ナインボール

ハヤシダノリカズ

ナインボール

「さて……。今夜はすぐに台が空きそうにないな」

 スツールのないバーカウンターに腕組みを乗せた格好で寄りかかりながら、細身で長身の男はそう言った。

「そうですね。今日は諦めますか?」

 男の隣でチビチビと舐めるようにブラディ・メアリーを飲んでいる女は男に尋ねる。彼らの後ろにはそれなりに大きな空間が広がっている。その空間に点在しているのは緑色の長方形の大きな台、ビリヤード台だ。薄暗い店内だが、その緑色の長方形を浮かび上がらせるように照明がビリヤード台を照らしている。もしもこの空間に誰も人がいなければ、その光景は凪の海に点在する緑の島さながらに見えるだろうが、生憎、今はそれぞれの台でビリヤードに興じている人間がいる。硬質の玉がぶつかり合う音が店内に響いている。


「まぁ、少し待つのも一興だ。それに……。あぁ、マスター。アレ、入っているか?」

 男は女の問いに答えた後、カウンター内の店主に向かって話しかける。

「へっへっへ。いいの入ってますぜ?例のやり方でいきます?」

「あぁ。頼む」

「今日、ここへ来たのはアレが目当てだったんですね」

 女は男をチラと見上げながらそう言った。

「もちろん、ビリヤードがしたくなったのは本当だが、アレを置いてある店が珍しいというのも事実だし、アレが目当てというのもまぁ、正解ではあるな」

 男の紺のジャケットの下には赤のベストと黒のシャツ、そして、血の色を思わせる赤黒いネクタイが胸元を飾っている。

「アレは美味しいものだと思いますけど、見た目があまりよろしくありませんし、少し食べにくくありませんか?」

 透き通るくらいに白い肌をそのゴシック調のドレスから覗かせて、無表情で女は言う。

「せっかくに日本に住んでいるんだ。ならば、アレを食べないという手はない。見た目……、か。見た目は確かにそうだが、美しく着飾っている人間が、その実、醜悪な価値観と精神をその身の内に持っている事を思えば、その真逆であるアレは非常に高貴なものと言える」

「なるほど、そうですね」

 男はきめ細やかな泡を戴いたギネスの入ったグラスを静かに傾ける。


「お待ちどうさま」

 カウンターの中から店主は一枚の皿をサーブした。皿の上には完熟も完熟、熟しきった柿が一つ載っている。針で側面の皮をつつけば中の液体が勢いよく飛び出しそうなくらいに熟したその柿は、頂部のがく部分をキレイにくりぬかれている。

「ありがとう。ん? マスター、スプーンをくれないか」

 男はわずかに目尻を下げた後に、その柿を食べる為の道具がない事に気付き、そう言った。

「おっと、失礼しました」

「いや、構わない。ただ、スプーンは鉄のものにしてくれ」

「あぁ、そうでしたね。お客さんがコイツを食べる時は木のスプーンじゃなくて、鉄の物でしたね」

 そう言うと、店主は男の前の皿の上に小さなデザートスプーンを置いた。

「ありがとう。それでは頂くとしよう」

 男は綺麗にくりぬかれた頂部の穴からドロドロに溶けた柿の果肉を掬い出して口に運ぶ。

「お客さんに教えてもらったソイツ、ワタシも自分の為に作って食べてみたんですけどね。美味しいですね。熟れ過ぎの柿にブランデーを垂らして食べる、なんて思いつきもしなかったんですがいいものです。ただ、ヘタの部分をキレイにくり抜くのが難しいですけどね」

「そうか。これの良さを分かってもらえるとは嬉しい。だが、手間をかけさせてしまってすまない。そして、キレイに切れている」

「へへへ、ありがとうございます。これも商売ですから、どうぞお気遣いなく」

 そう言うと店主は二人の元を離れた。

「柿色と言えば黄味が強いものですが、真っ赤ですね、ノーア様」

 女は皿の上の柿の表面を一瞥してそう言った。

「あぁ。しかし中はそれほど赤くはないのだ。そして、酸味というものが全くないこの珍しいフルーツの甘みがブランデーと共にこの鉄のスプーンに載る事で完成する味は、至福であるのだ」

 ノーアと呼ばれた男はそう言いながら、ゆっくりと赤茶けた果肉と汁が載ったスプーンを口に運ぶ。


「うへぇ。なんてものを食ってんだ、アンタ」

 その突然の無遠慮な声にノーアが振り向くと、オレンジ色のパーカーを着た男がコロナビールの瓶を片手に持ちながら、カウンターの上の完熟柿とノーアを交互に見ている。

「なにか、文句でもあるのか」

 ノーアは落ち着いた声でパーカーの男に応える。

「それは柿かよ。そこまでジュクジュクの柿を食っているヤツなんて初めて見たぜ。うぉえっ、気持ちわるっ!そんな柿、もはや生ごみじゃん、生ごみ!」

「ふむ……。他人の嗜好を悪し様に言うのはけしからんが、一言詫びて向こうへ行くのなら、聞かなかったことにしてやる。今すぐ向こうへ行くがいい」

 明らかにケンカ腰の男に対し、ノーアは冷静に話す。冷ややかな目は男を横目に見下ろしている。

「ハッ!偉そうな物言いだな。このヒョロガリのスカシ野郎。隣のねーちゃんもよぉ、こんなヒョロヒョロの頼りない男の相手なんてしてないでさ。オレと遊ぼうぜ」

 ノーアより頭一つ分ほど背の低いそのパーカーの男は、身体を横にズラして自分の体格を女に見せつけるようにしながらそう言った。

「黙れ。さっきから気持ちの悪い視線を送ってきていたのは気づいていたが、くだらぬ虫一匹と大目に見てやっていたのだぞ。それをキサマ……」

 バーカウンターから身を離し、パーカーの男と対峙して女は低いトーンの声でなおも話し続ける勢いだったが、「やめておけ、サリ」と、ノーアが片手を出して言ったその一言で口をつぐむ。

「そうか。目的はサリか」

 ノーアは小さく微笑んで続ける。

「腕に覚えあり、といったところか。私に喧嘩を吹っ掛けて、私を打ち負かしたその後に、サリを口説こうという魂胆か。ふふ。店の外に出てストリートファイトというのも悪くはないが……」

「いーや、こんなヒョロガリの外人のオッサンにケンカで勝ったところで面白くもなんともねえ!ナインボールで勝負しやがれ!」

「よかろう。それもまた一興だ。では、私が勝ったなら、先の非礼を詫びてもらおうか」

「オレが勝ったらサリちゃんを口説くぜ?」

「出来るものなら、やってみるがいい」

 ノーアのその言葉の後ろにはサリのちいさな呟きがあった。誰にも聞こえない声で、サリはこう呟いていた。「命拾いしたね、ビリヤードだったら死ぬことはない」と。


 店内はざわめいている。美しい女性を賭けたビリヤード対決がどうやら始まるらしいと、店内の全ての客が、その舞台となるビリヤード台を遠巻きに囲み始めた。

「外ウマやろうかー。パーカーと外人、どっちに賭けるー?」

 店主が呑気な声を上げている。

「先攻後攻はバンキングで決めるか?」

 パーカーの男はそう言ったが、「いや、先攻は譲ろう。なんなら、ブレイクショットで一球も入らなかった時は最初からやり直してもいい」とノーアは答えた。

「バカにしやがって!後でほえ面かくなよ!」

 パーカーの男は構え、キューを引き、勢いよく手玉をいた。店内にしばらく鳴っていなかった音が響き、ゴトンと一つ的玉が落ちた音がした。

「しゃー!」

 パーカーの男はガッツポーズをする。だが、次のプレイで手玉を落としファウルとなり、ノーアの手番となる。ジャケットを脱ぎ、サリにそれを手渡し、キューを手にしたノーアの姿を遠めに見ている観客の中から「なにあの人、カッコイイ」と女性の声がする。

 パーカーの男はギロリと声の方向を睨むが声の主を見つける事は出来ないようだ。メインステージ以外の照明はいつの間にか暗く絞ってある。


 ノーアは次々と的玉を沈めていく。的玉は確実にポケットに向かい、手玉は次の的玉を狙える位置で静止する。「マスワリじゃん」「バーカ、マスワリってのはブレイクから最後までの事を言うんだよ」という観客の声が聞こえて来た頃には、ナインボールと手玉だけが緑の台の上に載っていた。


 ノーアはゲーム中は一貫して無表情で、この最後の一撞きもやはり無表情で身体を曲げ、キューを引く。二十人ほどの観客は誰一人話そうとせず、店内は静寂に包まれている。そして、ノーアが優雅な一撞きを放とうとしたその刹那、「いっきし」と誰かのくしゃみが響いた。「マジかよ」「誰だよ」という観客の反応の中、無駄な力など微塵も載っていないその手玉はナインボールにコツリと当り、ナインボールはその先のポケットに吸い込まれた。


 ワッと上る歓声、その中でノーアはサリに微笑みを向けた。が、その先には怒りの形相を顕わにするサリの顔。

「キサマ、やる事がイチイチこすいんだよ!このクソ虫野郎!」

 そう言いながらサリはパーカーの男に詰め寄る。

「何が『いっきし』だ。あれがくしゃみなもんかよ!死ねや、コラァ!」

「しょ、しょうがないじゃないか。生理現象は止められねえよ!」

「何がムカツクって、億が一にもキサマが勝って、あんな事をしやがったキサマに気持ち悪い声をかけられるなんて事を想像すると虫唾がトライアスロン始めるってんだよ、クソが!」

「やめておけ」

 ノーアは二人の間に割って入る。

「競技というのは、人間にとっての代替品なのさ。闘争の代替品、それが競技だ。平和な時代にはなくてはならないものさ。人間の本質は闘争にあるからな。そして、そんな性質上、闘争における個人の真実が浮かび上がってしまう。潔さも悪あがきも、それが人間で、それが面白いじゃないか」

 ノーアは笑みを浮かべながらサリにウィンクをして続ける。

「代替品に頼らねばならないというのはなんとも気の毒だが、それは我らも同じだ。サリにとってのブラディ・メアリー、私にとっての完熟柿ブランデーがそう。人間の首筋に牙を突き立てる事が難しい昨今だ。我らも彼らも、代替品に塗れて生きている」

 言い終えたノーアはパチンと指を鳴らした。魅了魔法チャームの応用のそれは、店内の人間達の意識と記憶を少しだけ飛ばす。


 その中を二匹の蝙蝠コウモリが飛んで店の外に出て行った。




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