海と語らう

三奈木真沙緒

世界最強の剣士

 ……それまでの俺は、さぞや鼻持ちならぬ若造であったろうと思う。


 剣は幼い頃、父によって仕込まれた。俺はいつしか、世界最強の剣士になるという憧れを持つようになった。両親を失った俺は、さんざんに侮辱された。10代とはいえ俺は辛抱ならず、そいつらを全員叩きのめし、なんの未練もなく故郷を捨てた。武者修行を兼ね、旅に出て、もう10年近い。歩き続け、いくつもの国を渡り歩いた。魔物も山賊も斬り伏せた。街で依頼を受けて、討伐したり、護衛を務めたり、傭兵として戦争に参加したりもした。剣の試合にも出場した。果し合いを申し込まれたこともあった。いずれも俺は負け知らずだった。もう世界最強の剣士を名乗ってもよかろうと思った。誰も俺に勝てないのだ。実際、そう言い放ったことも一度や二度ではない。文句の言いたそうな奴もいたが、実力で俺に勝てぬのだから、遠吠えも同じことだった。


 俺は旅を続けた。戦ううち、さらに己が研ぎ澄まされるのを感じていた。もはや誰も俺にはかなうまいと思っていた。しかしいつからか、胸の内に奇妙な感覚が育ってきていることにも気づいた。その頃ちょうど懐が寂しくなりつつあった。たまたまある国の都のそばを通りかかっていた。海の近くにある、風光明媚で知られる街だった。

 その街に逗留することにした。旅費がなくてはどうにもならぬ。俺は安い部屋を借り、剣士の腕が活かせる仕事を紹介してもらいながら、久しぶりの街の暮らしを楽しんだ。誰も俺を知らない街だ。暮らしているうちに、多少はこの剣の腕前で知られることもあるかもしれないが、しばらくは気ままにさせてもらおう。


 この国は今、どことも戦争状態にない。つまり、傭兵としての大口の仕事はない。そのかわりに気楽でもあった。街は活気ににぎわい、商業が盛んで、住む人々も生き生きとしている。2年前には嵐によって大きな被害を受けたらしいが、少なくとも街並みはほぼ立ち直っているように見える。俺はいつもの通り、魔物や盗賊の討伐、貴人の護衛、不寝番、などの仕事を引き受けながら暮らした。暮らすための金額に、旅費の蓄えになる多少がもらえれば、それでよかった。単発の用件ばかりなので、仕事がない日もある。暇なときには、自己の鍛錬をしたり、街をぶらついて珍しい景色を堪能したり、見たこともない食べ物を味わったりと、街での暮らしを満喫した。俺はどうやら旅の暮らしに疲れていたらしいと感じた。



 街で暮らしながらも、当然ながら鍛錬を怠らなかった。体を鍛えたり、剣の取り回しを研究したり、瞑想したり。瞑想する場所は、自宅か、街にほど近い海岸が多かった。自宅は街中だから、昼間は喧騒がはっきり響いてくる。そんな中で、ひとりひとりの気配を感じ取り、動きを予測する。海岸では波の音が加わるので、人の気配を読むことが一層難しくなる。だから俺は、にぎやかな場所を選んだ。

 だが、同じ場所ばかりでは、どうしても飽きがくる。

 その日の午後、俺は気まぐれを起こし、いつもより北の海岸に向かった。

 たどり着いた北の海岸は、いつもの海岸よりも波音が高いのはいいのだが、絶望的に人がいなかった。これでは気配を読む修行などできようもない。

 ここはハズレか。

 仕方がない。せっかく来たのだから、今日だけここで瞑想して帰ろう。俺は砂浜に腰をおろし、左手のすぐそばに剣を置いて、瞑目した。波が打ち寄せる――大きく聞こえるのは、人がいないせいなのか、多少海が荒れているのか――この気配は、海鳥か――風が吹き寄せる――日差しがかげる、雲が流れている――すぐそばを虫か何かが這う――波の音以外はどこまでも、どこまでも静かな――静かなのはよいが、俺の望む修行には向かぬ。


 ふと目を開けた。そして驚愕のあまり、反射的に片膝をついて剣を取った。

 俺の身長3、4回分ほども向こうに……ひとりの女性がいた。背中まで伸びた髪が、海風に揺れていた。まなざしはじっと海の彼方を見つめていた……。


 そんなばかな。

 これほど近づかれていながら、気配を感じ取ることができなかったというのか。足音ひとつ聞き取れなかったというのか。敵であれば、俺は確実に脳天から斬りさげられている。

 ここに座ったときには間違いなく、周囲に人はいなかった。俺が瞑想を始めてから来たのは確実だ。それなのに……俺に気づかれることなく、これほどの間合いに近づいていた、だと……?

 この女性、そうは見えんが、武芸をたしなんでいるとでもいうのか……?


 つい俺が殺気を発したためだろうか。女性はこちらを振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。

「こんにちは」

 ……この反応。やはり俺がここにいることを承知している。

 女性は、穏やかな中にも凛とした空気をたたえていた。姿勢がよく美しいが、やはり武芸をたしなんでいるようには見えない。顔立ち……も、美しく思えた。俺とあまり変わらない年齢だろうが、厳密には年上なのか年下なのか、どちらとも判別つきがたかった。

 自分があまりにもみっともない姿をしていることにようやく思い至り、俺は立ち上がって剣をやや下げた。


「どちらの方? あまり、お見かけしたことがないけれど」

 女性の声は細く聞こえるのに、海風に吹き散らされることなく、俺の耳にはっきりと届いた。

「……ここ数カ月ほど前から、街に暮らし始めた者だ」

「ああ……道理で」

「そちらこそ、この周辺にお住まいか」

 俺はゆっくりと近づいてたずねた。いきなり吹く風に言葉を妨害されぬよう。しかし、初対面の女性に馴れ馴れしくなり過ぎぬよう、適度に距離をおいて。

「ええ、すぐ近くに」

 俺はさりげなく、女性の背後をながめた。――彼女のやって来た足跡が、ちゃんと残っている。当たり前だが、足を持たぬ魔物のたぐいではなさそうだ。では、どうやって。


「失礼ながら、なにか武術の心得でも、おありか」

「ええ?」

 女性は、戸惑ったような笑い声を上げた。

「いいえ、全然。どうして?」

「いや……気配が、まったく、つかめなかったので」

 ……なぜ俺は、こんなみっともない話を、初対面の女性に明かしているのだ。

「それはわたしには……なんとも、言いようがないわね」

 それはそうだろう。俺は少々赤面した顔を、ややそむけた。


「剣を、使われるのですね」

 女性からたずねられた。俺の剣が気になったのだろう。

「ん……ああ、旅の剣士なのだが、いろいろあって、しばらく街に逗留している」

「そうでしたか」

「失礼ながら、ここで何を……どなたかと待ち合わせか」

 ……女性が軽く目を伏せた、ように見えた。

「待ち合わせ……そうかも、しれません」

 そうかも……?

「というより、……海と、話をしに来た、というところでしょうか」

「海と……」

 俺は思わず、彼女の目線を追って、波の彼方を見やった。水平線の奥がすでに、黄昏の色を帯び始めているのがわかった。



 その夜、自宅の寝床に入ったものの、不思議なほど寝付きが悪かった。昼間は騒がしい街も、夜ともなればさすがに人声も絶える。時折、陽気な酔っ払いがふらつきながら大声を上げたり、見回りとおぼしき規則正しい足音が横切ったり、その程度だ。

 幾度も寝返りをうった。ほんのしばらく逗留するだけのつもりで借りた部屋だから、自宅といっても何もないに等しい。寝床の枕元に剣、机の足もとに旅の荷物、棚の中に数枚の着替えと防具と体を拭く布。その程度だ。出ていけと言われれば明日の朝一番に部屋の解約手続きを済ませて旅立つこともできる。殺風景な部屋の天井をながめて、無理に眠ろうとすることをあきらめた。

 不思議な女性だった。俺に気配を悟らせないのみならず、――海と話していた、とは、どういうことなのだろう。あのような女性がたったひとりで……。


 俺は、仕事をこなす日々と、仕事がない日々とをくり返し、そんな中で時間を見つけては、あの海岸へ出向くようになった。彼女にも都合があるのだろう、会えない日もあれば、会えた日もあった。そうして俺と彼女は少しずつ、話をするようになった。

 彼女の名前。この海岸のそばの、警備隊の詰所の雑務が仕事。3つ年上の兄と一緒に暮らしている。兄の職業は沿岸警備隊らしい。

「なかなかに重要な部署だな」

 つい俺はつぶやいた。この国は今、戦争をしていないとはいえ、海岸の警備は外敵及び魔物の侵入を防ぐための、重要な任務だ。

「ええ、まあ……」

「お忙しかろう。毎晩遅いのではないか」

「……そうね。今日もまだ、帰ってこないと思うわ」


 相手にばかりしゃべらせるわけにもいかない。俺も少し、自分のことを明かした。自分の名前。遠い異国の生まれであること。剣士を目指し、両親亡きあと故郷を捨て、流浪の旅をしてきたこと。旅に疲れたために、しばらくこの国の都に滞在することにしたということ。

「これまでで、どこか、気に入った街はありまして?」

「そうだな」

 手入れをしたつもりの髪が、海風に乱されて、目に入りそうになる。

「今のところ、この街が一番好きだ。そこそこに平和で、ゆっくりと休める。このまま住むのも悪くない、という気になることがある」

「そう……」

 ……時折、彼女が悲しそうな、寂しそうな表情を浮かべるのが、気になった。


 俺は北の海岸に通い続けた。あの女性に会えなかったある日、海と話していたという彼女の言葉を思い出した。砂浜に座り、あえて波の音だけに集中して、神経のすべてをそちらに向けてみた。波の音……寄せる水……うねる海面……ぶつかり合うしぶき……潮風……。いつしか自分自身が海と同化してしまったかのような、そんな感覚にさえ落ちていた。そして気づいた。

 初めて出会ったあのとき、彼女は、海と話していたと言った。もしかすると彼女は、海と語らい、海と同化していたために、俺はその気配を読み取ることができなかったのではないかと。

 なれば……俺は、とんでもない未熟者ということになる。感覚が海と同化しているというだけの、武芸の心得のない素人の気配すら察することができなかったのだ。世界最強の剣士どころの話ではない。俺は剣士を名乗るようになって初めて、「恥じ入る」という経験をした。



 俺はその後も、北の海岸に通うことをやめられなかった。会えなかった日は、砂浜で肉体や剣さばきの鍛錬を行った。また、海岸にひとり座し、瞑想というより、海の奏でる音に耳を傾け、神経をそちらに没入させるという行為にふけった。むしろ今までの瞑想よりもその方が、心が無になる感覚を得られるように思えた。また奇妙なことに、そうしていると、背後から近付いて来るあの女性の足音をとらえられるようにもなってきた。女性は、俺が瞑想している最中に来合わせたときには、話しかけてこず、静かに待っている。だが最近は、俺の方で彼女の気配に気づくようになったので、待たせることはほとんどない。

 彼女に会うと……胸の内がおかしな騒ぎ方をする。落ち着くような、落ち着かぬような、両方の相矛盾した感情に振り回される。


「今日はお休みか」

 その日午前は、俺は仕事がなかったので、朝からあの浜辺に来ていた。女性は微笑していたが、やや疲れた表情に見えた。

「昨日は遅番だったから、今日は休暇」

「そうか。兄上殿はお元気か、夜勤ばかりで疲れがたまっているのではないか」

 雑談の延長で兄上殿の話をするのも、日課のようなものだった。聞くたびに、返答はいつも「まだ帰らない」というものだった。こちらも毎日聞いているわけではないが、そうも夜勤が続いては体を壊すのではなかろうか、と口にしてみた。


 ……ふと、女性が視線をはずした。なにか言いよどむような、見たことのない表情に、俺はとっさに自己の言動をかえりみた。無礼を言ったか。しかし、彼女は顔を上げると、うちに来てほしい、と言い出したのだ。

 反射的に、俺は後ずさった。

「……そうは参らん、兄上殿の留守中に、女性ひとりの家に男が上がりこむなど……」

「こんな朝から、そんな想像めぐらす人の方が珍しいわよ。……見てほしいものがあるの」

 おかしそうに、彼女は小さな笑い声を上げた。



 兄妹の家は本当に、道を挟んで浜辺のすぐそばだった。途中に大きな段差と植込みがあるので、今まで気づかなかったのだ。小さく、素朴だが、あたたかみの感じられる家だった。俺は、小さな花の並ぶ庭に踏み入りながら、できる限り早々に辞去しなくてはならないと気を引き締めた。節度を守らなければ、いつどこであらぬ誤解と噂に結びつくか知れたものではない。彼女に多大すぎる迷惑をかけることになってしまう。


 食堂とおぼしき部屋に通され、椅子にかけて待っていると、ほどなく女性が何かを持って戻ってきた。木製の精巧なレリーフだった。彫り込まれているのが、兄上殿だという。数年前、沿岸警備の際に魔物を討伐し、その記念として贈られたものであるという。勲章のような位置づけか。木製とはいえ、顔立ちがはっきりわかるほどの出来栄えだった。顔のつくりそのものは妹とあまり似ていないのに、表情がどこか似ている気がした。


「……兄は、2年前から、帰って来ないの」

 向かいに座った彼女の発言に、俺は危うくレリーフを取り落しそうになった。


「2……」

「ご存じかしら、2年前の嵐のこと」

「…………よもや……!」

 2年前なら、もちろん俺はこの街にいない。しかし街で暮らすうち、その災害のことはぽつぽつと、噂に聞いていた。この街を直撃した大きな嵐は、甚大な被害をもたらした。街の建物の5分の1ほどが、水没したり破壊されたりした。死者百人余り。沿岸警備隊にも悲惨な出来事が起こった。嵐で魔物が襲来する心配はまずないが、外国からのよからぬ意図を持つ侵入者が現れないとも限らないし、逆にどこかの船が救いを求めて流れ着く可能性もある。危険であっても、沿岸警備を怠るわけにはいかない。このとき巡視に出ていた沿岸警備隊の6名全員が、高波に飲みこまれる悲劇。生還を果たしたのはわずか1名。そのほかは遺体も上がっていないという。もちろん高波を警戒して、通常より内陸寄りのルートから巡視を行っていたのだが、波の高さは予想を超えていた。そして犠牲者のひとりが、……。


「外国にも、遺体が流れ着いていないか問い合わせがされているそうなのだけど、今のところ、知らせは何も」


 ……俺は兄上殿のレリーフをそっと、彼女の方に押しやって返しながら、言葉の選択に悩んだ。

「それからわたし……海と会話しているの」

 兄を飲みこんで、帰してくれない海と。

 最初、当然のことだが、海を恨んでいたという。しかし、来る日も来る日も海を見つめているうちに、恨むことに疲れてしまった、と話した。

「ずっと海面を見ていて……波の音を聞いていると、自分が海と一体化してしまうような気がして。それに気がついたとき、もう恨まなくてもいいのかなって、ふと思ったの」

 ああ……その感覚は、わかる気がする。海の音はすべてを忘れさせる。すべてを飲みこんでしまう。人の命だけでなく、感情、感覚、思考、何もかもを。――それが、「海と話す」ということなのであれば。


「時々、自分もそこに吸い込まれたら、兄に会えるのかな、って」


「なっ……!」

 思わず俺は立ち上がった。冗談ではない。そんなことを考えていたのか。

「思っただけよ。やらないわ」

 小さく、だが寂しそうに、女性は笑った。

「わたしは……待っていなくちゃならないもの。こうしている今も……兄が帰ってくるかもしれない。今日はまだだけど、明日は帰ってくるかもしれない。でも」

 顔をそむける。


「……待つことにも、疲れてしまったの」


 俺は視線をさまよわせるしかなかった。


「ひどいわよね。ひどい妹でしょ。もう待っても帰ってこないんじゃないか、そんな気持ちが日に日に強くなるの。わたしがあきらめたら、兄の帰る場所がなくなっちゃうのに」

「……貴女あなたを責める権利は誰にもなかろう」

 そう言うのが精一杯だった。

「兄にはあるのよ」

 言い返され、俺はそむけていた顔を向け直さざるを得なくなってしまった。


「それなのにわたしは、もう兄をあきらめそうになっていて……でも……あなたはいつも、会うたびに、兄を気遣ってくれて……申し訳なくて……わたしは…………」


 ……頭を殴られた思いだった。

 俺は兄上殿を気遣っていたわけではない。話のつなぎ半分で聞いていただけだった。もう半分は兄上殿の心配というより、もし兄が体調を崩して倒れでもしたら妹が悲しむだろう、という考えでしかなかった。彼女の悲しむところなど見たくはない、それだけだった。だが俺は、それと知らぬまま彼女の前で兄上殿の話を出し続け、より一層悲しませてしまったのだ。

 もっとも美しいが、もっとも見たくないものを、見てしまった。


 俺はなんと度量のない、浅薄な、狭小な男なのだ。なにが世界最強の剣士か。剣士以前に、人としてどうかという話だ。薄々気づいていたが、俺はなにより、精神面の修養があまりに不足だ。どれほど剣の腕がすぐれていようが、ひとりの女性を泣かせるようでは、話にもならぬ。

 これほどまでに、己を無力だと思ったことは、ただの一度もなかった。

 今の俺には、彼女の涙を拭う資格さえないのだ。



「……兄上殿を、今一度、見せていただきたい」

「…………? どうぞ」

 女性は軽く戸惑いながらも、テーブルの上に置かれたレリーフを、押しやってくれた。

 俺はそっとレリーフを持ち直し、切れ長のまぶたの顔をながめた。


 兄上殿に、……いや、このレリーフに、誓おう。

 俺は真に、世界最強の剣士になってみせる。

 今はまだそう名乗ることはできない。だが、いつか必ず。

 そして、己のすべてを賭して、この女性ひとを守る。少なくとも、兄上殿が戻られるときまで、俺が守る。二度とあのような悲しい顔はさせまい。

 たった今、そう誓ったのだ。

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