第四章 孤影拳『無我』 その三

 半月は電話の主と会うため、待ち合わせ場所であるこの病院の屋上へと向かった。松葉杖はもう必要ないが、体の調子を確かめるように慎重に歩きながら階段を上がっていく。


 屋上に出ると残念ながら今日は曇りであった。もうすぐ訪れる梅雨を予感させる湿っぽい空気が流れ、陰鬱な気分に拍車を掛けるようであった。鳥が低く空を旋回し、屋上に干されている沢山の真っ白いシーツが僅かに風になびく。


 半月はフェンスに手をかけ、上から病院の中庭を覗いた。


 中庭には白いだけの無機質な建物の間に植込みがある。その緑が出す新鮮な空気を嗜むパジャマ姿の患者がいたり、その周りで看護師の指導の下体操をして活力を高める老人達がいたりした。


「病院の屋上なぞ、勝手に開けていて良いものなのか? 追い詰められて飛び降りてしまう人もいるかもしれないというのに」


 半月は背後を振り返り、フェンスに自身の体重を預ける形で屋上に遅れて来た相手に問いかけた。


 柳生重蔵であった。


 半月の携帯電話に電話したのはこの男であった。


「ここの病院は薄翅蜉蝣衆の息がかかった病院でな、人払いの出来る空間が欲しいと院長に尋ねたらここを用意された。普段は開放されておらん」


 薄翅蜉蝣衆とは最近関東で勢力を伸ばしているヤクザであり、柳生はそこの組員だ。半月も正式な組員ではないが、薄翅蜉蝣衆を通じて格闘家としての仕事をしている。


「なぁ半月、もうあの彼女に関わるのは止せ。チラシを配ることも止めなさい」

「断る」

「彼女に関わるのは、あまりに危険じゃ」

「ピエロのような男のことか? 何か知っているのか?」

「…………」


 柳生は口をつぐむ。


 柳生は半月の横に立つと腰を下ろした。半月と同様に座ったままフェンスに体を預け、黙って持っていた果物ナイフで駕籠に入っている林檎の皮を剥く。


「なぁ……柳生、俺は今まであんたに従順に従ってきたつもりだ。八百長もやったし、道場破りからジムを守ったりもした。時々は組の汚い仕事の手伝いもした。そうだろ? ならば少しくらい俺に協力してくれ」


 柳生の用意した林檎は綺麗に八つに切られた。柳生はその内の一つを半月に手渡す。


 半月はそれを受け取り、もぐもぐと食べた。


「……主がわしのことをどう思っているのかは知らんが、わしにとってお主は息子のようなものなのだ……。特にわしは子供が作れない体で、独り身なのでな」


 半月は驚いた。


 半月は柳生に便利な駒ぐらいにしか思われていないと感じていた。勿論柳生が適当に耳当たりのよい言葉を並べているだけの可能性もあるが、それでも自分を息子のようだとは中々言えないだろう。それに柳生の話し方は真摯な態度で本音のような気がしたのだ。


 それなら、息子だと思っているなら、尚更協力して欲しい。


「愚かな息子の願い……聞いちゃくれないか?」

「…………」

「頼む」


 半月は柳生の方を向いて、座り込んだ。そして頭を下げた。


「彼女のこと、あの男のこと、知ってどうする?」

「もしイヴが今も辛い目に遭っているのだとしたら、何とか助けてやりたい」

「彼女が大切か?」

「大切だ」


 半月ははっきりと言い切った。


 やはりこうなったかと柳生は呟いた。


「まずは主に謝罪せねばならない。彼女は元々薄翅蜉蝣衆の商品でな、全組員に彼女を捜索するよう指令が来て……わしが彼女を売った」

「なっ!」


 半月は一瞬激昂して柳生に掴みかかろうとした。しかし落ち着いて考えた。柳生は他に選択肢がなかったのだ。薄翅蜉蝣衆の豊富な人材を使えばあっという間にイヴに辿り着く。匿ったと分かれば柳生も自分もただでは済まない。


 多くを守るための措置であったのだ。


「…………イヴもピエロも薄翅蜉蝣衆絡みか」

「……そうだ。主が遭遇して彼女を攫ったピエロのような男、あの男はBlack-eyed monster(黒い目の化物)、略してBEMと呼ばれている。薄翅蜉蝣衆お抱えの暗殺部隊、戦闘部隊の隊長格だ。今回の彼女の捜索、奪還はそのBEM直々の命令じゃった。そんな危険な男に逆らえばわしもお主も殺される。わしは出来るだけ穏便にと頼んだが、聞き入れられなかったのが悔まれる」

「それでも……急いで救急車を呼んでくれてありがとう。迅速な手当がなければ俺は死んでいた」

「……あ、あぁ。バレてしまったか」


 柳生は自身の頭を掻いた。


 柳生は半月が銃撃された後、自分が救急車を呼んでやったのだという、恩着せがましいことを言うつもりはなかったようだ。そしてBEM達と半月が戦っていた時、遠くから見ているだけで何もしなかった自分が責められると思っていたようだ。


 半月はただ感謝の意のみを伝えた。


 半月は、少しは大人になれた気がした。


「それでイヴは無事なのか?」

「わからん。主は、……その、聞きにくいことじゃが、彼女に誘惑されなかったか? 関係を持ったことがあるか?」


 半月はその質問がイヴと安否と何か関係あるのか分からなかった。だが、正直に答えることにした。


「誘惑されたことはあるが、していない」

「ならばBEMは処女である彼女を殺したり、取返しのつかない拷問をしたりはせんだろう……。BEMに取って彼女は唯一心の許せる自分だけの花嫁なのだから」

「その男とイヴにどんな関係が?」

「知人の伝手を頼って調べた限りの話じゃが……」


 この話は機密事項であると付け加えた上で、柳生は静かに語った。


 BEMは当初、大人しい好青年だったようだ。だがBEMの妹が重い病気にかかり、金が必要になった。そのために選んだ職業が殺し屋だった。


 BEMは十七の時から暗殺業を始め、現在の二十七になるまでの間に五十五人もの人間を殺戮したそうだ。その間に妹も亡くなり、罪悪感と無力感から少しずつ精神を摩耗し、病んだようであった。ストレスのために統合失調症を患い、ストレスからの逃避のために多重人格障害を患った。


 とにかく治療には投薬とカウンセリング、それに人の温もりが必要であったらしい。その癒し手として白羽の矢が立ったのが、人身売買で売られてきた少女、イヴだった。


「海外から幼い少女が表向きは妻になる女として、内実は性奴隷として輸出されることは良くあることなのだ。不景気とはいえ、日本人は金持ちが多いのでな」


 そう柳生は付け加えた。


 イヴは人身売買業者から教え込まれた技術で、BEMに性的な奉仕をして仕えるつもりだった。けれどBEMは高い金で買ったにも関わらず、幼いイヴを亡き妹のように大事にして接していたようだった。


 そのため、BEMとイヴの関係は始めは良好だったそうだ。


 そしてカウンセリング代わりのイヴの献身的な介護があり、BEMの統合失調症の病状も安定したようだ。


 だが、BEMの多重人格障害は治らず悪化していった。


 時折、BEMの通常の穏やかな人格が無くなり、BEMの内に秘めた残虐性を体現したかのようなピエロの人格が出現し始めた。


 ピエロの人格は欲望のままに、一番近くにいた癒し手のイヴを攻撃し始めた。イヴに対し調教と称して虐待を繰り返し、どんどん追い詰めていく。そしてピエロの人格はただ欲望のままに周りを攻撃するだけでは飽き足らず、元の穏やかなBEMの人格をも攻撃し始めた。


 BEMの体を乗っ取るよう画策し始めたのだ。


 少しずつピエロの人格でいる時の方が長くなっていった。


 そして最終的にBEMの人格の大半はピエロのものになった。イヴへの精神的虐待も苛烈を極めたようだった。


「イヴはそこから逃げ出したのか?」

「……当初はそう考えられていたようだが、実際は違うようだ」


 なんとBEMの元の人格が最後にイヴを逃がしたらしい。


 BEMの元の人格はイヴの体内に埋め込まれた発信機を壊し、イヴの逃亡の手筈を整え、イヴが逃亡するために必要になった全ての情報をピエロの人格に見つからないよう処分したようであった。


 BEMの最後の良心だった。


「それが半年前じゃ」

「大体俺と出会う時期と合致する」


 初めてイヴと出会った時、イヴは身も心もボロボロだった。きっと相当追い詰められていたに違いない。


「ピエロの人格を考慮するとBEMは彼女の命までは奪わんじゃろうが、虐待は続くじゃろう……」

「! ……イヴの居場所はわかるのか」

「分からない。……じゃが救い出す機会はある」


 柳生は半月の肩を強く掴んだ。


 そうして柳生と半月は目と目を合わせ、柳生は問う。


「半月、相手は化物。本当に死ぬ覚悟はあるか?」

「……ある」


 そうか、と呟いて柳生は肩を落とした。


 そして柳生は携帯端末を懐から取り出し、それを半月に見せた。


 それはBEMから半月へ向けた一通のメールだった。『奈落へようこそ』という件名で日時場所の指定があった。明々後日、薄翅蜉蝣衆の賭博場。


「BEMは観客を集め、奈落と呼ばれる死合をしたいそうだ。そこに彼女も連れて来るそうだ」


 奈落とは薄翅蜉蝣衆の極限られた者しか知らない最上級の見世物であるらしい。ルールもなければレフェリーもいない、ただ素手のみの八角形柱の檻の中での殺し合いも許容される闘いである。


 メールの最後には『勇気があるなら落ちて来い』と記載されていた。


「俺の土俵である格闘で決着つけようとはな。舐められたものだ」


 そんな半月の油断とも取れる物言いに対し、柳生は「BEMの殺人は場所を問わない」と注意を促した。


「BEMにも格闘の心得はある。それにBEMの今の人格は問題が多く、粛清に近い形で今までに二度も奈落に落ちている。そして二度とも相手を殺害して生還している。付いた通り名が『深淵の王』だ」

「へぇ……」


 半月は怖気づかない。むしろその精神は高揚していた。


「わしも主が生き残るための出来る限りの協力はさせて貰う。……が、時間がない。お主、いつ退院できる?」


 柳生がつまらないことを聞く。


「今だ」

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