呼吸をする間を稼ぎつつ、ゆっくり立ち上がった。そして静かに自分の名を告げた。


「…………夜行半月」

「やこう、はんげつ。うん覚えた!」


 BEMは両方の拳を上げて構えた。ボクシングがしたいようだった。


 半月は得意の構えを取る。両拳で顔面下半分を守るようなピーカブースタイルの形に、やや猫背で足のスタンスを広く腰をやや落とす形にした。そしてそのままBEMに突っ込んだ。


 半月はBEMの反撃を警戒してウェービングで頭を上下左右に揺らす。そしてBEMに両拳両足を用いて連打を、ジャブ、ストレート、フック、アッパー、前蹴り、ハイキック、ローキックをBEMの頭部、胸、肩、腹、足に全力で叩き込んだ。横から殴る。前から蹴る。横から蹴る。前から殴る。横から殴る。前から殴る。下から殴る。前から殴る。……殴る。殴る。蹴る。蹴る。殴る。……。


 数え切れないくらいの打撃が入った。


 BEMの上半身が赤く腫れあがって来る。そして顔面から出血し始めていた。額と瞼を深々と切っている。上半身が変色していく。当然だ、元ヘビー級プロボクサーの拳を、BEMは何もしないで受けて立っているだけだったのだ。


「拳だけではなく足技も含めた進撃烈火の拳だアアアアア! このまま自分よりも十五キログラムも重いBEMを押し潰すか! 夜行半月ぅううう!」

「半月選手の打撃は倒すものではなく、仕留めるものですね。パワーがあります」


 BEMは両手を万歳するように頭上に構えたまま、進撃烈火の拳の全ての連撃を正面から受けていた。


 凄まじいタフネスだった。


 半月との体格差があるから為せる業であった。


 だが受け続けるのにも限界がある。直に倒れる。甘い闘技者ならそう判断するだろう。だが、半月は違った。


 狙っているな……半月は悟った。


 そうBEMは力を溜めていたのだ。


「フンッッ!」


 BEMが斧を振り下ろすかのように右拳の鉄槌を半月の頭頂部に落とした。しかし半月は上段にこれを受けつつ、前のめりになったBEMの丹田に膝蹴りを放った。


 次にBEMが嵐のように殴りつける左フックを、半月のこめかみ目掛けて打ち放す。しかし半月はこれをダッキングで躱し、BEMの水月に右ストレートを放った。


 更にBEMが大振りのテレフォンパンチで、半月の胸を狙った重いパンチを放つ。しかし半月はこれを半歩右にステップして躱しながら、浮いた左足を上げて左上段回し蹴りをBEMの頭部に放った。


「半月選手、BEM選手の全ての攻撃を打ち落としたァァァアア!」


 BEMが渾身の三連打を全て躱され、全てのカウンターで合わせられて、急所打たれてついに転倒した。


 これが完璧な仕上がりの夜行半月の実力だった。


 隙のない、蹴りと拳の連打。これが真・進撃烈火の拳であった。


「……僕が……こんな……夜行半月、君は何者だ……?」

「お前と同じだ」


 半月は左胸を右拳で叩いて言葉を続けた。


「この中に怪物がいる」

「フフフ……ははは……同類がいるとは思わないよ……。君か僕、どちらかが偽物だ」


 BEMが額から流れる血を手で拭うと白いペイントをした顔が真っ赤な血で染まった。地獄の鬼のようであった。


 BEMは静かに嗤うと仰向けに寝っ転がった。


「…………どうしたの? チャンスだよ?」

「! 舐めるな!」


 半月は立ったまま腰を曲げ、右手でマットに寝っ転がっているBEMの首を掴み、顔面に左拳を落とそうとした。


 その瞬間、下からBEMの両手が半月の右腕を掴んだ。それと同時にBEMの長い両足が半月の首と右肩を挟むように回され、蛇のように巻き付いて来た。


 下からの三角絞めだった。


「こいッッつ!」

「BEM選手! 起死回生の三角絞め! 半月選手どうなる!」


 打撃主体の格闘技をやって来た半月には慣れない感覚だが、総合格闘技や柔術の世界では下にいる方が、倒れている方が、必ずしも不利という訳ではない。下からの攻めの手段もあるのだ。


 BEMは柔術使いであった。BEMが半月の右腕を取り、首に回した両足を半月の後頭部の後ろでがっちり組み合わせる。そして内腿で半月の頚動脈を絞めていく。


 半月の頚動脈が圧迫される。


 半月の視界が白く、そして意識がゆっくり遠のいていく。


「糞っっ!」


 半月は目の前にあるロングタイツの股間を見た。こいつに噛み付きに行けば首ががら空きになりあっと言う間に締め落とされる危険がある。ならば余った左手で金的を打てば良い。そう半月は結論付けた。


「打! 打打打!」


 半月は立って絞められている状態のまま何とか左手でBEMの股間を叩く。何度も何度も叩く。金的は大した力を込めなくても十分なダメージが見込まれる急所の筈だが、不思議なことにBEMは力を緩める気配がない。


「残念だったね。僕に金的は効かないよ。なんせ僕には睾丸が二つともないからね」

「なん……だと……」

「怪我の影響でね」


 BEMは性に対して自信が持てないからこそ、パートナーと決めたイヴに純潔を求めたに違いない。


「な、らばッッ!」


 半月はマットに付けている両足を踏みしめ、奥歯が割れそうになるほど食い縛る。BEMに掴まれている右腕を、一二〇キログラムに到達するBEMの体ごとを持ち上げた。


 ふわりとBEMの体が浮く。それでもBEMは半月の首と肩に足を絡めたまま放さない。


「が、……ガガガ、ガガガガァァアアアアアア!」

「これは……高い……ねッ!」


 半月はハンマーを持ち上げるようにBEMの体を引き上げた。半月は直立に立つ。BEMの下半身は半月の首と肩に絡め、上半身は半月の右腕にしがみ付いたままふわりと高く浮く。丁度半月とBEMは互いに向き合って肩車をしているような姿勢になっていた。


「やるじゃ……ん?」

「滅ッッ」


 半月は引き上げたハンマーで地面を叩くように、BEMを頭から落とすように、BEMの上半身を思い切りマットに叩き落とした。


「…………」

「…………」


 僅かな静寂。


 半月は自身の首に巻かれたBEMの足の拘束が緩んだことを感じた。半月がBEMの顔を覗き込むとBEMは口からぶくぶくと泡を漏らし、鼻から壊れた蛇口のように血を流していた。そしてBEMの特徴的な黒目が泳いで、焦点が合っていなかった。


 BEMは気絶しているようであった。


「はぁあああああああああああ……」


 半月は呼吸を荒くして膝を突く。自分の首に巻かれたBEMの両脚を引き抜いた。三角締めからの脱出に成功したのだ。


「半月選手、九死に一生を得ました! 大逆転です!」

「ハー……ハー……ハー……」


 半月は空気を深く吸い、遮断されていた酸素を脳に送る。視界がくっきり映り、意識がはっきりとしてきた。


「ハー……ハー……ハー……」

「なーんちゃって! ね!」

「!」


 半月の僅かな油断。


 突然、気を失っていた筈のBEMの首が半月を向き、黒い目が半月を捉えた。BEMの裂けた口角が不気味に上がった。


 BEMはマットに叩き落とされる直前、背を丸め頭からではなく背中から落ちるように工夫していたのだ。気を失っていたように演技していただけだ。


 BEMは半月の右腕はまだ放していなかった。BEMは下から、半月の右腕を両脚で挟み込み、半月の右手を自身の胸元でがっちりと掴んだ。そしてBEMはうつ伏せのまま自身の両足で半月の胸を押してマットに倒した。


 腕挫十字固である。


「ぐっ……」


 半月は必死に体を回転させ脱出を図るが、半月の右手はがっちりと親指が上になるように握られていてどうにもならない。


 ――ミシ――

  ――ミシミシ――


 半月の右肘が悲鳴を上げた。


 そのままBEMは半月の右肘を――――躊躇なく、折った。


「グゥウウ…………ッッッ!」


 半月は悲鳴だけは上げなかった。半月は全身から冷たい汗を流し、マットの上でのたうち回る。


 BEMが獣のように犬歯を出し、嗤いながら半月の様子を見ていた。


「蛇のようにしつこいBEM選手のサブミッションがついに決まりましたね」

「通常の試合ならここで終了ですが、奈落ではどうなりますか?」

「奈落では一人の選手がギブアップしてもう一人の選手がギブアップを認めれば死合終了です。しかし奈落の多くの場合は因縁の相手との完全決着を付けるため、ギブアップは認められないことも多いです」


 リングアナウンサーの言う通りだ。これで終わらせてくれるほどBEMは甘くない。あくまでも自分を殺しに来るだろう。その光景をイヴに見せつけるに違いないと半月は確信している。


 半月はのたうち回りながら、檻の隅まで移動する。すると半月は左手で檻の金網を掴んで何とか立ち上がった。半月は壊れた右腕を垂らしながら、左腕だけで構えを取る。


 BEMは黙ってその様子を見ていた。


「ど、どうした? チャンスだぜ?」


 半月は先ほどBEMが言っていた言葉を、そのままそっくり返した。


「少しも闘気が衰えていない。凄いよ。今までで何人殺したかわからないけど、ぶっちぎりで一番の獲物だ」

「舐めるな!」


 絶対不利と思われていた半月が先に仕掛けた。


 半月はコンビネーションなど挟まず、いきなり右の上段回し蹴りを放った。対するBEMは半月の右の上段回し蹴りを、左腕を上げて受けた。


 次に半月はボクシングの右肩を前に出し左肩をやや後ろに引く左構えから左ストレート繰り出す。二連続、否、三連続で左拳のストレートを放つ。BEMはこのパンチを、躱そうともせず、全部両腕で受けた。


「舐めやがって!」


 半月は最後にBEMのこめかみを狙った大振りの左のフックを放つ。


 BEMは最後の左のフックを確認すると、すかさずBEMはダッキングで半月の懐に潜りこんで来た。


 隙だらけのフックは半月の罠であった。半月は懐に入って来たBEMの顔面に膝を合わせた。タイタンとの試合で行ったテンカオと呼ばれるものだ。BEMには打撃を受ける技術はあっても、器用に打撃を避ける技術は未熟だろう。少なくともこの時の半月はそう判断した。


「やるね、半月ちゃん……」

「浅いッ!?」


 しかしBEMは膝が当たる寸前で止まった。BEMの鼻が半月の膝と触れるがそれだけだった。BEMは半月の戦略を見切っていたのだ。


 そのままBEMは半月の膝に掴まって持ち上げ、タックルを仕掛ける。


「はろー、半月ちゃん」

「ち、ちきしょうがッ!」


 BEMの思惑通り、半月は折れた右腕をマットに打ち付けるように倒された。


 半月は激痛で足をBEMの腰に回す余裕がなかった。マウントポジションを許してしまう。BEMに対し、馬乗りの上を許してしまう。


「今殺して楽にしてあ・げ・る……」


 そのままBEMは上から、上半身ごとぶつけに行くような重い拳を何発も落とした。


 一撃、二撃、三撃、四撃、BEMの重く硬い拳が半月の顔面を潰していく。半月は左腕だけでは攻撃を受け切れない。両腕があれば相手の拳を押さえて、体を密着させて、打撃を防ぐ手もあるが、片手では出来ない。五撃、六撃、七撃、八撃、半月の左瞼は腫れ上がり左目は眼窩底骨折もしたようで陥没して開かなくなった。唇はぐちゃぐちゃに切られ、鼻は完全に潰されてしまった。


「まだだ……」


 半月は顔面をぐしゃぐしゃにされる中、左手でBEMの右耳を掴んだ。そして、強く引っ張る。


 半月の狙いは耳を引っ張ってBEMの体をどかし、BEMを転がして自分が横に回って上を取り、逆にBEMを下に組み敷こうとすることだ。スイープと呼ばれる技術である。


 だが柔術のレベルはBEMの方が上である。BEMも半月の狙いが分かると耳を引っ張られても半月の上に圧し掛かったまま動かなかった。BEMの右耳が引き千切れた。


 次に半月は耳が通じないと分かると、BEMの口に手を突っ込み、歯茎を引っ掻きながら横に引き倒そうとする。


 今度はBEMの唇が裂けた。だがやはりBEMは半月の上に圧し掛かったまま動かない。


「痛い痛い! なんということでしょう! BEM選手、勝つために耳を捨てた!」


 BEMは怒りのあまり、半月の肩に噛み付いた。そして肉を食い千切るとマットに吐き捨てる。そして顔面の主に左目を狙って何度も叩いた。耳に何度も掌打を入れた。半月が左腕で防ごうとすると、BEMはその左手首を食い千切った。


 半月の手首の橈骨動脈から激しく出血する。


 そしてBEMは止めと言わんばかりに頭突きを三度、四度、五度放つ。それでもBEMは飽き足らずボウリングのボール以上の重さもある頭突きを好き放題半月の顔面に放つ。十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十と。


 そうしてBEMは念入りに半月の顔面を破壊した。


 …………。

 ……………………。

 …………………………………………。


 半月は動かなかった。


「勝った……勝ったァァァアアア!」


 BEMは立ち上がり、奈落の中心で勝利を叫んだ。


「ふふふふ、ははは、ハハハッハッハ……誰も僕を殺すことは出来ない。これで子猫ちゃんは僕の物だアアアアアアアア!」


 やったやったとBEMは喜びのあまり八角柱の檻の中を走り回った。だが不思議と誰もBEMの勝利を称える声を上げなかった。


 不思議な静けさがあった。


「こ、これは……」


 リングアナウンサーが驚嘆の声を上げる。


 BEMは八角柱の檻の中央にいる半月に目をやった。


「こ……子猫ちゃん……じゃねぇ……イヴって言う名前なんだぜ……? 興味ないだろ? お、お前は恋愛ごっこしながら、……結局のところ自分にしか興味ない」


 満身創痍の半月が再び立ち上がろうとしていた。歯は口内で砂利のようにぐちゃぐちゃに砕け、右腕は折られ、鼻は潰れ、左目も瞼が腫れて上がったせいで見えず、更には鼓膜も破れかけており両耳もあまり聞こえないという有り様である。


 もう出来ることは少ない。


 それでも半月は立たねばならない。それは夜行半月の根っ子が、打たれても打たれても最後まで立ち続け戦うボクサーだからである。それだけがイヴを取り戻すための道だからである。


「………………子猫ちゃんと同じように喉も潰しておけばよかった。煩い奴は嫌いだ」


 BEMのその一言で、半月の心に小さな火が点いた。


「お前が、イ……イヴの、口をきけなくしたのか?」


「そうさ、安い手術だったよ。僕の花嫁に自我なんて要らないからね。抱き心地の良い人形であれば良い。美しさだけあれば良い」


 半月の心に生まれた取るに足らない一つの小さな灯が、半月に最後の力を与えた。それと同時に、半月の中の怪物は再び光に怯え、隠れた。


「イヴ……」


 イヴがどれだけお喋りが好きで、イヴがどれだけ感情表現が豊かな娘なのか、この愚か者は知らないらしい。


 イヴがどれだけわがままで、イヴがどれだけ優しい娘かこの愚か者は知らないらしい。


 イヴがどれだけ努力家で、イヴがどれだけ苦労してきたかこの愚か者は知らないらしい。


 イヴ、これが終わったらどうしよう? 美味しいもの食べさせてやろう。可愛い服を着せてやろう。学校に行かせるのも良いかな。家事も二人で練習しないとな。ボクシングも教えてやらないとだな。


 半月はイヴを見る。イヴと目が合った。イヴときたら不安でいっぱいらしく両手を合わせて懸命に祈りを捧げている。


 半月は左拳を高く、真っ直ぐ上に突き上げた。そしてゆっくりと人差し指を伸ばし、

「一撃で終わらせる」


 と高らかに宣言した。


「たった一撃で僕を仕留めるって? ハッ! 半月ちゃんには良い加減うんざりさせられる!」


 半月は左拳を降ろした。ガードも構えない。そうして更に半月は腫れて陥没して塞がった左目だけではなく右目も閉じた。


 BEMは檻の隅、半月は檻の中央、二人の間にはまだ距離があった。


 BEMが再び駆けた。


「BEM選手! 再び右のスーパージョルトォォオオ!」


 おそらく一番初めに行った、走りながら殴るという一番破壊力のあるBEMの右拳だろう。BEMが大きく右拳を掲げながら走り接近してくる。半月に向かって来る。


 対する半月の意識は研ぎ澄まされていた。感覚器官を遮断し、静寂の闇の中で確かな生を感じていた。


 Black-eyed monster、お前が受ける拳はこの世で最も儚く、脆く、か弱い一撃だ。その最弱がお前を討つ。


 そして半月はゆっくり残った右目を開いた。力無く両腕をぶらりと垂らして構えず、ただの自然体に近い直立姿勢で、備える。


 ただ静かにその時を待つ。


 白。

 白。

 白。


 この拳はイヴがいなければ決して完成することはなかった。


 それは全くの偶然で、それを後から運命と呼ぶのはあまりに容易い。イヴと雨の降る通りで出会わなければ、イヴは決して一人ではなかったが初めてのリングの上で孤独な影を背負った強さを見せてくれなかったら決して見つからなかった拳だ。イヴががむしゃらに、無我夢中で拳を振るった時に見せてくれた拳だ。


 全てはこの時のために…………。


「今」


 半月が動いた。


 


 孤影拳『無我』


 


 同時に半月の左拳が横から、BEMの右拳が真っ直ぐ、丁度両者の拳が十字に交錯し、互いを殴りあった。


 時が止まったようであった。


 静寂が二人を包み込んだ。


「く、クロスカウンター……相討ちです」


 リングアナウンサーが絞るような声でそう伝えた。


 会場がどよめいた。

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