第3話

 明け方近く、煙草を吸いたくなって、待合所のテーブルに置き忘れてしまったのを思い出した。


 それから、ソファで眠っているはずの女のこと……。


 部屋から降りると、フロアは冷え始めたばかりのようだった。


 ストーブは消えていたけれど、目を凝らすと小さな赤い火種が残っていた。


 女は毛布にくるまってソファに座り、床屋のマイルドセブンを吸っていた。


「気分はどう?」


「ありがとう。さっきから煙草をいただいてるわ」


「雨はやんだみたいだな」


「ちょっと前にやんだの。遠くで雷が鳴ってたわ」


 床屋はフロアに小さな明かりを点け、灯油の入ったポリタンクをストーブまで運んだ。


「目を覚ましてから、ずっとストーブを見ていたの」


 こぼさないよう注意深く給油する。


 灯油の匂いがした。


「最後にカタカタって小さな音がして、消えたわ」


 ストーブの火を調節し、床屋はやっとマイルドセブンを手に取った。


 表の通りを、時折風の塊が音を立てて走り過ぎる……。 



 ****************************************



「何も聞かないのね」


 そうつぶやき、女は溜息をついた。


「控えめなんだ」床屋はスツールに腰かけた。「キリストやビートルズよりは、少なくとも控えめだ」


 ジョークのつもりだったが、彼女は面白くもなさそうに両手で髪をかき上げ、小さく頭を振った。


 こめかみに貼りついた何かを振り払おうとしているようにも見える。


「切ってもらえないかしら」


 女は暗いフロアの奥へ目を遣って言った。


 けだるげに髪をかき上げたその指に、今度ははっきりと指輪の跡が見えた。


 床屋が黙っていると、女は唐突に訊ねた。


「ねえ、自家用ジェットが自動車より優れてるのはどういう点だと思う? 彼は教えてくれたわ」


 その声は、床屋に真っ青な夏の空を思い出させた。


 いつかは取り戻してみたいものの一つだった。


「誰もどこのメーカーかって気にしないことなんだって」


 長い滑走路が広大な屋敷の横を走っている光景を聞きながら、床屋は女の話を少しずつ整理し始めた。

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