第2話

 女はもう限界だった。

 

 中へ入ろうと長すぎるコートの袖からやっと凍える手を出し、何度も取っ手を引こうとするが、酔っ払っていてうまくいかない。

 

 気づいた床屋が手を貸した。


「入れてもらえるかしら」


 俯いたままで、彼女は言った。


 細かい雨粒が床屋の顔へサッと降りかかり、マイルドセブンの火を消した。


「重いドアだわ」


「酔っ払った女には開けられない重さにしてある」


 湿ったタバコをくわえたまま、床屋が言った。


「飲んでるんだろ。顔色が悪い。とにかく暖まるんだ」


 女は抱きつくように床屋の肩へ倒れかかった。


「顔色が悪くても美人だわ」


 コートの水滴や濡れそぼった髪のせいで、床屋のシャツもズボンもびしょびしょになり、尖ったヒールがつま先を踏んだ。


 床屋はくわえていたタバコを灰皿へ投げ捨て、そのまま片手を伸ばして乾燥機の中のタオルを二本つかんだ。一本を女の頭に被せ、一本でコートを拭いた。


「ごめんなさい。大丈夫よ」


 大丈夫じゃないのはこっちだと思いながら、床屋は濡れたタオルを投げ捨てた。


「男物のコートだ。キミのじゃないな」


「あたりまえよ」


 かすかな頭痛。


「さっさとコートを脱いで髪を乾かす。それから冷凍マグロみたいな身体を暖めて酔いを何とかすること」


「冷凍マグロ?」


「他に冷たいものが思いつかなかった」


「ボキャブラリーが貧困だわ」


 女は大儀そうに床屋の肩から離れた。


 床屋は彼女がコートを脱ぐのを手伝ってやった。


 さらにつま先を踏みつけてから、女はソファに座って頭のタオルで髪を拭いた。


 ミドルカットの栗毛が、サイドで軽くウェーブしている。


 コートのおかげで服までは濡れていなかった。


 スカートの裾と足元が濡れただけで、化粧も流れるほど濃くはなかった。


 着こなしも、流行を追わずにすむ程度のセンスはあるようだ。


 女はのろのろと髪を拭いていた。


 見かねた床屋はドライヤーを取ってコンセントを差し、ヘアスプレーとブラシを持って彼女の前に立った。

 

 タオルを取り上げてちょっと荒っぽく拭いてやり、スプレーした後ドライヤーをあてながらブラッシングした。


 あっという間に髪が乾いてブロウが完成した。

 

 女はきょとんとして見上げている。


「そんな大きな音のするドライヤーで、それも前からブラッシングされたのなんて初めてだわ」


「僕もドライヤーのコードがここまで届くなんて知らなかったよ」


 女は初めて微笑んだ。


「水をもらえるかしら」


 床屋は肯き、ドライヤーとスプレーを戻した。


 ストーブの熱で、女はいくらか落ち着いたようだ。


 時折、深い息をした。



 ****************************************


 

 床屋が水の入ったコップを差し出すと、女はもう眠っていた。

 

 呆れたように首を振り、自分でそれを飲み干してから、床屋は入口と窓にブラインドを下ろした。


 雨脚が強まっているようだ。


 部屋から毛布を抱えてきて、ソファに横たわる女の上からかけてやった。


 ふと、その薬指に細い指輪の跡を見たような気がした。


 フロアの明かりを小さくして、床屋はスツールに腰を下ろした。


 雨の音、風の音。静かに灯油の燃える音。女の寝息……女はソファの上で窮屈そうに寝返りをうった。


 マイルドセブンに火を点けると、雨の匂いがした。


 もう何も考えるな、と床屋は自分に言い聞かせた。


 さっさと部屋へ戻って眠っちまえ。


 髭を剃ったこと、新聞を読んだこと。


 女の酔っ払いに足を踏まれたこと。


 偏頭痛。


 薄明かりの下で、女とトレンチコートは、まるで古代エジプトのピラミッドに刻まれた壁画のように見えた。


 床屋はフロアの明かりを落とし、部屋へ引きあげた。

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