Stain Of Mind

百済

第1話


 


 神奈月。その初日は邪神の伴侶となるにえを捧げる日だった。神をまつる村の神社の本殿には大きな俎板まないたがあった。

 その上ににえとして選ばれた娘が横たわっている。これから自分の身に起こる事が分かっていないのか、それとも肝が据わっているのか、娘は微動だにしない。

 夜更け。約束の時間が来て、邪神が現れた。その巨体はまさしく蛇だった。体長は二十尺(およそ6m)もあろうかという大蛇だった。長いだけでなく、その胴回りも大木のように太い。

 蛇はやしろの鳥居をくぐり、階段、参道を通り、拝殿を回り込んで、娘のいる本殿に至る。

 蛇はにえとなる娘を睥睨へいげいすると、満足そうに舌をチロチロと出し、大きな口を開く。

 だが、蛇は何かを察したのかとっさに飛び退った。その瞬間、贄の娘は俎板まないたの上から起き上がり、蛇の巨体をガッチリと掴む。娘とは思えない力に蛇はひるむ。そして──娘はいきなり爆発した。

 「ぬおおおぉ!!!」

 爆風に吹き飛ばされ、蛇は本殿と拝殿をぶち抜いて、参道まで転がった。同じく爆発によって、吹き飛ばされた俎板まないたや、その他の献上品が蛇に降り注いで来た。

 自身を覆う鱗が何枚も吹き飛ばされたとはいえ、蛇は神だ。爆発がなんぼのもんじゃい。その体は無傷に近かった。だが、問題はそんな事ではない。体を伸ばし、頭を高い位置へ持っていくと、壊れた本殿と拝殿が見えた。自分をまつるための建物が、悲惨な有様になっていた。

「何と罰当たりな!」

 蛇神は怒りに身を震わせた。

「罰当たりは貴様の方だ!」

 どこからか叫び声がして、蛇神は振り返る。参道にはいつの間にやら人が集まっていた。老人たちと黒袈裟けさ姿の僧がいた。僧は数珠じゅずを握り締め、何やら法力ほうりきを発揮しようとしている様子だ。

「ほう、神たる私が罰当たりとは、一体何のことかね?」

「忘れたとは言わさぬ!」

 一人の老人が声を張り上げる。彼の姿には見覚えがあった。

「おやおやこれは。随分と勇ましいじゃないか。客人がいるせいかね?」

 集まっているのは村の老人たちだと見当がついた。何しろ村にはこの老人たちしか人間が残っていないのだ。大方の人間は邪神の生け贄として捧げられ、それを忌避した者は村から逃げ出していた。

「蛇神……いや、何が神なものか。この村は貴様の無茶な要求によってこうなったのではないか……」

「確かに要求はした。だが、それに見事に応えてみせたのは貴様らじゃないのかね? 今更、私に責任転嫁か?」

 図星をつかれたのか、老人たちが黙る。

「神である私への信仰を捨て、法力ほうりきに頼るというのは中々賢しい選択だ。だが、村を守るという点で言えば、遅すぎたんじゃないか?」

「黙れ!」

「貴様は神などではない!我らにとっては災いでしかない!」

「今日こそ葬ってくれるわ!」

「……少し静かにしてもらえませぬか。これは私の仕事なのですから」

 そこで僧が初めて口を開いた。助っ人を伴っているせいか、気が大きくなっているらしい老人たちに辟易しているようだった。僧の剃髪ていはつされた頭には金色の輪のようなものが巻かれていた。何かの法具だろうか。

 蛇は僧を睨みつけた。

「お主が爺どもをそそのかし、この謀反を企てた張本人か?」

「謀反だと? 勘違いするな、蛇よ。貴様は民を苦しめる物ノ怪だ。私にとっては討伐の対象でしかない」

 僧が進み出た。

「私は東行とうぎょう。この者たちの助けを求める声に応じ、参上した」

「それはいささか遅すぎたのじゃないのかね?」

「物事に遅すぎるということはない」

「それはどうかな?」

 娘が再び接近してきた。蛇神は距離をとる。自ら爆発しても、平気で動けるということは相当に頑丈なのかもしれない。頑丈なのは蛇神も同じだが、根比べをする気はなかった。相手は生物ではないのだ。

 距離をとって、相手の能力を把握し、それから対応をすればいい。自らの巨体を活かし、力任せに戦うだけが能ではないのだ。

 が──

「?!」

 蛇神は急に体を掴まれた。おかしい。娘の気配を察知して、距離を取ったはずだ。視線の先には確かに娘がいる。ということは、これは新手だ。

 これ幸いと娘がこちらへ向かってくる。蛇神は離れようとしたが、乱入者が自分を掴む膂力りょりょくが強く、動けない。

 時間がなかった。蛇神は覚悟し、自身に向かって体の先端を思い切り振りかざした。尾の接近を察知したのか、拘束が解かれる。直後に蛇神の全身に衝撃が走ったが、ともかく体が自由になった。

 慌てて距離を取り、接近していた娘の攻撃を躱す。よく見ると、新手は娘と瓜二つの少女に見えた。

小癪こしゃくな……」

「……躱したか」

 さらに新たな気配を感じ、蛇神は振り返った。壊された本殿側にも人影があった。目の前の僧よりもひと回り以上も小さいが、袈裟姿を確認できた。二人目の僧らしい。小柄なだけではなく、その僧はかなり若く見えた。彼の剃られた頭にも、金の輪が巻かれていた。

 蛇にもようやく僧たちの魂胆が見えた。僧それぞれが像を操って、自分を挟撃するつもりなのだろう。

「成る程。それが貴様らの武器というワケだ」

「さよう。これが我等の金剛像・阿形あぎょう吽形うんぎょうだ」

 東行が誇らしそうに言う。娘たちは並んで蛇神と対峙していた。瓜二つの少女に見えるが、片方は髪が短く、片方は長い。

 蛇は憤った。

「何と悪趣味な。よりにもよって、生身でない娘を私への供物にしようとするなど」

「貴様のような邪神には、この二体を差し向けるだけでも勿体ないわ。それにこやつらを貴様の伴侶とするつもりもない。大人しくここで散れ」

「それはこちらの台詞だ。神に対するここまでの狼藉……償ってもらうぞ、お主らの命でな」

 僧と蛇がやり合っているうちに、若い僧がが合流していた。蛇を回り込んだらしい。

「おお! お主は!」

 老人たちが若者に反応していた。知り合いなのかもしれない。だが、若者の反応はにべもなかった。

「貴方たちはまだこんな風習を……。いい加減にしてほしいものです」

「何を言う。お主がそんなに立派になったのも、我々が送り出したからゆえなのだぞ」

「若者一人に押し付けないで頂きたい」

「何という言い様だ。そんな風に育てた覚えはないぞ!」

「ふっ、口だけは達者になったようだな」

 何やら揉めている。

 近くで見ると、未熟な若者だということが蛇には分かった。老人たちに囲まれ、不安そうな表情をしていた。

「謀反を企てるとしても、よくもまあ立派な者を集めてきたものだ。いきり立つご老人たちと、神の威容に震える若造とはね」

 せせら笑うように蛇神が言うと、若い僧は震え始めた。蛇は訝しんだようだ。それが恐怖ではなく、怒りによるものだと気付いたからだ。

 すると突然、二体の像も若者に同調したかのように震え始め、ついには形を変えた。娘たちだったものが、勇ましい二体の像になっていた。

「なんと!」

 蛇は驚いた。それは寺の門を守護する役目を担う、仁王像におうぞうだったのだ。今までは擬態のために形を変えていたようだが、若者の怒りが伝染したのか、元に戻ったようだ。その大きさは六尺(およそ1.8m)ほど。割と大柄である東行よりも長身の像だった。

 東行が弟子を横目で見た。

泰若たいじゃく、落ち着け。心を保たねば、こやつには勝てんぞ」

「分かっております。……ですが、この蛇めを滅ぼすために、今までの修行の日々があったのです」

「考え違いを起こすな!」東行が怒鳴った。

「こやつを調伏ちょうぶくするのは我が宗が要請を受けての事だ。お前はもうこの村の人間ではない。そして、お前は阿闍梨あじゃりなのだぞ。感情に振り回されるのはやめよ」

「はい……」

 何やら若い僧がたしなめられている。どうやら若い僧はこの村の出身らしい。今までの話しぶりから、蛇身に復讐するために出家し、密教僧となったらしい。

 阿闍梨あじゃりとは密教の秘法を授ける導師の事だ。その立場にあるという事は、彼自身も伝法灌頂でんぽうかんじょう、つまり秘法を授けられたという事だ。貫禄を感じさせる僧も阿闍梨あじゃり、その弟子の若い僧も阿闍梨あじゃり、これは厄介だった。一人ならともかく、二人も修行を積んだ密教僧の相手など出来るだろうか。蛇は賢く即断した。

「お相手をしたいところだが、お主らと戦ったところで私に益はない。伴侶も得られぬのだし、今日はひとまず失礼する」

「逃げる気か!」

 泰弱が叫ぶ。蛇がきびすを返したところまでは良かった。だが、壊れた本殿のさらに向こうへ抜けようとした時、蛇は巨体を何かにぶつけた。

「……何だ?」

 見渡してみても、障害物らしきものは見えなかった。不可視の壁のようなものがあり、それが自分を遮っていた。

「結界だよ」と東行。

「私たちが何も調べずにこの村にやってきたと思うかね? 貴様の小賢しさは聞いている。退治するなら、逃げられぬ環境を整えてからだよ」

「おのれ……」

 笑みを浮かべる東行に蛇は憤った。だが、賢しい邪神はすぐに自身のすべき事に気付いたようだ。

「そこまで私と遊びたいのなら付き合ってやる。その内に逃げたくなるのはお主らの方かもしれんぞ?」

 「ほざけ、何もさせずに調伏ちょうぶくしてくれるわ」


 蛇は賢しいという師の言葉は確かだった。一時は不利を悟って逃亡を図ったが、退路を断たれたと分かると、即座に攻撃に転じてきた。

 巨体に似合わない敏捷さで接近してくると、こちらに向けて尾を振り上げた。十分逃げられたのだが、邪魔な爺共がいるせいでそれは叶わず、蛇の攻撃は仁王像で受け止めざるを得なかった。

「さっさと離れろ!」

 東行とうぎょうが怒鳴ると、爺共はぶつくさ言いながら離れて行った。いっそ盾に使えばいいのではないか、という考えが泰弱たいじゃくの頭を過るが、すぐに打ち消した。師に言われた通り、自分はもう阿闍梨あじゃりなのだ。そのような考えは相応しくない。

「ほう?」

 蛇は攻撃を受けた仁王像におうぞうを見て、何やら感心しているようだった。見れば、尾の攻撃を受けた阿形あぎょうの方は体が少し崩れていた。それだけ蛇の攻撃は強力だったということだ。

「そんなにか弱い像で、果たしていつまで持つかな?」

 東行が泰若を見た。師の言わんとしていることを察して泰若は頷く。

「やはり、このままでは駄目ですね」

「何か策があるような口ぶりだな。あまり強がらない方がいいぞ」

 蛇が横槍を入れてくる。泰若は笑った。

「策なら幾らでも」

 若き阿闍梨あじゃりは印を結び、真言しんごんを唱えた。

迦楼羅かるら!」

 泰若の言葉に応じるように、二体の仁王像が姿を変えた。それは仁王と同じ、いわゆる天部てんぶの仏だった。

 仏には尊格があり、如来にょらい菩薩ぼさつ明王みょうおうてんの四つの区分がある。一番左の如来に近付くほど、その尊格は高くなる。

「ぬっ!」

 鳥頭人身で翼を持つ異形の姿に蛇神は戸惑ったようだ。それもそのはず。迦楼羅かるらはインド神話の巨鳥ガルーダが由来だ。猛禽を神格化した鳥の王で、仏教に取り入れられ、迦楼羅かるらとなった。毒蛇を常食とする迦楼羅かるらは蛇にとって、天敵のはずだった。

 蛇が見せた隙を泰若は見逃さず、さらに印を結び、強く念じた。それに呼応して、二体の迦楼羅かるらが口から炎を吐く。至近距離からそれを浴びる形になった蛇は慌てて距離を取った。先程の爆発も恐らくこの像の攻撃なのだろう。

「やったか?」東行が聞く。

「いいえ」

 蛇は一瞬怯んだが、二、三度体を振り払っただけで、炎を鎮火させていた。大きな損傷は見えない。

 泰若も攻撃の結果に期待はしていなかった。期待したのは時間だ。蛇は自ら距離を取った。それで十分に時間が稼げた。

「やるか」

「ええ」

 師の呼びかけに弟子が応じ、二人は同じ動きを取った。また印を結び、真言を唱えたのだ。すると二体の迦楼羅かるらの姿が崩れ、元の仁王像に戻った。それを見ていた蛇は訝った。

 さらに二人の合唱は続き、今度は仁王像におうぞう同士がくっついた。そこから、二体の像よりひと回り大きくなった何かが現れた。

執金剛神しゅこんごうじん!」

 仁王像によく似ているが、鎧をつけた武人のような像が現れた。大きさは七尺(およそ2.1m)ほどにもなった。加えて横幅も増えたようだ。

 元々、執金剛神しゅこんごうじんは一体の像だ。しかし、それはいつの間にか、寺の門を守護する役割を持つ二体の像、仁王に変化していった。

 執金剛神しゅこんごうじんには平将門が乱を起こした際、動いたという逸話もある。それを念頭に入れれば、密教僧たちが念じて像を動かしていても、何もおかしくはない。

 二人は密教の伝道師たる阿闍梨あじゃりだ。だが、戦闘僧という特殊な役割にも就いていた。呪術を用いて朝廷に仇す敵を倒すのが主だが、各地に散らばる古き神、つまり物ノ怪を調伏するのも仕事の一つだ。

 その際には専用の仏像を用いて戦う。本来仏像は姿が固定されているが、特殊な石とその内側に埋め込まれた、これまた特殊な金を用いることで、変形が可能だった。

 さらに二人の阿闍梨あじゃりが頭に付けた金の輪からイメージを受け取り、真言を加える事であらゆる仏へ変化する事も可能だった。仏の姿を心に思い描く事で造像するのだ。仏というのは、あらゆる姿に成り変わる側面を持つ。

「合体などして、強くでもなったつもりか。脆いのは変わらんぞ」

 蛇の指摘は確かだった。二体の仁王像から執金剛神しゅこんごうじんに変化したとはいえ、元々は石像なのだ。大蛇の攻撃に何度も耐えるほどの強度はない。

「心配ご無用」

 東行が笑いながら言った。さらに懐から壺のようなものを取り出し、足元に置くと、そのまま印を結んだ。

 すると壺の中から何かが執金剛神しゅこんごうじんの方へ引き寄せられるように移動していった。粒のようなそれは金色に輝いていた。粒は逞しい偉丈夫にまとわりつくと、神々しさを与えた。

 執金剛神しゅこんごうじんは金色になっていた。まるで黄金を纏っているようだ。

「これでも私たちの像が脆いと言えるか? 試してみてもいいぞ?」

「悪趣味な……」

 蛇は吐き捨てるように言うと、再び接近しててきた。

「金ぴかになったから、どうだと言うのだ? 本物の神は虚飾などまとわんのだ!」

 振りかぶられる尾を、執金剛神しゅこんごうじんの像が正面から受け止める。鈍い音がして、蛇が弾かれたように後方へ下がる。蛇は本気ではなかったようだが、攻撃をした側が、体に伝わる衝撃に驚いていた。

 それもそのはず。東行が取り出した金粉は特殊な合金だった。それは当然仏像の耐久力を上げるが、効果はそれだけに留まらない。

 像の形がまた変わっていく。蛇も気付いたようだ。泰若と東行が別の動きをしていることを。

 東行は執金剛神しゅこんごうじんを下がらせ、泰若は像を変形させるための印結びと真言を担当していた。

 仏像は東行の金粉を纏い、それは内側の金属と呼応する。さらに僧二人の頭に巻かれた金の輪にも反応する。二人の唱える真言によって、より素早く感応するのだ。

帝釈天たいしゃくてん!」

 次に現れたものは奇妙な姿をしていた。ゆったりとした衣服を着けた男が白象の上に座っている像だった。その男は仁王におう執金剛神しゅこんごうじんとは違い、穏やかな顔をしていた。それはこの戦場には場違いに見えた。

 蛇もいったい何故こんなものを出したのか理解に苦しんだ。だが、敵に隙があるならばすかさず突くのが蛇神だった。その巨体で、再び距離を潰していく。そして、それは間違いだった。

 二人の阿闍梨あじゃりが印を結び、真言を唱えると、像から白い光が蛇神へ飛んだ。稲妻だ。眩い光と激しい衝撃に蛇は吹き飛んだ。

 帝釈天たいしゃくてんはインド神話の雷神、インドラが仏教に取り込まれたものだ。仁王におう迦楼羅かるら執金剛神しゅこんごうじん、といった天部てんぶの仏と同じ尊格だが、その中では最強格と言われている。

 さらに元々の神話では、ヴリトラと言われる蛇神と戦い、雷と化したインドラはこれを二つに切り裂いたという。迦楼羅かるらと同じく、蛇に対抗できる仏という事だ。だが─

 雷撃で吹き飛ばしたとはいえ、蛇にはやはり大きな損傷は見えなかった。

「流石にしぶといですね」

「これで倒れるぐらいなら、我々は呼ばれていないだろうからな」

「やはり天部てんぶでは駄目ですか」

 蛇の耐久力に、阿闍梨あじゃりである二人は特に反応を示さなかった。まだまだ小手調べなのだ。

「次の段階に行くぞ。ついてこれるか?」

「最初からもっと上の尊格で行きたくて、うずうずしてましたよ」

 東行は弟子の軽口を笑って受け流した。

「では行くぞ!」

 東行が気合の声を上げると共に二人はまた印を結び、真言を唱えた。帝釈天たいしゃくてんの像が、元の執金剛神しゅこんごうじんに戻る。さらに二人の唱行の影響を受けたのか、執金剛神しゅこんごうじんは震え始める。そして真言を唱える二人は先程よりも険しい顔をしている。集中力がより必要なのだ。時間もかかる。

 だが、帝釈天たいしゃくてんの攻撃で蛇は吹き飛び、距離は開いている。その攻撃によって、時間を稼ぐことも念頭に置いていたわけだ。

 僧二人の真言を受け、執金剛神しゅこんごうじんはその姿が伸び上がるようになった。

大元帥明王たいげんすいみょうおう!」

 二人の叫びと共に現れたのは、憤怒の顔をした巨像だった。執金剛神しゅこんごうじんよりもさらに大きくなった像は、それ自体が物ノ怪のようだ。

 蛇の頭の高さほどになった像の威容に、離れたところにいる老人たちからどよめきが上がった。蛇も、その大きさに少し驚いたようだ。大元帥明王たいげんすいみょうおうはなんと八尺(およそ2.4m)ほどの大きさを誇った。

 体積が変わるのも像の表面の金粉と、それに呼応する内側の特殊合金のせいだった。真言に感応し、伸び上がったり、縮んだり、その姿を自在に変える。大陸由来の特殊な金属、それは降罹波瑠金剛オリハルコンと呼ばれていた。

 大元帥明王たいげんすいみょうおうはこれまで現れたどの像よりも異形だった。顔は憤怒の形相、仁王像におうぞうのように上半身は裸体で、そこから六本の腕が伸びている。剣印を作っている手以外は、それぞれに持物じぶつを携えていた。知慧をあらわす宝剣に宝棒、斧、金剛杵こんごうしょと言われる武器である、五鈷杵ごこしょ三鈷杵さんこしょもあった。

 明王は地響きを立てながら、蛇の元へと勇猛に歩んでいく。小手調べは終わり。あとは別れの挨拶をするだけだ。

 明王みょうおうの威容にはさすがの蛇もたじろいでいたが、そこはやはり神。結界で逃げ道が封じられている事を思い出したか、歩んでくる明王に自ら突っ込んできた。

 巨体と巨像の激突に空気が震えた。

 蛇神は明王に対し、迎え撃つように尾を振りかざした。明王は宝剣と宝棒でそれを真正面から受け止める。さらにその状態から先端が五つと三つに分かれた、五鈷杵ごこしょ三鈷杵さんこしょを蛇に突き立てる。

「ぬおおおぉ!」

 明王の反撃に蛇が苦渋の叫び声を上げて、倒れ伏す。

 密教では金剛杵は煩悩を滅ぼす象徴としての武器だが、元々は古代インドの神々が持っていた武器で、相手を殺傷するためのものだ。握りの両端から爪のように鋭い刃が伸びている。金剛とは「ダイヤモンドのように硬い」という意味だ。だが─

「硬い!」

 五鈷杵と三鈷杵による攻撃はまともに入った。だが、蛇の鱗に阻まれ、その身を深く傷付けるには至らなかった。明王像でさえ、まともにダメージを与えられない蛇の頑強さに、泰若は動揺した。

「たじろぐな! 何のための明王だ。このまま攻撃を続けるのだ」

 さすが東行は冷静だった。その通りだった。攻撃が通らねば、通るまで続けるのみ。大元帥明王たいげんすいみょうおうは六本もの腕を有しているのだ。一撃に拘らず、手数で勝負すればいい。

 幸い蛇はこちらの攻撃を受け、無防備に地に倒れたままだ。再び距離を詰め、今度は宝剣、宝棒、斧を握った三つの手を叩きつける。が、それは空を切った。

「何?!」

 今度は東行が驚愕していた。蛇は絶対絶命の状況を切り抜けた。というよりこちらの思惑を察知していたのかもしれない。

 俊敏に攻撃を躱すと、明王の背後に回った。それをかろうじて感知できたのは明王の尊格ゆえだ。

 蛇が再び尾を振るう。自らの攻撃で体勢を崩しつつも踏みとどまり、明王は攻撃を受け止めとめようとする。が、それは叶わなかった。蛇の横薙ぎの一撃は明王の足元を狙ったからだ。

「まずい!」

 明王は轟音を立てて、横倒しになった。

 降罹波瑠金剛オリハルコンの仏像はただでさえ重いのに、加えて今は金粉まで纏った状態だった。真言しんごんの力で変形した像はさらに重い。それは強力な力を生むが、同時に弱みも作ることになった。

 その最たるものが、体を支える下半身への攻撃だ。最初から足元に来ることが分かっていれば躱すのは造作もない。だが、今は攻撃を躱され体勢が崩れたところに、足元を狙われた。蛇の技ありの一撃だった。今度はこちらが無防備になる。

 蛇は賢かった。倒れている明王には目もくれず、二人の僧に一直線に向かってきた。何も無理して巨体の明王と戦うことはない。それを操っている者を潰せばいいのだ。

 形成逆転だったが、泰若は不思議と焦りはしなかった。師の「何のための明王だ」という言葉がまだ彼の中で活きていた。

 ただ、肝心の師はここまで窮地に追い込まれた事がなかったらしく、目に見えて動揺していた。蛇が迫ってくる中、泰若は東行に呼びかけた。

「私に策が!」

「どうするつもりだ?」

 手短に伝えてから二人で念じ始める。大蛇の体がまさに衝突しようとする。

 が、蛇は結局僧二人を飛び越した。代わりに二人の目前に宝剣や宝棒、斧などが上空から降り注ぎ、地に突き立った。

 明王が倒れ伏した体勢からでも持物を投げ付け、蛇に回避させたのだ。蛇は体を振り返らせ、悔しそうにこちらを睨んだ。

 危機的状況の回避。だが、それだけでは終わらない。戦闘僧は常に二手、三手先を読む。

 再度二人に飛び掛かろうとする蛇の眼前に、巨大な影があらわれた。蛇が見上げると、そこには大元帥明王たいげんすいみょうおうの姿があった。足元が弱点とはいえ、その身には六本の逞しい腕がついている。膂力りょりょくを存分に発揮し、倒れた体勢から手を足のように使って跳躍したのだ。まるで蜘蛛くもだった。

 横へ回避しようとする蛇だが、長身が裏目に出た。直撃は回避しても、明王の腕のひとつに捕まった。そのひとつに追随するように他の腕も巨体に巻き付いていく。

 明王はそのまま着地。そして、その勢いを利用した。体が地を引きずって前進していく力を外側に逃し、遠心力としたのだ。明王は回転し始める。明王に体を掴まれている蛇もそれに合わせて回っていく。

 先述の通り、像は足元が弱い。本来ならこんな動きをすれば早々に体勢を崩しているはずだ。だが、今は二本の足だけでなく、二本の腕も地につけて、体を支える役割を果たしていた。その体勢が強力な遠心力と回転の下支えとなった。

 明王と蛇は元々一体であったかのように、どちらがどちらなのか見分けがつかないほど凄まじく回転していた。

 その勢いが頂点に達した時、明王は手を離した。全ての遠心力をその身に受けた蛇は壊滅した拝殿に飛んだ。そして跳ね上がると、不可視の壁に激突した。結界にぶつかったのだ。

 さらに地面に叩きつけられ、その体は何度か跳ねてから倒れ伏した。流石の蛇も昏倒したようだった。

 派手な技を決め、窮地から脱した二人の僧も消耗していた。天部ならともかく明王像は二人で集中しなければ動かすことは叶わない。その上で、大胆な動きをしようものなら、その疲弊の度合いが強まるのは必然だった。二人とも額から汗水を垂らし、肩で息をしていた。

「ここまでやるとはな」

「いいえ、まだです」

「何だと?」

「無傷とは言えませんが、あの蛇は致命傷は負っていません。ここは手を緩めるべきではないかと」

「ふん、随分と言うようになったものだ」

「貴方もご存知でしょうが、私は元々臆病者でして。あの蛇相手にここまでやったんです。やり返されるのが怖いんですよ」

 泰若がそう言うと、東行は笑った。

「では、もうひと苦労するとしよう」

「ええ」

  二人は頷き合うと結跏趺坐けっかふざを組んだ。足と足を交差させ、それぞれの甲を反対の足の腿に置くような形だ。まるでもう動く必要はないかのように。

 明王を動かすよりも、さらに多くの集中を必要としているのだ。それにはこの体勢が必要だった。さらに印を組み、真言を唱える。天よりも明王を出した時よりも、その文言は長く、荘厳な響きを伴った。

 唱行によって最初に影響を受けたのは地に突き刺さった明王の持物じぶつだった。離れたところにあるそれが、地から抜かれて宙に浮き、明王の元へ戻っていく。明王も光をまとって輝いていた。裸体のそれに光の衣が巻き付いていく。衣が明王像を覆い、その手に持物が戻った時、二人は同時に叫んだ。

馬頭観音ばとうかんのん!」

 あらわれたのはまたもや奇妙な像だ。観音菩薩かんのんぼさつは本来慈悲の顔をしているものだが、馬頭観音ばとうかんのんは明王のような憤怒の形相。

 さらに腕をいくつも備え、それぞれには持物を握っている。裸体ではなく、天衣てんもを着ている事を除けば、大元帥明王たいげんすいみょうおうと見た目は殆ど変わらない。馬頭観音ばとうかんのんは明王のような観音菩薩かんのんぼさつなのだ。

 大元帥明王たいげんすいみょうおうから馬頭観音ばとうかんのんに変わったのには理由があった。

 像の変形は非常に気力を使う。形態を変える際は、その像に近似したものを選ぶのが定石だった。姿を変えるのが最も尊格の低い天部てんぶの像ならともかく、明王や菩薩ともなると、その疲労は著しい。

 像の形態が近ければ、消耗も軽減されるというわけだ。とはいえ、出現したのは最高位の仏・如来に次ぐ菩薩だ。形態を維持しているだけでも力を消費する。早々に決着をつけねば、相手より先にこちらの力が尽きてしまう。

 昏倒から目覚めた蛇も馬頭観音ばとうかんのんの出現に気付いた。だが、その一瞬後には姿を見失う。

「何処だ?」

 蛇の問いに対する答えは、いきなりの蹴りで返ってきた。目の前に突然出現した観音が蛇の巨体を蹴り上げたのだ。

 さらに空中に投げ出された蛇に向かい、馬頭観音ばとうかんのんは持物を握った数多の腕から連撃を繰り出す。その攻撃には隙が一切なく、終わることもない。観音が攻撃を見舞うたび、蛇の頑強な鱗が剥がされていく。

 如来や菩薩は瞬間移動をすると言われている。それはあらゆる衆生しゅじょうを救うためだ。その身を三十三に姿を変え、どんな相手にも対応する。光速で変幻自在の仏、それが菩薩だ。

 明王像とは互角に戦った蛇も、さすがに菩薩が相手ではなす術もないようだ。一方的に攻撃を受け続けている。

 菩薩を操るために心を砕いていた泰若だったが、同時に奇妙さも覚えた。あの蛇が全くやり返さないのはおかしいと本能が囁きかける。

 とはいえ、今攻勢をかけねば、それこそ自分達に未来はなかった。そのまま過剰とも思えるような攻撃を続けた。

 ようやく馬頭観音ばとうかんのんは動きを止める。頃合いだった。連撃に次ぐ連撃で僧二人の消耗は限界に来ていた。ひと呼吸を入れねば次の攻撃は無理だ。

 鱗が剥がれ落ちた蛇は血塗れで、そのまま横倒しになり、動かなくなった。

「もういいだろう」荒い息を吐きながら東行が言う。

「いや、まだですよ」

 泰若は師を訝りながら言った。今日の東行はどこかおかしい。状況をこんなに楽観的に評価する人だっただろうか? 

「損傷ならば十分に与えた。捕縛するぞ」

「この蛇は討伐の対象では?」

 泰若の中で、師への疑念が強まった。そんな事は事前に聞いていない。

「お前には伝えなかったが、宗の意向で捕縛が決まったのだ」

「何と! 何故それほど重要なことを、私に伝えなかったのです?」

 思わず師を責めるような口調になる。東行は弟子を見つめながら嘆息した。

「すまなかった。だが、この蛇は賢く、しかも強大だと聞いていた。実際その通りだった。最初から殺すつもりで挑まねばこちらがやられると思ってな。お前には余計な情報を与えるべきではない、と判断した」

「そうだったのですか」

 疑念は消えないが、師の言う事には筋が通っていると思った。ただ、あの蛇を始末しないのは納得できなかった。泰若にとっては憎き敵であり、克服すべき相手でもあった。

 密教僧となり、蛇を滅ぼすための力を身につける事を決意したのは十年ほども昔になる。それが村を出て出家した時の泰若の全てだった。

 あれから時が経ち、見聞を広めた今の彼は人生をもう少し長い尺度で捉えられるようになっていた。だが、自分の未来のためにも過去の因縁とは決着をつけておかなければならない。それにはあの蛇との対峙が不可欠だった。

 それがよりにもよって自分が力を得た宗の意向で妨げられるとは。泰若は皮肉を感じずにはいられなかった。

 とはいえ、蛇への対処には宗全体が動いている。実際に出向いた泰若と東行の二人だけでなく、村内に結界を張る者、この討伐にあたって護摩業を行う者など、様々な僧が関わっている。泰若が独断で蛇を始末する事は難しい。腹持ちは出来ないものの、宗の意向となれば従うしかない。

 予定が変更されたので、師から捕縛するための像を伝えられる。

 蛇との戦闘においては、あらかじめ像の変形の順序は決めてあった。それは先述の通り、気力を使う。先に決めておけば、その分考える時間を省略でき、滞りなく戦えるし、像をイメージするのに支障もない。土壇場での対応力も勿論求められるが、それ以上に事前の準備が物を言うのだ。

 像と共に吹き飛ばした蛇へと近付いていくが、相手の反撃が来ないほどの距離を保つ。そこで、僧二人は真言を唱え、馬頭観音ばとうかんのんを変形させた。

不空羂索観音ふくうけんさくかんのん!」

 今度は慈悲深い顔をした、まさに菩薩らしい像があらわれた。天衣てんもを纏っているのは馬頭観音ばとうかんのんと同じだが、こちらは武器になるような持物じぶつは全く持っていなかった。

 今までに出した像からすると、それは異色だ。強いて言うなら、羂索けんさくと言われる縄を携えていた。不空羂索観音ふくうけんさくかんのんはこの縄を使って、あらゆる衆生しゅじょうを救う。そういう役割の観音菩薩かんのんぼさつである。

 その羂索けんさくを使い、蛇を捕縛する。それはあっけなく完了し、拍子抜けするほどだった。羂索けんさくは蛇の体のあらゆる部分に巻き付き、それはまるでまゆのようだった。

 泰若の村を苦しめ続けた邪神は、菩薩像によって傷付けられ、そして捕縛された。その筈だった。

 異変に気付いたのは泰若だった。

「これは……!」

「どうした?」

  師の問いには答えず、泰若は口を塞ぐように動作で示した。東行も弟子の言わんとする事を汲み取り、息を止める。

 それは毒の瘴気しょうきだった。蛇には毒を持つものもいるが、神の域にまで近付いた蛇は毒の瘴気を拡散する能力があると言われる。

 泰若が気付かなければ二人ともお陀仏だぶつになるところだった。だが、呼吸を止めれば次の動きはとれないし、像の操作もままならない。蛇の狙いもまさしくそこにあると直感したが、泰若は動けなかった。

 (何という奴……!)

 にわかには信じられなかった。蛇は満身創痍のはずなのに、体に巻き付いた羂索けんさくを引きちぎった。そして驚愕している密教僧二人に尾を振るった。意識が暗転した。


 泰若は目覚めた。死後の世界かと思ったが、そういうわけではないらしい。そこは蛇と戦った痕跡の残る社だった。壊滅している拝殿が見える。反対側の参道の方を見るが、特に何も見つからなかった。

 泰若は生きている事を不可解に思った。毒の瘴気で動きを止められた後、蛇の尾を食らったはずだった。

 体中をまさぐっても、額から出血しているだけだった。躱した覚えはないが、幸いなことに攻撃は直撃しなかったのかもしれない。

 金輪にも損傷はない。泰若は冷や汗をかいた。これを壊していたら、仏像は動かせないのだ。金輪単体でも、石像単体でも意味はない。二つが揃って、はじめて物ノ怪に立ち向かう力となるのだ。

 自身の無事を確認すると、姿の見えない師と蛇の事が急激に気になった。二人は何処だ? そして自分が昏倒してからどれだけの時が経ったのだろう。

 像は元の二体の仁王の形に戻って、少し離れたところにあった。それを考えると、自分を置いて、師と蛇が未だ戦っているという事はなさそうだった。

 ともかく辺りを探り、師と蛇を探す事にした。そのために仁王像におうぞうを合体させ、執金剛神しゅこんごうじんにしておく。どちらと遭遇するか分からないが、蛇だった場合、備えておかなければならないからだ。

 戦闘僧には様々な役職がある。呪術が得意な者も居れば、体術に優れる者もいる。どちらも本尊とする仏からの力を借りて、霊験を増すのだが、それらと比べると仏そのものを操る僧は珍しい。実際東行や泰若のような僧は希少なのだ。

 密教では三密加持さんみつかじが重視される。三密とは身密、口密、意密のことだ。即ち本尊を印で結んであらわすことを身密、口で真言を唱えることを口密、本尊を心に思い描くことを意密と呼ぶ。この三つを高度に身につけた時、即身仏に至れるとも言われる。

 三つとも大事なのだが、戦闘僧の中では特に意密が重視された。イメージ喚起力が強くなければ、仏を変形させる事が出来ないからだ。泰若にはそれがあった。稀有な才能だと宗全体からも評価されていた。

 それは当然かもしれない。まだ彼が幼い頃、人身御供によって身の回りの人々が次々と消えていった。その度に彼が祈ったのは供物を要求する神ではなく、仏さまだったのだ。

 しかし、仏像が操れなくなった時や、咄嗟の出来事の対応時、泰弱は心許ないのを感じた。自分は一人前になったと思っていたが、まだまだ修行が足りないらしい。

 泰若は辺りを警戒しながら少しずつ歩を進めていく。爺共はどうしたのだろう。正直なところ、どうなっても自業自得だと泰弱は思った。

 結界の中に入るなと東行に口酸っぱく言われていたが、老人たちは聞く耳を持たなかった。「我が村を苦しめた蛇の最期を、この目で見届けなくては」と真剣な表情で語っていた。足手まといになる奴になるほど、自分に大層な役割があると勘違いしているのだ。

 角を曲がるとまさに東行があらわれた。肩に傷を受けているが、致命傷はないようだった。

「一体何処へ行っていたんです?」

「よく分からんが、奴に吹き飛ばされてしまったようでな」

 苦笑しながら師が言う。探し人が見つかって安堵すると共に、蛇の動きが読めずに困惑は深まった。先程は我々にとっては絶対絶命、蛇にとっては絶好の好機だったはずだ。何故見逃した?

「奴は何処です?」

「分からん。私が目覚めたらこの辺りにいた」

「おかしいと思いませんか? さっきの状況なら奴は我々を潰しておくべきでした」

泰若は疑問を師にぶつけた。

「それは私も思っていた事だ。確かに不可解だな」

「蛇がわざわざ私たちを見逃すような事をする理由は思い当たりますか?」

「いや、分からんな。だが所詮は物ノ怪。人とは考える事が違うのだろう」

 師の楽観的な物言いに泰若は呆れた。ともかく歩き出そうとする。が、違和感に襲われ、足を止めた。

「どうしたのだ」

「今なんと仰いました?」

「む? 所詮は物ノ怪と」

「貴方は今日、『戦うのは物ノ怪だ。だが、決して油断するな。奴は人よりも賢い』と仰ってました。矛盾するのでは?」

  師の顔を見つめながら泰若は言った。本当の東行ならば、開き直って色々とまくしたてるだろう。だが、東行は微笑みを見せただけで何も言わない。

 泰若は咄嗟に距離をとり、懐から取り出した護符ごふを師へ投げ付けた。

「ぐはぁ!」

 妙な呻き声とともに東行の体は崩れ、蛇が巨体をあらわした。泰若の思ったとおり、蛇が師の姿に化けていたのだ。

「一体何のつもりだ!」

 念じて像を前に出しながら、泰若は叫んだ。

「ちょっと、からかってやっただけだよ」

蛇は無邪気にも思えるような声音で言った。やはり不可解だった。馬頭観音ばとうかんのん像にはかなりの損傷を受けたはずだ。あれだけやられながら、二人の人間を見逃すだろうか。だが、相手が脅威として目前にいる今、その動機を探ってばかりもいられない。

東行阿闍梨とうぎょうあじゃりはどうした?」

 執金剛神しゅこんごうじんで攻撃しつつ、泰若は問う。蛇はそれを難なく躱していく。

「私も知らんね」

「何故私たちを見逃した?」

 泰若は自らの声音に怒りが滲んでいる事に気付いた。自分は真剣に戦っているつもりだ。蛇がそうでないのが許せないと思っているのだ。

「見逃すなどとんでもない。お主たちが想像以上にやりおるせいで、私もいっぱいいっぱいでね。少し休まねば動けなかったのだよ」

 確かに蛇の動きはどこかぎこちない。人の姿に化けたり、身を縮めれば回復するということだろうか? 

 だが、推理している時間はなかった。探し物が見つかったからだ。

 前方から人影が走ってくるのに気付いた。

「泰若!」

「阿闍梨!」

 まさに東行阿闍梨その人だった。怪我は負っていないようだ。

「今まで何処に?」

 駆け寄った泰若が尋ねると、東行は気まずそうに顔を逸らした。

「まさか、逃げていたんですか?」

「……」

 沈黙が答えを示していた。しかも弟子を置いて。

「違う。戦略的撤退という奴だ」

「……」

 ようやく口を開いたかと思えば、聞き覚えのない言葉を口にした。泰若は呆れた。だが、こんな師でも居なければ目の前の障害を排除出来ない。

「とにかく行きますよ」

「だが、捕らえるのが優先だ」

「そんな事を言っていると二人とも死にますよ。奴がこちらの想像以上にしぶといのは分かったでしょう? 覚悟を決めるべきです」

「しかし……」

 問答を続けている時間はなかった。僧二人が揃った時の恐ろしさが分かったのか、蛇の動きは俊敏になった。向こうにも余裕はないのだ。

「阿闍梨!」

「分かった。捕らえられなかったとしたら、滅ぼそう」

 それが師の妥協点らしい。泰若は徒労感を覚えた。頼もしく思っていた師が、今日一日で小さく見えるようになった。泰若はこの男に失望していた。だが、そんな事を感じていられる時間も長くはない。

 執金剛神しゅこんごうじんで蛇とやり合うが、天部てんぶの像ではどうしても力が劣った。まともに戦うなら明王か菩薩の像を出すしかない。だが、先程の戦闘で消耗し、余力は大して残っていなかった。

「正気か?」

 戦いながら泰若が伝えた作戦に東行は驚いていた。泰若は笑って頷いた。

「もう一か八かしかないです。他にいい案が?」

 東行は首を振ると苦々しそうに嘆息した。

「お前は虚弱な男だと思っていたが、中々どうして肝が据わっとる。これじゃどちらが師なのか分からんわ」

「では行きましょう」

二人で真言を唱える。執金剛神しゅこんごうじんが変形して、白象に乗った男の像があらわれる。

帝釈天たいしゃくてん!」

 先程出した像だ。だが、先程よりも変形する早さは倍以上も早い。僧二人がかりならば天部の像を一瞬で出現させるのも難しくはない。

 帝釈天たいしゃくてんの姿を目にした蛇は動きを止めた。そこへすかさず二度目の稲妻。巨体が後方へ吹き飛ぶ。

 蛇に大きな損傷はない。そもそも期待していない。期待したのは最初に帝釈天たいしゃくてんで攻撃した時と同じく、時間だ。

 帝釈天たいしゃくてんを再び執金剛神しゅこんごうじんの姿に戻す。ここからが正念場だ。

「行きますよ!」

 複雑な印を師と共に結び、真言を唱える。今まであまり上手くいった試しがない唱行だった。ひとつでも間違えば、全てが台無しだ。

 泰若の額からも東行の額からも汗が滴り落ちる。ようやく真言を唱え終えた。

金剛薩埵菩薩こんごうさったぼさつ!」

 明王を飛ばし、天部からいきなり菩薩へと変じるというのは、本来ならば不可能だ。だが、金剛薩埵菩薩こんごうさったぼさつ執金剛神しゅこんごうじんが菩薩にまで出世した姿とされ、元を辿れば同じ存在なのだった。それ故に本来不可能な変形を可能にしたのだ。だが、これは像を一気に菩薩にするための近道。目的はもう一つ先にあった。

「そう長くは保たんぞ」

東行が荒く息を吐きながら言う。気力・体力、共に限界のように見える。だが、それは泰若も同じだった。それを承知の上で言った。

「でも、やるしかありません」

「無茶をいいよる……」

「やらねば、死が待つだけです」

「これなら、いっそ死んだ方が楽かもしれんな」

 二人でさらに真言を唱える。それは長く、果てしないかのように続く。蛇はそれを好機と見て、体勢を整え、近付いてくる。

 蛇の接近に気付き、師が慌てた様子を見せる。泰若は集中するよう促す。だが、唱行の際、無防備になるのは確かなのだ。

 師と向き合いながら唱行を続け、泰若は昔師に教わったとっておきの集中法を行ってみた。それは目を閉じることだった。あらゆる一切を遮断し、仏と一心同体になる。それが我が宗の作法。

 師が同じ動きをしたかどうかは分からない。だが、泰若は新たな仏が形を成したのを感得した。

千手観音せんじゅかんのん!」

 その名の通り、千の手を持つ観音菩薩かんのんぼさつがあらわれた。真正面から来た蛇の突進をその手で受け止める。

 さらに千手観音せんじゅかんのんはあらゆる持物をその手に携えている。宝剣、金剛杵、さらには矢、縄状の羂索けんさくまでもがある。武器の貯蔵庫のような菩薩だ。変形させるのは難しく、その維持も困難を極める。だが、強力無比な仏だ。

 武器を握った手で蛇を攻撃し、後方へ弾き飛ばすと、さらに羂索けんさくを引っ掛けた。捕縛が目的ではない。そのまま蛇を二、三度地面に叩きつけると、縛めを解きながら投げ飛ばした。これで時間が稼げる。

 泰若は師と集中し、再び念じ始める。千手観音像はその動きに呼応し、なんとあらゆる持物を手から捨てた。

 千手観音せんじゅかんのんに千もの手があるのは衆生しゅじょうを救うためだと言われている。その数多の手ががあらゆる者を救うということだ。さらにその手にはひとつひとつに目がついている。それはあらゆるものを見通す力を持つという事だ。

 密教僧二人は、観音菩薩像のその力に期待した。長くは維持出来ないが、とにかくしぶとい蛇の弱点をこの観音像で探るのが目的だった。

 あらゆる映像のイメージが泰若の中に流れ込んでくる。千手観音せんじゅかんのんと一体になったからだ。それが、泰若の疑問や違和感と結びついていく。やはりそうか。

 本来ならこのイメージを身に受けるのは東行のはずだった。だが、体力の限界を悟った師は弟子にこれを任せることにした。泰若はそれを当然のことだと受け取った。師はもう、第一線で戦い続けられるような身も心も持ち合わせていないのだから。

 千手観音せんじゅかんのん像が震えて、形が崩れ始めた。限界が近付いているのだ。

「泰若!」

 東行が焦った声を出す。「分かっています」と答え、さらに師に指示を伝えた。

「これで最期です」

 また真言を唱える。体にかかる負担が限界を越し、二人は唱行しながら血を吐いた。袈裟を血の色に染めながら泰若は笑った。戦いとはなんとも惨いものだ。だが、そこでしか味わえないものがあるという事に気付いていた。

「小癪な人間ども……」

 体から血を流しながら蛇が迫る。鱗が剥げ落ちただけではなく、遂にその身を攻撃が貫き、文字通り、血塗れの形相になっていた。

 だが体から赤く流れる血は、むしろ蛇の旺盛な生命力を感じさせた。

「何をやっても、私には通じぬぞ! 諦め、さっさと新しい供物を捧げるのだ!」

「貴様に相応しい伴侶をくれてやる!」

 泰若は思わず叫んだ。真言は唱え終わっているから、像の変形に影響はない。

「死だ!」

 千手観音せんじゅかんのん像が崩れ、新たな像が姿をあらわした。

孔雀明王くじゃくみょうおう!」

 何とあらわれたのは菩薩でなく、菩薩よりひとつ下の尊格である明王だった。だが、その像は明王にしては異様だった。

 憤怒の形相ではなく、菩薩の慈悲の顔を備えていた。ちょうど馬頭観音ばとうかんのんが明王のような観音だったのとは対照的に、菩薩のような明王像なのだ。

 その明王は特にこれといった持物は持っていない。だが、奇妙な事に孔雀くじゃくの上に乗っていた。それは千手観音せんじゅかんのんの千の手が、孔雀の広げた羽根に変わったかのようだ。

 蛇は動きを止めていた。思っていた通りだ。蛇がこの像の正体を知っているとは思えない。だが、蛇の本能がこの像を恐れさせるのだろう。

 孔雀明王くじゃくみょうおうは毒蛇を食べる孔雀を神格化した仏だ。蛇にとっては天敵とも言える相手だろう。それは迦楼羅かるらも同じだったが、天部の仏ではあまり効果がなかったようだ。だが、蛇神とも互角に戦える明王、しかも菩薩に近い形をした孔雀明王ならば十分にその霊験を発揮したというわけだ。

 動かない目標に向かって、孔雀明王くじゃくみょうおうが飛んだ。鈍い音がして、孔雀くじゃくくちばしが太い巨体に突き刺さる。そこから漏れた返り血が、菩薩のような明王像を真っ赤に染めていく。

 何度攻撃を受けても、その度に立ち上がり向かってきた、それが蛇の最後だった。


「一体これは何なんです?!」

 死力を尽くして蛇神と戦い、これを退けた泰若は村の英雄とされてもおかしくなかった。

 だが、戦闘後に泰若に待っていたのはその活躍に相応しくない仕打ちだった。疲労困憊のところを、老人たちに捕縛されたのだ。

「見ての通りだよ」

 言ったのは師の東行だ。こちらは泰若とは反対に手厚く介抱されていた。

「お前は阿闍梨あじゃりに相応しくない。今日で破門だ」

「何を根拠に?!」

「言われねば分からんのか」

 東行は呆れたように弟子を見た。

「蛇を捕らえると伝えた時、お前は酷く動揺したな。そして捕縛した時、あろうことかわざと手を抜きおった。おかげで死ぬところだった」

 指摘されてから、泰若は気付いた。意図的にそうしたのかは分からない。

 だが、仇敵との対決に水を差され、集中を欠いたのは事実だった。

 いや、違うのかもしれない。本当はもっと戦いたかった。だから指摘の通り、不空羂索観音ふくうけんさくかんのん像を操っている時に、手を抜くなどという命を投げ出すような事をしたのかもしれない。

「身に覚えはありませんが、未熟者ですので、至らない事は多々あるかと思います」

「黙れ!」

 東行は大声で怒鳴った。凄まじい形相で、泰若を睨みつけてくる。師にこんな一面があったのかと泰若は驚く。怒られる事はあっても、こんな風に憎しみの目を向けられた事はなかった。

「認めたくはないが、貴様は戦闘僧としては頭抜けた技量の持ち主よ。その歳で、もうわしよりも強いかもしれん。そんな奴が謙遜などするな! わしは誤魔化されんぞ!」

 言われて泰若の中で、師への失望が強まった。認められても、ちっとも嬉しくなかった。師はこんなに小さい男だったのか。

「私が過失を犯して、罰を受けるのは分かります。ですが、それは何ですか?」

 泰若は顎をしゃくった。

 そこでは老人たちが動き回り、泰若たちが倒した蛇に寄り集まっている。その体を解体しようとしているならばまだ理解できる。だが、老人たちの手つきは慎重で労わっているようにさえ見えた。

「この蛇はな、我らが預かることになった」

「何ですって?!」

「この村では邪神だったが、これからは我らの守り神となってもらう」

「何を馬鹿なことを! そいつは人を喰らい続けてきた物ノ怪なんですよ!」

「そう、そこに価値があるのだよ」

 東行はにやりと笑った。

「この村では人身御供ひとみごくうの風習が続いた。そこから分かったことがある。蛇は人を喰い、そこから鉄分を濾過ろかするということだ。つまり金を生むのだよ」

 泰若は唐突な話に言葉を返せない。東行は構わず続けた。

「分からんのか? 我が宗、そして戦闘僧には金が必須なのだ」

 やけに攻撃を躊躇ちゅうちょすると思ったら、そんな思惑があったのか。

「金は人を食べさせなければ生まないんでしょう? それはどうするんです?」

「簡単な事だ。喰わせればいい。人など幾らでもいる。だが、金はそうはいかない」

「何を……言ってるんです?」

「もう邪神が幅を利かす時代ではない。古の神は調伏されるか、仏に成り代わるかしかない。幸い、この蛇の存在に気付いているのは我が宗だけだ。これからは我らが飼ってやるのだ」

「そんな事が……。ご老人たちは納得しているのですか?」

  泰若は呼び掛けた。

「東行さまが買い取って下さるというのでな。これで我らも安泰というもの」

 老人たちは皆んなにっこりしていた。蛇に対していきりたっていた先程の態度はどこへやらだ。

「安泰も何も、村は生け贄を差し出し続けて崩壊しているじゃないですか!」

「黙れが小童こわっぱが! わし等に何が出来るというのだ! 長い物に巻かれるしかなかろうが!」

 爺の戯言を聞きながら泰若は悟った。この蛇を真面目に倒そうと思っている者は自分しかいなかったのだ。

 爺共は我が身可愛さに生贄を捧げ続け、自分が力をつけた宗も、結局は蛇を利用する事しか考えていなかった。乾いた笑いが泰若の中にこみ上げた。

「ついでに良いことを教えてやろう」

 意気消沈する弟子に東行が言った。

「我らに必要なのは金だ。しかし、ただの金では駄目なのだ。希少な降罹波瑠金剛オリハルコンでなければ。それはただでさえ確保が難しい。だが、この蛇がそれを可能にしてくれる」

「どういう事です?」

 東行は酷薄な笑みを浮かべた。それは泰若の知らない師の表情だった。

「この蛇の生む金こそが降罹波瑠金剛オリハルコンなのだよ。人の想いに応える金属。その全貌は分かっていないが、奇妙な性質じゃないか。だが、人を喰った蛇からそれが生まれるとすれば、納得出来なくもない。喰われた人間の無念、怒り、悲しみ、絶望が金に宿り、そして我々の力となるのだよ」

 泰若は絶句した。

 自分は今まで一体何をしていたのか。この男の弟子になり、厳しい修行を積んで、怨敵を調伏する僧になった。それは少なくとも善い行いだと思っていた。だが、それは根底から覆ってしまった。

「……物ノ怪だ」

「何だと?」

 泰若の呟きに、東行が首を傾げた。

「物ノ怪はこの蛇だけじゃない! 貴様らもだ! 貴様らこそ物ノ怪だ! 生け贄だけでは飽き足らず、まだ人の命を欲するとは! 貴様らは人間じゃない!」

「小童! それ以上の侮辱は許されんぞ!」

「いやいや、全くその通りだよ」

 突然辺りが暗くなった。上を見上げると、捕縛したはずの蛇の姿があった。先程まで蛇が置かれていた場所には、縄があるだけだった。いや、縄の中に殻のようなものがあった。蛇は脱皮して抜け出したのだ。

 一同が驚愕していた。今、蛇に対抗できる者はいなかった。

「お主らの心の汚れが、自らの破滅を招くとも知らずに呑気なものだ。生まれ変わっても、私は絶対人になどなりたくないね」

 蛇神の尾が、その場の煩悩すべてを薙ぎ払った。


 今度こそあの世に行ったかと思ったが、体に痛みがあるのは妙だな、と泰若は思った。というか苦しい。何故か体が圧迫されていて、そこから逃れようともがくと、視界が開けた。そこは先程の境内だった。自分は生きているのだ。

 見回すと、老人たちと師の骸が転がっていた。こいつらに自分は押し潰されていたのだ。数多の死体を目の前にしているのに、何の感慨も抱かない自分に泰若は気付いた。それも当然だった。死ぬべき人間が死んだだけなのだ。

 自分は唯一の生存者らしい。衝撃で拘束は解かれていた。さすがに無事ではなく、あちこちに痛みが走り、出血もしていた。動くのは難しそうだ。さらに命綱のはずの金輪も頭から消えていた。もう仏像は動かせない。

 周囲を見回すと、少し先に蛇神の姿が見えた。というより、動いた泰若に気付いたらしく、その目がこちらを向いていた。蛇がゆっくりと近付いて来る。

 再びの窮地。だが、泰若は逃げる気力もなかった。何もかもどうでも良かった。自分は何もかも間違えた。死力を尽くして蛇神に挑んだのは良かったが、完全に敗北した。あとはその結果を受け入れるのみだ。

 倒れた状態の泰若の目前まで来ると、蛇が口を開いた。

「しぶといやつだ」

「貴様には負ける」

「確かにな」

 まるで友人のように軽口を叩き合った後、妙な沈黙が流れた。

「どうした? 殺さんのか?」

「ああ」

「何故だ?」

 泰若は体中が痛く、さっさと楽になりたかったが、蛇の答えは残酷だった。

「お主が手を抜いたおかけで、私は助かったようなものだ。お主はいわば恩人なのだよ」

「貴様までその話か……」

 泰若は頭を抱えたくなった。

「あれだけやられても、私を恩人扱いするのか? 確かに私は油断した。そして貴様にやられる隙を作った。その結果がこのザマだ。さっさと殺すがいい」

  蛇は笑い始めた。泰若は訝しんだ。

「何がおかしい?」

「さっきのは冗談だ。神たる私が人間に恩など感じると思うかね?」

「貴様……」

「本当の事を言おう。貴様は死を怖がっていない。むしろ死にたがっている。だからこそ、私は殺さぬのだ」

「何だと?!」

「人間の世界では屈辱、とでも言うのか? 憎き敵に情けをかけられるというのは。そうしてみよう。それが哀れなお主への、私からの贈り物だ」

 泰若ははらわたが煮え繰り返るほどの激情を抱いた。

「私を殺せ、邪神よ! さもなければ貴様を殺す!」

 泰若は支離滅裂な事を叫んでいた。

「やってみるがいい。おっと、お主ならやりかねんから怖くなってきたぞ。今は無理でもな」

「貴様!」

 蛇は高笑いした。

「さらばだ、泰若とやら。恐ろしき僧よ。次に会った時、お主は私を殺すだろう。だから、もう二度と会うことはない」

 言って、蛇は遠ざかっていく。

 もう邪神を遮る結界もない。蛇に勝利したと思った東行が、解くように指示を出したからだ。

「待て! 行くな! 戻って来い! 畜生……いつか必ず殺してやるぞ! 私から逃れられると思うな! 地の果てまで追い詰め、何時か必ず貴様を亡き者にしてやる……!」

 泰若の呪詛はしばらく続いた。

 その後、泰若は泣きに泣いた。悔しさと屈辱感で涙が溢れ、顔がぐしゃぐしゃになった。痛みと敗北感が心身を支配した。

 自分だけ生き残り、あろうことか、憎き敵に情けまでかけられてしまうとは。泰若は文字通り生き恥を晒していた。これ以上、惨めな思いをする事はないと思った。

 蛇神の行方は誰も知らない。

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Stain Of Mind 百済 @ousama-name

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