床屋にて

令狐冲三

第1話

 女は床屋のドアにもたれかかった。


 雨を吸った大きすぎるトレンチコートは、重いだけで、冷たくなった身体を少しも暖めてはくれなかった。


 ひどく気分が悪そうだ。ずぶ濡れの上、少々飲みすぎたらしい。


 小ぶりの唇がわずかに開き、弾むような息が漏れている。


 立てたコートの襟から時折のぞく耳は真っ赤だった。


 女は固く目を閉じ、細い睫毛をわななかせながら、重いドアを押し開けようとする。



 ****************************************



 午後になって客足の途絶えたフロアを、古びた石油ストーブが暖め続けている。


 自分の髭まですっかり剃ってしまった床屋は、暇に任せて新聞を隅から隅まで読み返していた。


 雨の街は薄暗く、ついに一日中街灯の消えることはなかった。


 土砂降りの空は黒い雲に覆われ、曇った窓から仄白い表の明かりがぼんやり見えた。


 床屋は入口近い待合所の明かりだけを残し、他は全部消して、バーバーチェアの前の大きな鏡にカバーをかけた。


 こんな夕方に髪を切る者はない。


 しんとした静けさと、時折聞こえるアスファルトと車輪の間で引き裂かれる水の音が、神経をひりひりさせる。


 床屋は首の後ろをポンポン叩き、マイルドセブンをくわえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る