第4話

 ある日、女が最初に恋人の家を訪れたのは空からだった。


 その時初めて、女は自分がどういう人物と結婚しようとしているのか思い知らされたのだった。


 それまでは、時々入るレストランがちょっと高級すぎるような気はしても、相当な身分であるらしいことは感じても、彼は自転車に女を乗せて走るのが好きだったし、女は自分の見つけたカフェに無理矢理彼を誘うのが好きだった。


 けれども、家紋つきの自家用ジェットの窓から雲間に垣間見える広大な森と草原を指さした彼が、


「家の敷地をちゃんと把握するのに、小学校を出るまでかかったんだ」と言った時、それ以上でも以下でもない現実に、女は泣き出してしまったという。


「だって彼、その時よれよれのTシャツを着て、缶コーヒーを飲んでたのよ」



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 昨日のこと。


 女は彼の白いメルセデスに乗って、ウェディングドレスの仕上がりを見に行った。


 表通りにあるその品のいいショーウインドーの前で、彼は車を停めた。


 店主らしき背の高い中年女性が、二人の方へドレスを広げてみせた。


 店の奥から、頭の薄い猫背の老人が出てきて、円いメガネを光らせ、


「自信作ですよ」と微笑んだ。


「お召しになってください」と、店主が言った。


「お召しになってください」と、老人も言った。


「僕は式の時まで見ないでおこう」と、彼は言った。


「なるほど、それがよろしいでしょうねぇ」と、店主が肯き、


「そういうものです」と、老人も肯いた。


 その時女は、ジェット機の下に広がる無限の庭園を、ドレスの向こうに見ていた。


 あれからずっと、彼が普通であろう、平凡であろうと努めているのを見るのが辛かった。


 缶コーヒーをすする彼の目は、とても哀しそうな色をしていたのだ。


「ご亭主には、お茶でも差し上げましょう」


 そう言った老人に、彼は礼を言って電話を拝借したいと申し出た。


 老人は肯き、彼を連れて奥へ消えた。


 彼は考え込んでいる女の方をちょっと心配そうに振り返ると、老人の後に続いて奥へ入って行った。


「不都合があるなら、おっしゃってくださいな」


 店主は気遣わしげに訊ねた。


「いいえ、とてもステキだわ。あんまりステキなんで、ぼんやりしちゃったの」


 ホッと胸を撫で下ろし、店主は彼女を試着室へ案内した。


 電話で話す彼の声が聞こえる。


 ジャケットのボタンを外しかけ、女はついにこらえきれなくなって言った。


「メガネを……私、目がひどく悪いんです」


 嘘だった。


 車に取りに行くと言い、ジャケットのボタンをはめながら、小走りに外へ駆け出した。


 何をしようとしているのか、自分でもよくわからなかった。


 雨がパラパラ落ちてきて、白いボンネットの上を転がった。


 ドアがロックされていなかったので、彼女はバックシートに置いてあった彼のトレンチコートを取り、薬指の指輪を外して床へ転がした。


 ドアを閉め、歩きながらコートを羽織った。


 彼の匂いがして、ドキッとした。


 やはり何をしようとしているのかわからなかった。


 遠くで何度か自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、振り返らずに歩き続けた。


 そうして、女は雨の街へ消えた。


 数時間後、彼女は酔っ払って床屋の前にいたのだった。

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