夜光列車〈3〉
†
乗客が増えてきた。
たった一晩でこれだけの死者に出会うものなのか。新聞のお悔やみ覧を毎日見ていれば受け取り方も違ったのかもしれないが、それにしても多く思われた。
何十人目かの乗客を乗せて飛び立った頃、彼は「もうすぐ戻らないとね」とこぼした。ずっとタイミングを窺っていたわたしは、そこでこの話題を持ち出すことにした。
「ねえ、車掌」
「ん、なんだい?」
「車掌はどうしてこのお仕事をやろうと思ったの?」
「おや、それを訊くかい」
触れてはいけないことだったのだろうか。怒られるのかと思って身がまえた。
「まあ、僕の場合は君と同じなんだけどね」
「わたしと?」
「僕も小さい頃にこの列車を見たんだ」
……僕が中学に入ったばかりの話だ。
僕も君と一緒で、生まれつき体が弱かったんだ。運動はもちろん、強い日差しに当たるとすぐに倒れてしまう調子だったし、成長するにつれてより病気がちになってしまった。
母さんはものすごい心配性で、僕にマンションの部屋から出るなと命令した。それが一番安全だと。でもその頃、母さんも父さんも遅く帰ってくる日が増えて、一人の夜が続いた。母さんは仕事をしていないのに夜になると出かけてしまってさ。
……あれも今日みたいに暑い夜だった。
僕は自分の部屋の窓を開けて風に当たっていた。空が透き通っていて星が綺麗だった。あの夜空に比べれば、僕たちの存在なんてたいしたことないんだなって思ったよ。
空を見つめていたら、月の近くが強く輝いていた。なんだろうと見つめていたら、その光がまっすぐこっちに向かってやって来るんだね。その時の驚きは君ならわかると思う。
列車はマンションからも見える繁華街の辺りに降り立った。
真っ白に光り輝いていて、遠目からも神聖なものだということは理解できた。
その光をじっと見ていたら自分の体に異変が起きた。
魂が体から抜け出したんだ。紬君も体験しているよね。あれが起きた。しかもびっくりするほどに体が軽い。
誰かが僕に、列車を見に行ってみろと言っているように思えた。
僕はすぐさま部屋を飛び出して列車を見に行ったよ。
列車は繁華街のど真ん中に停車していた。だけど誰もその存在に気づいていない。見えているのは僕だけのようだった。
近づいていくと、
『お迎えの列車が到着しております』
というアナウンスが聞こえた。ノイズがひどかったね。こんなにいい列車がありながら、拡声器があんなにボロいというのがちょっとおかしかった。
車掌らしき男の人に近づいて、声をかけた。
彼は一目で、僕がまだ死んでいないと看破した。偶然天笛が耳に入ったんだろうと。
「なにをやってるんですか」と訊くと「来た奴を列車に放り込むのさ」と返事をよこした。先代はちょっと荒っぽい車掌だったんだ。
しばらくしたら、明らかに存在感の薄い人間が二人出てきた。二人が出てきたのは大人のためのホテルだった。
僕は絶句したよ。
存在感の薄い人間の片方は、僕の父さんだったんだ。
もう一人は見たことのない女の人でね、見るからに派手な格好をしていた。胸元をはだけさせたブラウスを着ていて、スカートも短くて、化粧は濃かった。
不倫、という言葉の意味はもう知っていた。……ん、紬君にはまだ早い話だったかな。とにかく、あまりよくないと言われることだ。それを自分の父親がやっていたという事実は、やっぱり悲しかったよ。
「
父さんは僕に気づいたみたいで、目を丸くして言った。
「どうしてお前がここに……」
「列車の汽笛が聞こえたんだ」
「天笛ですがね」
車掌が律儀に訂正した。
「車掌さん、父さんはもしかして……」
聞きたくないと思いながらも、問わなければならなかった。
「ええ、ついさっき生を終えられましたね」
返答はあっさりとしたものだった。
「どうして父さんは」
――言いかけたところで、繁華街の雑踏に動揺が走った。
あちこちから制服警官が駆けつけてきたのさ。警官たちは父さんが出てきたホテルに入っていった。
野次馬がなんだなんだとホテルの入り口を取り囲む。
「ちょっと、なにがどうなってんの? わけわかんない」
父さんと一緒に現れた女がわめいた。
「なんで誰もこの列車に気づいてないのよ。なんであいつらは私たちをすり抜けて歩いてるのよ!」
「あー、はいはい。じゃあわかりやすく説明しますよ」
女の口調に苛立ったのか、車掌が投げやりに言った。
「要するに、あなた方は死んだってことです」
にべもなく宣告した。
こういう言い方は不謹慎だろうけど、その時の女――
それはともかく、どうして二人は死んだのかと訊こうとした時、ホテルの入り口が一際騒がしくなった。
そちらを見て、僕はまた衝撃を受けたんだ。
警官に連行されていたのは僕の母さんだった。
手錠を嵌められていたよ。
うつむいたまま野次馬の間を縫って歩き、パトカーに乗り込んだ。パトカーはすぐに発進していった。
そうか、と僕はすべてを理解した。
両親の帰りが毎日遅かったのは、これが原因だったんだってね。
父さんは不倫相手と夜の街を歩いていた。
母さんはその現場を突き止めようと、父さんを捜していた。
あの日、母さんはついに二人を発見した。話し合いで説得する手もあっただろう。でも結局は怒りに呑まれてしまったんだろうね。父さんも相手の女も手にかけてしまった。
「さあさあ、乗った乗った」
車掌が追い立てるように二人を列車に乗せ、僕だけが残された。
「まあ、事情は全部わかってるんだけどな」
戻ってきた車掌は膝をかがめ、僕と同じ目線に立った。真夏なのに黒のトレンチコートを着ていた。
「どうだ。一晩、俺と旅をしてみねえか。つらい時は出かけてみるのもいいもんだぜ」
僕は導かれたかのように首を縦に振った。
そして助手席に乗って一晩の旅行をしたんだ。
両親を同時に失ったというのに、僕の心は驚くほど凪いでいたことを覚えている。
さっきあったことを考えたりはしなかった。窓から見下ろせる夜景に、すっかり夢中になっていたんだ。
ネオンに彩られた街が美しかった。
――最近の人間は、夜空に喧嘩でも売ってるんかね。
車掌がつぶやいた。
――どういう意味ですか?
地上の人工的な光が明るすぎて、月明かりが忘れられようとしている。もうじき人間の記憶から月や星が消えるかもしれない。
車掌はそんな意味の言葉をしゃべった。僕は、さすがに悲観的で大げさすぎると思ったけどね。
……とまあ、そんな具合で一晩を過ごしたんだ。
僕は神様でもなんでもない。
数十年前までは病弱な川村優介だった、ただの元人間さ。
紬君、僕が君を列車に乗せた理由は単純なものだ。
僕のような者は、乗客とは必要最低限のことしか話してはいけない。そういう決まりになっているし、〈向こう〉の人間とはあまり温度のある会話をしない。
だけど君は違う。
君は乗客ではないし、〈向こう〉の者でもない。
紬君と話すことはルール違反にはならないはずだからね、生きている人間に話し相手になってもらおうと思ったんだ。
どんな存在になろうと孤独は感じるし、逃れられない。それを紛らわせたかった。わかってくれるかな。
「わかるよ」
わたしは真剣に言った。
「誰ともお話しできないってさみしいもんね。車掌とお話しするのは楽しいよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、僕も嬉しい」
†
列車はどんどん高度を上げていた。
星の輝きが強くなっていく。
目の前に展開された計器類の針も、忙しく動いている。高くなるにつれて、闇もさらに濃さを増しているような気がした。
少し先に雲が流れていた。
列車は雲を突き抜け、さらに上昇していく。
雲の上に出る。
世界は明るい青色に包まれた。
驚いている間はなかった。
青色の一部が、陽炎のように歪みながら揺らいでいるのだ。
列車はその歪んだ空間に飛び込んでいった。
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