第四章 孤影拳『無我』 その二



「今までありがとう。君のおかげで僕は少しだけ僕でいられた。でももう駄目だ。君は僕に見つからないように逃げなくちゃならない。無責任なことを言うようだが、どうか良い人に巡り会って守って貰ってくれ。そして幸せになれることを祈っているよ」


 そう言ってあの人は私の鋼鉄の首輪を外して、私を自由にした。


 半年前のことである。



*****



 目が覚めるとイヴは窓のないピンク色の部屋にいた。


 壁と天井には花柄のピンク色の紙が貼られ、床にはピンク色のカーペットが敷き詰められ、引き出しや化粧台、机などもピンク色で統一されていた。そしてイヴへの配慮なのかは分からないが、部屋を賑やかにするように辺りにぬいぐるみや和風洋風の様々な人形が置かれている。


 どれもイヴの好みではなかった。


 現在イヴは真っ白なドレスを着せられて、室内の中央に置かれた天蓋の付いた大きなベッドの飾り板に、背を預ける形で座っていた。


 イヴは拉致されてからずっとこの部屋に監禁され、ただ何もせず過ごしていた。タブレットもなければ自由帳もなく、勿論文字の読み取りと書きの練習も出来ない。


 何ここは言わば牢獄に近いのかもしれない。いや、イヴはここでは鑑賞用の人形や精々愛玩鳥のような存在である。そのことを考えると鳥籠と言ったところか。


 部屋には窓もなく時間の感覚が希薄になる。イヴは自信がないが、食事の回数を考えると半月と引き離されてからおそらく二ヵ月ほどが経過していると推察する。自分が拉致されたことはニュースになっているかもしれないが、これだけ時間が経過しているともう警察からの助けは期待できないだろうと諦めていた。


 半月は生きているだろうか? イヴはそれだけが気掛かりだった。


 コンコンと部屋をノックする音が部屋に響き渡る。


 何のためのノックなのかは不明だ。部屋は天井に取り付けられた三台の監視カメラが常に作動してプライバシーは全くない。外界と通じる唯一の扉の鍵も、鳥籠と同様に内側ではなく外側に付いている。つまりは出ることは許されず、入るも入らないも例のあのピエロ次第なのだ。


「ハロー……子猫ちゃーん。元気かーい?」


 ニヤニヤと醜悪な笑みを浮かべながら、シルクハットに燕尾服を着込んだピエロが扉から入って来た。例のボウ・アンド・スクレープと呼ばれるヨーロッパ貴族の伝統的なお辞儀をした。


 このピエロの恰好をした白人の大きな男、名前はBEMという。忙しいのか、時々しかここには来ない。この部屋に現れたのは今回で四回目だ。


「子猫ちゃん寂しかった? ごめんね。でも大きい仕事が片付いたからこれからは毎日来るよ! お詫びにプレゼント! 子猫ちゃんはお花にご執心だと聞いてね……ハハハ! 特別に手配したんだ!」


 BEMは背中に隠したピンク色の薔薇の花束をイヴにバッと差し出した。


「………………」


 イヴは無言で、自分を殺して作った微笑みを浮かべで花束を受け取る。


 確かにイヴは花が好きだった。花だけではなく、命溢れるものが好きだった。それに監禁されているこの部屋は何もかもが停止している世界で、イヴは僅かでも時の流れを感じさせるものが欲しかったのだ。


 イヴは花束を受け取る。そして花の香りを嗅ぐ。


 無臭、それは造花だった。


「ハハ! 驚いた? 本物の花は直ぐ枯れるし、汚いからね。永遠のその姿を保つ偽物の方が良いでしょ?」

「…………ぅ……っ」


 イヴは自分を殺して再び微笑む。


 イヴは心の中で、なぜピエロのBEMはこんなに私の心を弄ぶのだろうかと思う。だがその感情を顔に出してはいけない。何も感じてはいけない。


 ピエロのBEMはイヴが感情を表に出すと発狂して暴力を振るうのだ。そのために自分は口を塞がれたのだ。自我や意思を持つ人間は不要、イヴは血の通った温かい人形であることを求められている。


 イヴは泣き虫だ。イヴの作った仮面の笑みから涙が溢れた。


 BEMはそれを嬉し涙と受け取った。BEMはイヴの手を取る。BEMは自身の顔をぬるりとイヴの顔に近づけた。


「僕は祝福された純潔の愛を得た」

「っ! …………っ。……」


 嘘だ。ピエロのBEMは私に興味、関心がない。この男が私の気持ちを察しようとしたことなど一度もない。観賞用としか思っていない。何が愛だ。私は子猫ちゃんじゃない。イヴという名前がある。そうイヴは作った心の仮面の下で叫んだ。


 イヴはピエロのBEMと三年も一緒にいたが、一度も名前を呼ばれたことはない。恐らくピエロのBEMは自分の名前を知らないのだとイヴは思っている。


 しかしイヴは自身の名前をピエロのBEMに教えることはしなかった。ピエロのBEMはイヴが何か意思を持つこと、意思を伝えることを極端に嫌がったからだ。積極的にコミュニケーションを取ろうと毎日、それこそ一日も欠かさず、しつこく文字の読み取りと書きの練習に付き合ってくれた半月と真逆の反応であった。


「フっ……フっ……」


 イヴは涙を溢れさせながらあの夜行半月という男を思い出した。


 半月と一緒だった時期は短かった。それでも半月は私という人間に関心を持って、私に声をくれて、会話をしてくれた。


 何よりも私が声を失って、誰にも知られることのなかった筈の名前を知ってくれた。唯一親から貰ったこの名前を良い名前と言ってくれた。そして何かあるごとに優しく私の名前を呼んでくれた。


 胸がときめくくらい、本当に本当に嬉しかったのだ。


 あの人の元に返して欲しいとイヴは願った。


「子猫ちゃんもご存じの通り、僕はかつて弱い人間だった。幻聴と幻覚に酷く悩まされ、壁を向いたまま怒鳴り声を出す精神異常者だったんだ。でもその僕はもういない。僕は僕を殺したからね。それにだって……」


 BEMは半月の四畳半の部屋より一回りも二回りも大きな部屋でバレリーナのように踊った。


「世界はこんなに歓喜で満ち溢れているのだもの!」


 BEMのその独り言は支離滅裂で、イヴには訳が分からない。


「……ぃ…………」

「今の僕の精神は次元を超えた愛を獲得し、私の肉体はあらとあらゆる攻撃にも耐えられる不死の体となった。僕は史上最強にして最狂にして最凶の戦士となったのだ。ハハハははは! これはまさに奇跡だ」

「……ゃ……っ」


 BEMは、困惑するイヴの反応を視ずに一人で延々と話を続けている。それはBEMなりの告白なのだろうか? BEMは語り掛けながらイヴの座っているベッドに足を掛け、ベッドに上がってイヴに迫る。


 そしてイヴの足に頬ずりした。


「……ッ……ッ! ……ぁ……っ」


 イヴはまだBEMに体を許したことはない。BEMがその気になっても何とか躱して自分の身を守ってきたからだ。だがそれもそろそろ限界のようだった。


「僕には力がある。僕は人々に称えられる英雄となり、残酷な化物となるだろう……」


 BEMは舌をペロりと出すとイヴの足の指先を舐めた。BEMは恍惚した表情でゆっくりと足の甲、脹脛、太腿へと舌を這わせていく。


 イヴは気持ちが悪く、毒蛇が体中を這いずり回るような感覚を覚えた。生きたまま丸呑みにされるような恐怖でいっぱいになり過呼吸気味になる。


「だから僕に委ねて……付いて来て」


 BEMはそう耳を元で囁くとイヴの耳をしゃぶった。


「…………ン」


 全て奪われる。イヴはそう思った。


 BEMはイヴの首に舌を這わせ、頬、瞼を舐めようとしたところで、ふとイヴを凌辱する動きが止まった。


「傷……」


 イヴの肌は褐色で目立たなかったが、BEMはイヴがボクシングの練習で出来た些細な赤みがかった傷痕が気になったようだ。傷そのものは完全に治癒しているが、BEMは肌の僅かな変色が気になるようで、「傷……傷……傷」と呟きながらイヴのドレスを捲り上げ、両腕、両足、腹、背中、顔、首を凝視する。


「…………………………あの男から……暴力を受けたのだね?」

「!」


 イヴは一心不乱に首を横に振る。


 だが、いつだって思いは届かない。もうずっとBEMと一緒にいて分かっていることだ。いつも会話は一方通行で、自分の意思は無視される。この男との意思の疎通は図れないのだとイヴは知っている。


「許さない……」

「ゥ!」


 それでもイヴは祈るように、ただただ首を横に振るばかりだ。


「僕の花嫁は完璧でなければならないのにッッッ!」


 BEMはそう怒鳴った。


 ピエロのBEMという男は他人の心配などしない。決してイヴが暴力を受けたから怒っているのではない。自分の持ち物に傷が付いたから怒っているのだ。


「やはりあの男……殺す……」

「!」


 殺すとはどういうことだ? 夜行半月は生きているのか? そんな希望がイヴの中で生まれた。


「………………ぶち殺してやる。………………殺してやるぞ。……どう殺してやろうか……? 顔を変形するまで磨り潰して、泣き喚いて許しを請うまで殴ってやろうか? ペンチで一本ずつ全ての歯を抜いて神経を抉ってやろうか……? 手足を切断して虫のようにして睾丸を口に突っ込んでやろうか……? 殺した後はどうする? ……首から上だけを残して剥製にして飾ってやろうか? ……犬の餌にしてやろうか……? ……殺してやる。……殺してやる。……殺してやる。……殺してやる。……殺してやる。……殺してやる。……殺してやる。……殺してやる。……殺してやるぞ」


 ゾクりと、イヴは震えた。


 BEMは涎を垂らし、体を震えさせ、自身の手から血が滴るほどに強く拳を握り、その漆黒の瞳が通常の人間が抱えられる憎しみの限度の量を超過していると確信出来る物に変貌していた。


 イヴは恐ろしくてガタガタと震え出す。心臓が暴れ出し、全身の血液が逆流するようであった。背中に氷柱で刺し貫かれたような衝撃があった。だが勇気を持って誤解を解かねば、怒りを鎮めなければ半月が今度こそ殺されてしまう。


 イヴは決死の覚悟で殺意の漲るBEMの腕を掴んだ。


「子猫ちゃん?」

「ぁ……ン」


 捨て身の覚悟を要求される。


 イヴはゆっくりとBEMと互いの吐息が感じられるほどに顔を合わせる。そして精一杯の笑顔を浮かべ、首を横に振った。そしてイヴはゆっくりとBEMの裂けたように長く赤い唇に、接吻した。


「……ぅ……ン……」


 イヴは惨めで涙が止まらない。半月の命に比べれば自分の純潔など安いものだ。そんな事は分かっている。だが、それでも悔しいのだ。悔しくて苦しいのだ。


 二人は吐息を交わした口を離した。


「わかった……わかったよ。子猫ちゃん……」

「っ!」


 初めて意思が伝わった?


 嬉しくなってイヴは顔を上げる。


「あの男に汚された君を清める『奈落』の儀式をしよう! 多くのギャラリーの前であの男を嬲り殺して祝福の喝采を浴びよう! その暁には二人で結ばれよう!」

「ッッッ!」


 奈落とは生死を賭けた戦いだとイヴは聞いている。このままでは半月が殺される。イヴは胸に抱いたその淡い希望すら打ち砕かれた。


 イヴの中で何かが弾けた。


 バシッと強い音が部屋に響く。


 無意識の内に、イヴはその右拳を握りしめ、力を込めて、BEMの顔面を殴ったのだ。


「子猫ちゃん?」


 半月が教えてくれたパンチだった。


 そうだ、自分はピエロのBEMという男の暴力に屈服しないために、そして一緒に花を拾ってくれた優しい半月のように強くなりたかったのだ。だから無理を言ってボクシングの教えを請いたのだ。イヴは思い出した。


「…………ン……! ッ! ッ! ッ!」


 イヴは何度も何度もBEMの顔面を殴打する。だがBEMとイヴとの体格差は圧倒的で直ぐにイヴは取り押さえられてしまった。


 BEMは赤い付け鼻から僅かに鼻血が垂れるだけだった。


「腰の入った良いパンチだ。でもね、子猫ちゃん……折檻が必要だね」

「ぅ……っ! ぁう! ぎゅ……っっ!」


 イヴは怒って全力で暴れた。BEMにしてみれば小さな反逆だったかもしれない。それでもイヴは噛み付いて叩いて蹴飛ばして、初めてBEMに対して本気で抗ってみせた。


 BEMは少し驚いたようであった。しかしBEMは迅速に、力任せに暴れるイヴをより大きな力で押さえ付けた。


 そこからいつも通り、ドレスの上からなぜか常に持ち歩いているガムテープを用いて両手と両足を何重にも巻いて拘束する。そして両眼もガムテープで目隠しをし、部屋の隅にイヴを放置した。


「フー! ……フー!」


 イヴは鼻息を荒くして、拘束されながらも全身の力を込めてもがく。


「良い子になるんだよ、子猫ちゃん」


 イヴは真っ暗闇に葬られ当然話すことも出来ない。生殺与奪の権利を他人に委ねることになった。


 この折檻は失禁しても脱糞しても終わらない。それどころか脱水症状を引き起こしても、空腹になっても、体調を崩しても終わらない。発狂するまで、死にかけるまで、何十時間でも、BEMの気分次第でいつまでも続くのだ。


 BEMはこうしてイヴの反抗心を削ぐように調教する。


 このような暴力を受け、イヴは半月と会ったばかりの抑鬱的な人間のようになってしまったことを理解している。けれど今の自分はあの時とは違う。もう自分は屈しない。そのために強くありたいと願ったのだから。


 イヴの直ぐ近くで電子音とBEMの話し声が聞こえる。BEMが電話を使っているようだった。


「一人ね、大勢の前で、奈落に落として処刑したい男がいるんだ。…………そうそう例の男。ただ暗殺するだけじゃ生温いからね。格闘家なんだろ? ……彼女がいるって言えばすぐ来るでしょ」


 BEMがそう言い残し、扉を閉める音がした。


 半月に逃げて欲しいと願うイヴ。逃げて、逃げて逃げて、そして生きていればいつか必ず再会出来る。


 孤独で、つらい戦いになる。


 でももう負けない。


 イヴはそう固く決心した。

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