弟子

藤枝志野

1

「すわ・おぼろ、で合っていますか?」


 須和朧。封筒に記された名前を佳律かりつは読み上げた。書き手の見目の割に古風な筆つきだが、天狗のもとで手習いをしたというから、師匠譲りと思えば腑に落ちた。


「はい」

「よかった。雅号ですか?」

「そうです。――この字は、」


 須和が朧という字の上にトンと指を置いた。


「ロウとも読むそうですから、この三文字でスワロウと読めます。スワロウはつまり燕のことです。鳥の燕でもあるし、あとは――」


「ア、あの!」


 佳律は手を一つ叩き、のどを反らして笑った。


「気に入らないようなら変えます」


 須和が笑顔のまま言った。


「いえ、面白くて好きですよ。これも天狗師匠のお知恵ですか?」

「そうです。僕は朧の字も知りませんでしたから。でも苗字の字は自分で決めました」


 須和がはにかんだ。


 佳律というのも雅号で、本名はという。女学校の時分から細々と書いては出版社に送りつけたり編集者に談判したり、閑文字だけで食べられるようになったのはつい最近のことである。ある日、どこで居所を知ったのか、原稿で膨れた封筒が届いた――郵便としてでなく、切手も貼られず家の戸の前に置かれていた。添えられた手紙には、原稿を読んだ上で弟子に迎えてくれるか決めてほしいとあった。念のため一度会ってみることにしたものの、差出人の住所がなく返事のしようがない。どうしたものかと首をひねっていると戸が叩かれた。夏の日射しの衰えはじめた頃である。


「部屋は空いてますけど、住み込みがいいですか?」

「はい。家がないものですから」

「そうでしたね。分かりました。それと、手紙にあった、食い扶持がかからないというのは?」


「食べることは食べますが、そこら辺で済ませるので金を使わないんです。でも、寒い時は人並みにかかると思います。なにせ食べるものがなくなるので」


 佳律は呑気にうなずいた。それから座布団を離れ、隣の一間に続く襖を開けた。


「狭いんですけど、部屋はここを使ってください。文机もありますし、必要なら箪笥も空けます」

「箪笥ですか?」

「はい。着物をしまうところです」

「着るものはこれきりですよ」


 須和が紬の衿をつまんだ。


「それだと汚れた時に困るわ。冬は凍えてしまうし……今入ってるのを着ても構わないけど、たぶん丈が合わないでしょう。今度一緒に見に行きましょう」

「着るのは苦手なんですが仕方ないですね」


 須和が軽く肩をすくめた。


 窓を開け、熱の抜けない空気をたっぷりと取り入れた。積み上がった本を壁際へ寄せ、使うかしれぬ小間物をつづらに押し込めば、日焼けした畳が顔を出す。埃を吸ってくさめをしつつ軽く一拭きした。


「ところで須和さん」


 窓際で本をぱらぱらとめくっていた須和が佳律の方を向いた。


「なんでしょう」

「須和さんはどうして私のところへ? 面倒見のいい先生なら他にいらっしゃるでしょうに」

「確かにそう聞きました」


 本を閉じて須和が微笑した。


「一つは先生の話が面白かったからです」

「それは嬉しいですね」

「もう一つは――これも天狗師匠の言うことには、先生は僕が燕だと言っても疑わないし、そうだと知っても受け入れてくださる人だからです」


 本を置いた手を窓枠にかけ、須和が外へ躍り出た。たちまちに縮んだ背中が深い藍色に変じる。燕は一つ宙返りをし、白い胸を張って短く鳴いた後、向かいの屋根の上まで羽ばたいてみせた。




 終

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弟子 藤枝志野 @shino_fjed

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