夜光列車〈4〉
6
ここが〈プラットフォーム〉らしい。
ドラマで見たことのある駅とほとんど同じ内装だった。
列車の幅に合わせ、両側にホームが延びている。少し奧には階段も見えるし、左右には他の列車も停まっていた。
ホームの足場は磨き抜かれた黒だった。足を踏み出すのをためらってしまうような光沢があり、鏡がそのまま張られているようにさえ感じられた。
減速した列車が停止すると同時に、車掌が無線を手に取った。
「プラットフォームに到着いたしました。ご乗車されている方は、ホームにおります案内人の指示に従って進行してください」
無線を切ると、車掌はため息をついた。
「お疲れさま」
わたしは車掌の二の腕を揉んでみたりする。
「ああ、ありがとう」
嬉しそうな顔をしていた。
ホームでは、列車から降りた人々が、案内人に連れられて階段に向かって歩いていく。その中には交通事故を起こして逆上していたお兄さんの姿もあった。観念したのか、すっかりおとなしくなっていた。
ホームの足場は、やはり上を歩く人の姿を映し出していた。その鏡像は、人によってずいぶんと異なる。そのまま映っている人がいれば、歪んだり霞んだりしてよく見えない人もいる。
「生前の行いが見分けやすいようになっているんだ」
これはすぐに理解できた。
去っていくお兄さんの足元を見ると、右腕の辺りだけがねじれたように歪んでいた。
「あのお兄さんは悪いことをしてたんだ」
「暴力を振るっていたんだろうね」
お兄さんは下を向いたまま階段を上がり、わたしの視界から消えていった。
「車掌は行かないの?」
「うん、行かないよ。特別なことがない限り、僕たちはあの階段よりも上には行かないんだ」
「行けないの?」
「いや、不思議なことにね、行こうという気が起きないんだよ」
わたしは首をかしげた。
「さあ、もう少ししたら紬君を病院まで送っていってあげよう」
「え」
「どうした?」
「帰らなきゃいけないの?」
「それはそうだよ。このまま朝までに帰らなかったら、本当に君はこちら側の住人になってしまうからね。いいかい? 紬君はまだ生きていていいんだ。僕は一晩の旅を終えて戻った後、なにをするでもなく腑抜けたまま生きて、そして病気で呆気なく死んだ。看取ってくれたのは叔母さん一人だけだった」
でもね、と車掌は続ける。
「君にはちゃんと両親がいて、慕ってくれる友達もたくさんいるようだ。彼らと共に過ごせる人生を、こんなに早いうちに放棄することはない」
当時のわたしには意味のわからない言葉も混じっていたが、彼の言葉に励まされた気がした。
車掌はホームに降りて体を伸ばす。わたしは車内でじっとしていることにした。
ホームの隅に、雲を固めて造ったかのような白いボックスがある。そこのドアが開いて人が出てきた。細身で長身の男だった。
「おお、お疲れ様」
出てきた男の人が話しかけてきた。この人も車掌だろうか。
「やあ、お疲れ様」
車掌も手を挙げて答えた。声がわたしの耳まで届いてきた。
「おや、あの子は?」
「うん、まだ生きているんだけど、この列車が見えるみたいでね。話し相手がほしかったから同乗してもらった。生きている人間なら規則違反にはならないだろう?」
「まあ、厳密に言えばならないだろうな」
相手は顎に手を当てて言った。
「しかし、久しぶりだな。こういう人間が現れるのも」
「そうだね。少なくとも僕より後には一人もいなかったんじゃないかな」
「だとしたら、彼女にも素質があるかもしれんぞ」
「生きているうちに列車を見ることができた人間は、死後、列車に携わる権利を得られるというあれ?」
「あくまで噂だがな。しかし実際、お前は人間の時に列車を見て、今は運転士になっているわけだから……」
「でも、列車関係者になりたいかどうかは、こっちの存在になってから初めて問われるものだろう? 僕の時はそうだったよ。何も考えずに頷いちゃってねえ……」
「後悔しているのか?」
「いいや、そんなことはないさ」
「ま、結局、権利があっても行使するかどうか選ぶのは彼女だ」
「来てくれたら楽しそうだけどね」
車掌は振り向いてわたしを見た。
「さて、そろそろ彼女を送っていかないと」
「うむ、のんびり行ってこい」
「そうする」
二人の会話はそこで終わった。
車掌が運転席に戻ってくる。
「お待たせ。それじゃあ帰ろうか」
「どんなお話をしてたの?」
全部聞こえていたのだが、あえて訊いてみた。
「そうだね、生きているうちにこの列車を見ることができた人は、こっち側の存在になった後、列車の関係者になれるかもしれないという話だよ」
包み隠さず話してくれた。
「紬君は――例えば、この列車の車掌になりたいと思うかい?」
「なりたい!」
わたしは間を置かず返した。
この夜の旅は、わたしに孤独と死を強く意識させてくれた。
その二つと近い位置にいるわたしだからこそできることがあると思ったのだ。
他にもある。
体を思うように動かせない今の世界が終わった時、次の世界では自由に空を飛び回ってみたい。それは、わたしのような境遇に置かれた人間だったら、誰しも一度は考えることではないだろうか。
「元気がいいね」
車掌は苦笑した。
「さっきも言ったけど、まずは人生を楽しんでくるんだよ。じゃないと僕が認めてやらないからね」
からかうような口調だ。わたしも笑った。
「うん、お父さんやお母さんと、みんなと仲良くする! 絶対だよ、約束する!」
「よーし。それじゃあ指切りしようか。……そうか、指切りか、懐かしいなあ」
感傷に浸りだした。
「はい、指出してよ」
「ああ、ごめんごめん」
わたしたちは小指を絡めて、指切りげんまんを交わした。車掌の指からはほんのりとした温もりが伝わってきて、なぜだかホッとしてしまった。
「さあ、行こう。せっかくだから景色を楽しんでね」
「はいっ!」
天笛が鳴り響いた。
7
「先生、紬は……紬は大丈夫なんですよね!?」
誰かが、叫んでいる……。母の声……だろうか。もうそれすらも、よくわからない。
目が、開かない……。呼吸も、しているのか、していないのか、わからない。
夜の闇では、ない。
あらゆる方向から、わたしを、押しつぶそうと、しているかのような、深い闇に、まとわりつかれている。
……重い……。
すべてが、止まり、始めている……。
闇の圧迫に、体が負けて、しまいそうだ……。
以前なら、刃向かっていた、だろうけど、今のわたしの力では、もう、どうしようもない。
ああ、もう……。
「…………疲れた……」
室内が、ざわめいた。
「紬!? 紬、今、なんて!?」
母らしき声が、呼びかけてくる。返事を、したい。でも、もう元気が、ない……。
列車に、出会ってから、八年間、ずっと、戦い続けてきた。
休みは、もらえなかった。
この体は、病魔に抵抗し続けて、もう、ボロボロだ。
本当に、疲れること、ばかりだった。
でも、わたしは、大切な人たちに囲まれて、逝ける。
これが、わたしの人生で、最大の、幸せ……なのかもしれない。
「紬! 紬! ねえ!」
もう、口を開くことは、できないけれど、最後に、心の中で、言わせてほしい。
――楽しかったよ、みんな。
8
ふっ、と体が軽くなった。
わたしは体を起こす。
みんながわたしを見ている。
部屋のどこかで、無機質な電子音が同じ高さの音を鳴らし続けていた。
白一色に囲まれた室内に、数人の姿があった。
医師がわたしの母に向き直り、うつむいて首を横に振る。
母が何度もわたしの名を叫びながら、動かなくなったわたしの体を抱きしめている。
父は天井を見つめ、歯を食いしばっていた。
一番の親友だったユキちゃんが、しゃがみ込んで泣き崩れた。
幼なじみの
医師は、ただ黙って下を向いていた。
わたしは、部屋の隅でそれを見ている。
みんなの悲しみがひしひしと伝わってくる。だけど、目の前でこういう光景を見せられると、わたしまで悲しくなってしまう。
こんなに近くに、まだわたしはいる。
だけど、誰も気づいていない。もう気づくことはできない。
覚悟していたとはいえ、実際に経験してみると、やはりつらい。
生きていても死んでいても、体より心のほうが見つけにくい。そんな現実を突きつけられている気がした。
「みんな、わたしはここにいるんだよ」
無駄だとわかっていても、呼びかけたくなる。
「母さん、父さん、聞こえて……ないか」
自覚しているだけにむなしくなる。
足音は立たないとわかっているが、忍び歩きで窓に近寄る。ため息をつきながら、そっとカーテンを開こうとする。
誰もいないのにカーテンが動いたらみんな驚くかな。
いや、と否定する。この状況でそんな真似はしたくない。
わたしは、
――抜けろ――
とイメージを浮かべながら、カーテンに顔を突っ込む。なにも動くことなく、顔だけが窓辺に飛び出した。
外を覗くと、街は漆黒に包まれていた。そしてその漆黒を追い払うように、あちこちに明かりが灯っている。
もう夜だ。
ぼんやりと景色を眺めていると、遙か彼方から小さく、しかしはっきりと、ピイッという音が流れてきた。
わたしは驚いて空を見た。
じっと視線を動かさないでいると、橙が完全に失われた空の、半月の横にあった星が強く瞬いた。
星が流れ、夏の空に斜線を刻んでいった。
なんだ、ただの流れ星か……。
少し拍子抜けして、わたしはベッド脇のイスに座った。すり抜けるイメージさえ浮かべていなければ、こうして道具も使えるのだ。
室内に向き直れば、当然みんなが見える。
一番泣いていたのは光一郎君だった。告白しておけばよかったな、と今さら後悔する。彼とは小学校から今の高校までずっと同じクラスだった。彼がわたしのなにに惹かれたのかはわからないが、熱心にお見舞いに来てくれたことが思い出される。中学生になってからお互いに意識し始めたのに、デートもなにもできなかった。彼とこれでお別れになってしまうのは寂しい。でも光一郎君は、見る限りわたしの死を惜しんでくれている。それは素直に嬉しかった。
ユキちゃんは両手で顔を覆って、必死で涙をこらえようとしていた。中学になってできた、新しい友達だ。いや、もう、友達だった、と言うべきなのか。病院の中庭を歩きながら話そうと、よく車椅子を押してくれた。話し上手で、聞き役に回ってもうまく相槌を打ってくれる女の子だった。
母は嗚咽を漏らしながら、ずっとわたしの体を抱きしめていた。その母の腕を、父が握りしめている。
数え切れないほどの思い出を与えてくれた両親。
「紬がいるから、私たちは幸せだよ」と母は言ってくれて、父だって、「お前がいるから俺もがんばれる」と言ってくれた。
でも、わたしは二人に迷惑をかけてばかりで、なんの恩返しもできなかった。
一体なにを与えられただろう?
わたしは二人になにを返せただろう?
母の腕の間からだらりと垂れるわたしの腕。なんて情けない姿。そんな格好をしていたら、悲しませるだけじゃないか。
無性に泣きたくなった。
しかし涙は出なかった。
下唇を噛んだ時、再びあの甲高い音が――天笛が聞こえた。さっきよりずっと大きい。
――近い。
わたしは立ち上がって窓をのぞき込む。
空の彼方から、白い光を振りまきながら列車が走ってくる。
ぐんぐん距離が縮まり、病院の前の道路に降り立った。
少し間を置いてから、
「この付近でこの放送が聞こえる方はいらっしゃいますかー。お迎えの列車が到着しておりますので、どうぞご乗車くださいませー」
無気力そうな声が響いた。
間違えるはずがない。車掌――川村優介の声だった。
彼の声は、魔が宿っているとでも言えばいいのか、静かな強制力を持っていた。
あの列車のところに向かわなければならないと強く感じた。
――行かないと。
わたしは振り返り、病室の出入り口まで行くと、そこにいる全員に顔だけ向ける。
またそのうち会える。確信があった。
だからこそ、多くは必要ないと思った。
「みんな、ありがとう。元気で、幸せに」
わたしはドアをすり抜け、病室を出た。
病院のロビーを抜けると、列車の元まで走っていった。
ちょうど、車掌が運転席から降りてくるところだった。前に会った時と同じく、トレンチコート姿だ。
「車掌!」
大声で呼びかける。
車掌はわたしを見て、穏やかな目をしてみせた。
「こんばんは。お疲れ様でございました」
「え」
止まったはずの心臓が跳ねるような動揺を覚えた。
車掌の言葉があまりにも他人行儀すぎたのだ。
まさか、わたしのことなど忘れてしまったのだろうか。
「乗り口はあちらか――」
車掌は一両目のドアを指し、
「こちらになります」
返す指で助手席のドアを示した。
「しゃ、車掌?」
「紬さん、今、焦ったでしょう」
「そ、そんなこと――か、からかったの?」
「ええまあ。一度しかできませんからね」
頬が熱くなるのを感じた。車掌があまりにも楽しそうに言うものだから、なおのこと恥ずかしい。
「さて、真面目な話をしましょう」
表情を引き締めて、車掌は言った。
「紬さん、貴女には二つの選択肢があります。このまま向こうの世界に入っていくか、その手前で立ち止まり、列車の仕事に就く――つまり、境界にとどまるか。僕が質問し、回答を受けていいことになっていますから、この場で答えてもらいたいのです」
じっとわたしの目を見つめてくる。
わたしはひるまない。
答えは最初から決まっているのだ。
「わたしは、この列車で働きたいです」
緊張することなく自然に、その言葉は飛び出していった。
病魔に縛りつけられていたわたし。
これからはそれを振り払って、高いところへと舞い上がっていきたい。
わたしたちの間に、沈黙が落ちた。
彼はなかなか返事をよこさない。わたしを焦らしているようにも、言葉を選んでいるようにも見えた。
やがて車掌は、ふっと表情を柔らかくし、キャップのツバに触れながらつぶやいた。
「これで僕の肩書きは、運転士だけになるわけですね」
了
夜光列車 雨地草太郎 @amachi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます