最終話

「髪を切ったり、髪型を変えたりして気分を変えるとか、今まであんまり考えなかったわ。これからもきっとね」


 そんなことで明確な実感が得られることはまずないのだから、というようなことをその後続けた。


「風邪をひくのがオチよ。髪を切るたびに風邪をひくわ」


「つまりキミは風邪をひきたがってる。とても素直な気持ちさ」


「何でそんな意地悪なことを言うの」


 女は泣きそうに見えた。


 しかし、床屋はそれを押しとどめても自分の方が先に泣き出したいような気分だった。


 女はたった一粒涙を落としただけだった。


 そういうことを、大部分の女性は見事にやってのける。


 横の灰皿で煙草をもみ消し、彼女は立ち上がって暗いフロアの奥へ行き、バーバーチェアに腰を下ろした。


 カバーのかかった鏡のあたりをじっと見つめている。


 床屋の方も、スツールに座ったまま、やはり黙ってそれを見ていた。


「一房でも切ってくれたらそれでいいわ。この店のフロアに、今夜私の髪が落ちれば」


 床屋は立ち上がり、壁のスイッチをひねった。


 フロアに明かりが点り、床屋も女も目をしばたたいた。


 湯沸しが蒸気を上げ、鏡にはしゃんと背筋を伸ばした女が映った。


 ひりひりするような明け方の静寂の中、床屋は腕組みをして彼女の後ろに立った。


 それから、素早く腕まくりをして鏡の中の女を見た。


 女も床屋を見た。


 しかし、床屋は知っていた。


 彼女が見ているのは決して自分ではないことを。


 一つ一つ確かめながら、床屋は慎重に鋏を選んだ。


 この数年、女性の髪に手を入れなかったのは、ただこの店そのものが原因なのであって、他に理由などなかった。


 数え切れないオールバックと刈り上げ。


 実用性第一の、髪型とも呼べぬような髪型。


 街へ帰って行く彼らの背中を、床屋はいつもにこやかな笑顔で見送ってきた。


「インターンの頃、ベテランの床屋に言われたよ」


 床屋は優しく鋏を動かしながら言った。


「何百人も女性客をこなしてると、ある日突然鋏に想いを込められるようになるものだってね。込め間違えたのが女房だって、いつも笑ってた」


「込めてみて」と、その言葉が終わらぬうちに女が言った。


 床屋は彼女の顔と自分のしかめっ面を、ちょっと手を止め、鏡に映した。


「まだその域には達してない。残念だよ」と、床屋は溜息交じりに応えた。



 ****************************************



 やがて、何年振りかの床屋の仕事も終わりかける頃、浅い海底から水面を見上げたようなほの白さがブラインド越しに溢れだした。


 夜が明けたらしい。


 床屋は急に空腹を覚えた。


 昨日の午後、遅めの昼食を食べただけなのを思い出したからだ。


 冷蔵庫の中に、パサパサのチーズ・クラッカーが少しあった。


 女と並んでソファに座り、床屋は黙々とクラッカーをかじり、コーヒーを飲んだ。


 カップを両手で抱えたまま、壁に掛かったトレンチコートを眺めた。


「廃墟が美しいのは、人工的なものが自然に帰ろうとしているからだ」


 女が驚いたように振り返ったが、床屋は何食わぬ顔でコーヒーをすすっていた。


 車の音や、シャッターの上がる音が、あちこちから聞こえ始めた。


 女は短くなった髪にそっと手を触れ、それから大きく伸びをした。


「ねえ、隠者の話を知ってる? 隠者は何でも知っていて、それとなくいろんなことを教えてくれるのよ」


 伸びをした後の女は、呆れるぐらいスッキリした顔をしている。


 床屋は小さく肯いてから、ストーブを消し、ブラインドを上げた。


 窓ガラスを水滴が幾筋も流れ落ちている。


 窓を開けると、朝の風が吹き込んだ。


 風は冷たく、思わず声を上げそうになった。


 向かいに見えるビルの壁面が、朝陽を反射して白く輝いている。


 すぐ下の歩道を、イヌを連れた小太りの女性がジョギングをして通った。


 イヌも女性も、ひどく真面目くさった顔で走っていた。


 窓から吹き込む風が、短くなった栗毛に吹きかかり、女はやっと新しい髪型がなじんできたらしい。


「誰でも好きになれて、愛していた人でもすぐ憎めるのなら、どんなに楽だろうって考えてたのね、きっと」


 黒い皮のコートを着た巡査が、立ち止まって通りを眺めている。


 床屋はハンガーからトレンチコートを取って、彼女の肩にかけてやった。


「そんなこと、誰もできやしないさ」


 巡査は一つくしゃみをして、ゆっくり歩いて行ってしまった。


「大丈夫、うまくいくよ。どうってことないんだ」

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床屋にて 令狐冲三 @houshyo

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