Stain Of Mind
百済
第1話
神奈月。その初日は邪神の伴侶となる
その上に
夜更け。約束の時間が来て、邪神が現れた。その巨体はまさしく蛇だった。体長は二十尺(およそ6m)もあろうかという大蛇だった。長いだけでなく、その胴回りも大木のように太い。
蛇は
蛇は
だが、蛇は何かを察したのかとっさに飛び退った。その瞬間、贄の娘は
「ぬおおおぉ!!!」
爆風に吹き飛ばされ、蛇は本殿と拝殿をぶち抜いて、参道まで転がった。同じく爆発によって、吹き飛ばされた
自身を覆う鱗が何枚も吹き飛ばされたとはいえ、蛇は神だ。爆発がなんぼのもんじゃい。その体は無傷に近かった。だが、問題はそんな事ではない。体を伸ばし、頭を高い位置へ持っていくと、壊れた本殿と拝殿が見えた。自分を
「何と罰当たりな!」
蛇神は怒りに身を震わせた。
「罰当たりは貴様の方だ!」
どこからか叫び声がして、蛇神は振り返る。参道にはいつの間にやら人が集まっていた。老人たちと黒
「ほう、神たる私が罰当たりとは、一体何のことかね?」
「忘れたとは言わさぬ!」
一人の老人が声を張り上げる。彼の姿には見覚えがあった。
「おやおやこれは。随分と勇ましいじゃないか。客人がいるせいかね?」
集まっているのは村の老人たちだと見当がついた。何しろ村にはこの老人たちしか人間が残っていないのだ。大方の人間は邪神の生け贄として捧げられ、それを忌避した者は村から逃げ出していた。
「蛇神……いや、何が神なものか。この村は貴様の無茶な要求によってこうなったのではないか……」
「確かに要求はした。だが、それに見事に応えてみせたのは貴様らじゃないのかね? 今更、私に責任転嫁か?」
図星をつかれたのか、老人たちが黙る。
「神である私への信仰を捨て、
「黙れ!」
「貴様は神などではない!我らにとっては災いでしかない!」
「今日こそ葬ってくれるわ!」
「……少し静かにしてもらえませぬか。これは私の仕事なのですから」
そこで僧が初めて口を開いた。助っ人を伴っているせいか、気が大きくなっているらしい老人たちに辟易しているようだった。僧の
蛇は僧を睨みつけた。
「お主が爺どもを
「謀反だと? 勘違いするな、蛇よ。貴様は民を苦しめる物ノ怪だ。私にとっては討伐の対象でしかない」
僧が進み出た。
「私は
「それはいささか遅すぎたのじゃないのかね?」
「物事に遅すぎるということはない」
「それはどうかな?」
娘が再び接近してきた。蛇神は距離をとる。自ら爆発しても、平気で動けるということは相当に頑丈なのかもしれない。頑丈なのは蛇神も同じだが、根比べをする気はなかった。相手は生物ではないのだ。
距離をとって、相手の能力を把握し、それから対応をすればいい。自らの巨体を活かし、力任せに戦うだけが能ではないのだ。
が──
「?!」
蛇神は急に体を掴まれた。おかしい。娘の気配を察知して、距離を取ったはずだ。視線の先には確かに娘がいる。ということは、これは新手だ。
これ幸いと娘がこちらへ向かってくる。蛇神は離れようとしたが、乱入者が自分を掴む
時間がなかった。蛇神は覚悟し、自身に向かって体の先端を思い切り振りかざした。尾の接近を察知したのか、拘束が解かれる。直後に蛇神の全身に衝撃が走ったが、ともかく体が自由になった。
慌てて距離を取り、接近していた娘の攻撃を躱す。よく見ると、新手は娘と瓜二つの少女に見えた。
「
「……躱したか」
さらに新たな気配を感じ、蛇神は振り返った。壊された本殿側にも人影があった。目の前の僧よりもひと回り以上も小さいが、袈裟姿を確認できた。二人目の僧らしい。小柄なだけではなく、その僧はかなり若く見えた。彼の剃られた頭にも、金の輪が巻かれていた。
蛇にもようやく僧たちの魂胆が見えた。僧それぞれが像を操って、自分を挟撃するつもりなのだろう。
「成る程。それが貴様らの武器というワケだ」
「さよう。これが我等の金剛像・
東行が誇らしそうに言う。娘たちは並んで蛇神と対峙していた。瓜二つの少女に見えるが、片方は髪が短く、片方は長い。
蛇は憤った。
「何と悪趣味な。よりにもよって、生身でない娘を私への供物にしようとするなど」
「貴様のような邪神には、この二体を差し向けるだけでも勿体ないわ。それにこやつらを貴様の伴侶とするつもりもない。大人しくここで散れ」
「それはこちらの台詞だ。神に対するここまでの狼藉……償ってもらうぞ、お主らの命でな」
僧と蛇がやり合っているうちに、若い僧がが合流していた。蛇を回り込んだらしい。
「おお! お主は!」
老人たちが若者に反応していた。知り合いなのかもしれない。だが、若者の反応はにべもなかった。
「貴方たちはまだこんな風習を……。いい加減にしてほしいものです」
「何を言う。お主がそんなに立派になったのも、我々が送り出したからゆえなのだぞ」
「若者一人に押し付けないで頂きたい」
「何という言い様だ。そんな風に育てた覚えはないぞ!」
「ふっ、口だけは達者になったようだな」
何やら揉めている。
近くで見ると、未熟な若者だということが蛇には分かった。老人たちに囲まれ、不安そうな表情をしていた。
「謀反を企てるとしても、よくもまあ立派な者を集めてきたものだ。いきり立つご老人たちと、神の威容に震える若造とはね」
せせら笑うように蛇神が言うと、若い僧は震え始めた。蛇は訝しんだようだ。それが恐怖ではなく、怒りによるものだと気付いたからだ。
すると突然、二体の像も若者に同調したかのように震え始め、ついには形を変えた。娘たちだったものが、勇ましい二体の像になっていた。
「なんと!」
蛇は驚いた。それは寺の門を守護する役目を担う、
東行が弟子を横目で見た。
「
「分かっております。……ですが、この蛇めを滅ぼすために、今までの修行の日々があったのです」
「考え違いを起こすな!」東行が怒鳴った。
「こやつを
「はい……」
何やら若い僧がたしなめられている。どうやら若い僧はこの村の出身らしい。今までの話しぶりから、蛇身に復讐するために出家し、密教僧となったらしい。
「お相手をしたいところだが、お主らと戦ったところで私に益はない。伴侶も得られぬのだし、今日はひとまず失礼する」
「逃げる気か!」
泰弱が叫ぶ。蛇が
「……何だ?」
見渡してみても、障害物らしきものは見えなかった。不可視の壁のようなものがあり、それが自分を遮っていた。
「結界だよ」と東行。
「私たちが何も調べずにこの村にやってきたと思うかね? 貴様の小賢しさは聞いている。退治するなら、逃げられぬ環境を整えてからだよ」
「おのれ……」
笑みを浮かべる東行に蛇は憤った。だが、賢しい邪神はすぐに自身のすべき事に気付いたようだ。
「そこまで私と遊びたいのなら付き合ってやる。その内に逃げたくなるのはお主らの方かもしれんぞ?」
「ほざけ、何もさせずに
蛇は賢しいという師の言葉は確かだった。一時は不利を悟って逃亡を図ったが、退路を断たれたと分かると、即座に攻撃に転じてきた。
巨体に似合わない敏捷さで接近してくると、こちらに向けて尾を振り上げた。十分逃げられたのだが、邪魔な爺共がいるせいでそれは叶わず、蛇の攻撃は仁王像で受け止めざるを得なかった。
「さっさと離れろ!」
「ほう?」
蛇は攻撃を受けた
「そんなにか弱い像で、果たしていつまで持つかな?」
東行が泰若を見た。師の言わんとしていることを察して泰若は頷く。
「やはり、このままでは駄目ですね」
「何か策があるような口ぶりだな。あまり強がらない方がいいぞ」
蛇が横槍を入れてくる。泰若は笑った。
「策なら幾らでも」
若き
「
泰若の言葉に応じるように、二体の仁王像が姿を変えた。それは仁王と同じ、いわゆる
仏には尊格があり、
「ぬっ!」
鳥頭人身で翼を持つ異形の姿に蛇神は戸惑ったようだ。それもそのはず。
蛇が見せた隙を泰若は見逃さず、さらに印を結び、強く念じた。それに呼応して、二体の
「やったか?」東行が聞く。
「いいえ」
蛇は一瞬怯んだが、二、三度体を振り払っただけで、炎を鎮火させていた。大きな損傷は見えない。
泰若も攻撃の結果に期待はしていなかった。期待したのは時間だ。蛇は自ら距離を取った。それで十分に時間が稼げた。
「やるか」
「ええ」
師の呼びかけに弟子が応じ、二人は同じ動きを取った。また印を結び、真言を唱えたのだ。すると二体の
さらに二人の合唱は続き、今度は
「
仁王像によく似ているが、鎧をつけた武人のような像が現れた。大きさは七尺(およそ2.1m)ほどにもなった。加えて横幅も増えたようだ。
元々、
二人は密教の伝道師たる
その際には専用の仏像を用いて戦う。本来仏像は姿が固定されているが、特殊な石とその内側に埋め込まれた、これまた特殊な金を用いることで、変形が可能だった。
さらに二人の
「合体などして、強くでもなったつもりか。脆いのは変わらんぞ」
蛇の指摘は確かだった。二体の仁王像から
「心配ご無用」
東行が笑いながら言った。さらに懐から壺のようなものを取り出し、足元に置くと、そのまま印を結んだ。
すると壺の中から何かが
「これでも私たちの像が脆いと言えるか? 試してみてもいいぞ?」
「悪趣味な……」
蛇は吐き捨てるように言うと、再び接近しててきた。
「金ぴかになったから、どうだと言うのだ? 本物の神は虚飾などまとわんのだ!」
振りかぶられる尾を、
それもそのはず。東行が取り出した金粉は特殊な合金だった。それは当然仏像の耐久力を上げるが、効果はそれだけに留まらない。
像の形がまた変わっていく。蛇も気付いたようだ。泰若と東行が別の動きをしていることを。
東行は
仏像は東行の金粉を纏い、それは内側の金属と呼応する。さらに僧二人の頭に巻かれた金の輪にも反応する。二人の唱える真言によって、より素早く感応するのだ。
「
次に現れたものは奇妙な姿をしていた。ゆったりとした衣服を着けた男が白象の上に座っている像だった。その男は
蛇もいったい何故こんなものを出したのか理解に苦しんだ。だが、敵に隙があるならばすかさず突くのが蛇神だった。その巨体で、再び距離を潰していく。そして、それは間違いだった。
二人の
さらに元々の神話では、ヴリトラと言われる蛇神と戦い、雷と化したインドラはこれを二つに切り裂いたという。
雷撃で吹き飛ばしたとはいえ、蛇にはやはり大きな損傷は見えなかった。
「流石にしぶといですね」
「これで倒れるぐらいなら、我々は呼ばれていないだろうからな」
「やはり
蛇の耐久力に、
「次の段階に行くぞ。ついてこれるか?」
「最初からもっと上の尊格で行きたくて、うずうずしてましたよ」
東行は弟子の軽口を笑って受け流した。
「では行くぞ!」
東行が気合の声を上げると共に二人はまた印を結び、真言を唱えた。
だが、
僧二人の真言を受け、
「
二人の叫びと共に現れたのは、憤怒の顔をした巨像だった。
蛇の頭の高さほどになった像の威容に、離れたところにいる老人たちからどよめきが上がった。蛇も、その大きさに少し驚いたようだ。
体積が変わるのも像の表面の金粉と、それに呼応する内側の特殊合金のせいだった。真言に感応し、伸び上がったり、縮んだり、その姿を自在に変える。大陸由来の特殊な金属、それは
明王は地響きを立てながら、蛇の元へと勇猛に歩んでいく。小手調べは終わり。あとは別れの挨拶をするだけだ。
巨体と巨像の激突に空気が震えた。
蛇神は明王に対し、迎え撃つように尾を振りかざした。明王は宝剣と宝棒でそれを真正面から受け止める。さらにその状態から先端が五つと三つに分かれた、
「ぬおおおぉ!」
明王の反撃に蛇が苦渋の叫び声を上げて、倒れ伏す。
密教では金剛杵は煩悩を滅ぼす象徴としての武器だが、元々は古代インドの神々が持っていた武器で、相手を殺傷するためのものだ。握りの両端から爪のように鋭い刃が伸びている。金剛とは「ダイヤモンドのように硬い」という意味だ。だが─
「硬い!」
五鈷杵と三鈷杵による攻撃はまともに入った。だが、蛇の鱗に阻まれ、その身を深く傷付けるには至らなかった。明王像でさえ、まともにダメージを与えられない蛇の頑強さに、泰若は動揺した。
「たじろぐな! 何のための明王だ。このまま攻撃を続けるのだ」
さすが東行は冷静だった。その通りだった。攻撃が通らねば、通るまで続けるのみ。
幸い蛇はこちらの攻撃を受け、無防備に地に倒れたままだ。再び距離を詰め、今度は宝剣、宝棒、斧を握った三つの手を叩きつける。が、それは空を切った。
「何?!」
今度は東行が驚愕していた。蛇は絶対絶命の状況を切り抜けた。というよりこちらの思惑を察知していたのかもしれない。
俊敏に攻撃を躱すと、明王の背後に回った。それをかろうじて感知できたのは明王の尊格ゆえだ。
蛇が再び尾を振るう。自らの攻撃で体勢を崩しつつも踏みとどまり、明王は攻撃を受け止めとめようとする。が、それは叶わなかった。蛇の横薙ぎの一撃は明王の足元を狙ったからだ。
「まずい!」
明王は轟音を立てて、横倒しになった。
その最たるものが、体を支える下半身への攻撃だ。最初から足元に来ることが分かっていれば躱すのは造作もない。だが、今は攻撃を躱され体勢が崩れたところに、足元を狙われた。蛇の技ありの一撃だった。今度はこちらが無防備になる。
蛇は賢かった。倒れている明王には目もくれず、二人の僧に一直線に向かってきた。何も無理して巨体の明王と戦うことはない。それを操っている者を潰せばいいのだ。
形成逆転だったが、泰若は不思議と焦りはしなかった。師の「何のための明王だ」という言葉がまだ彼の中で活きていた。
ただ、肝心の師はここまで窮地に追い込まれた事がなかったらしく、目に見えて動揺していた。蛇が迫ってくる中、泰若は東行に呼びかけた。
「私に策が!」
「どうするつもりだ?」
手短に伝えてから二人で念じ始める。大蛇の体がまさに衝突しようとする。
が、蛇は結局僧二人を飛び越した。代わりに二人の目前に宝剣や宝棒、斧などが上空から降り注ぎ、地に突き立った。
明王が倒れ伏した体勢からでも持物を投げ付け、蛇に回避させたのだ。蛇は体を振り返らせ、悔しそうにこちらを睨んだ。
危機的状況の回避。だが、それだけでは終わらない。戦闘僧は常に二手、三手先を読む。
再度二人に飛び掛かろうとする蛇の眼前に、巨大な影があらわれた。蛇が見上げると、そこには
横へ回避しようとする蛇だが、長身が裏目に出た。直撃は回避しても、明王の腕のひとつに捕まった。そのひとつに追随するように他の腕も巨体に巻き付いていく。
明王はそのまま着地。そして、その勢いを利用した。体が地を引きずって前進していく力を外側に逃し、遠心力としたのだ。明王は回転し始める。明王に体を掴まれている蛇もそれに合わせて回っていく。
先述の通り、像は足元が弱い。本来ならこんな動きをすれば早々に体勢を崩しているはずだ。だが、今は二本の足だけでなく、二本の腕も地につけて、体を支える役割を果たしていた。その体勢が強力な遠心力と回転の下支えとなった。
明王と蛇は元々一体であったかのように、どちらがどちらなのか見分けがつかないほど凄まじく回転していた。
その勢いが頂点に達した時、明王は手を離した。全ての遠心力をその身に受けた蛇は壊滅した拝殿に飛んだ。そして跳ね上がると、不可視の壁に激突した。結界にぶつかったのだ。
さらに地面に叩きつけられ、その体は何度か跳ねてから倒れ伏した。流石の蛇も昏倒したようだった。
派手な技を決め、窮地から脱した二人の僧も消耗していた。天部ならともかく明王像は二人で集中しなければ動かすことは叶わない。その上で、大胆な動きをしようものなら、その疲弊の度合いが強まるのは必然だった。二人とも額から汗水を垂らし、肩で息をしていた。
「ここまでやるとはな」
「いいえ、まだです」
「何だと?」
「無傷とは言えませんが、あの蛇は致命傷は負っていません。ここは手を緩めるべきではないかと」
「ふん、随分と言うようになったものだ」
「貴方もご存知でしょうが、私は元々臆病者でして。あの蛇相手にここまでやったんです。やり返されるのが怖いんですよ」
泰若がそう言うと、東行は笑った。
「では、もうひと苦労するとしよう」
「ええ」
二人は頷き合うと
明王を動かすよりも、さらに多くの集中を必要としているのだ。それにはこの体勢が必要だった。さらに印を組み、真言を唱える。天よりも明王を出した時よりも、その文言は長く、荘厳な響きを伴った。
唱行によって最初に影響を受けたのは地に突き刺さった明王の
「
あらわれたのはまたもや奇妙な像だ。
さらに腕をいくつも備え、それぞれには持物を握っている。裸体ではなく、
像の変形は非常に気力を使う。形態を変える際は、その像に近似したものを選ぶのが定石だった。姿を変えるのが最も尊格の低い
像の形態が近ければ、消耗も軽減されるというわけだ。とはいえ、出現したのは最高位の仏・如来に次ぐ菩薩だ。形態を維持しているだけでも力を消費する。早々に決着をつけねば、相手より先にこちらの力が尽きてしまう。
昏倒から目覚めた蛇も
「何処だ?」
蛇の問いに対する答えは、いきなりの蹴りで返ってきた。目の前に突然出現した観音が蛇の巨体を蹴り上げたのだ。
さらに空中に投げ出された蛇に向かい、
如来や菩薩は瞬間移動をすると言われている。それはあらゆる
明王像とは互角に戦った蛇も、さすがに菩薩が相手ではなす術もないようだ。一方的に攻撃を受け続けている。
菩薩を操るために心を砕いていた泰若だったが、同時に奇妙さも覚えた。あの蛇が全くやり返さないのはおかしいと本能が囁きかける。
とはいえ、今攻勢をかけねば、それこそ自分達に未来はなかった。そのまま過剰とも思えるような攻撃を続けた。
ようやく
鱗が剥がれ落ちた蛇は血塗れで、そのまま横倒しになり、動かなくなった。
「もういいだろう」荒い息を吐きながら東行が言う。
「いや、まだですよ」
泰若は師を訝りながら言った。今日の東行はどこかおかしい。状況をこんなに楽観的に評価する人だっただろうか?
「損傷ならば十分に与えた。捕縛するぞ」
「この蛇は討伐の対象では?」
泰若の中で、師への疑念が強まった。そんな事は事前に聞いていない。
「お前には伝えなかったが、宗の意向で捕縛が決まったのだ」
「何と! 何故それほど重要なことを、私に伝えなかったのです?」
思わず師を責めるような口調になる。東行は弟子を見つめながら嘆息した。
「すまなかった。だが、この蛇は賢く、しかも強大だと聞いていた。実際その通りだった。最初から殺すつもりで挑まねばこちらがやられると思ってな。お前には余計な情報を与えるべきではない、と判断した」
「そうだったのですか」
疑念は消えないが、師の言う事には筋が通っていると思った。ただ、あの蛇を始末しないのは納得できなかった。泰若にとっては憎き敵であり、克服すべき相手でもあった。
密教僧となり、蛇を滅ぼすための力を身につける事を決意したのは十年ほども昔になる。それが村を出て出家した時の泰若の全てだった。
あれから時が経ち、見聞を広めた今の彼は人生をもう少し長い尺度で捉えられるようになっていた。だが、自分の未来のためにも過去の因縁とは決着をつけておかなければならない。それにはあの蛇との対峙が不可欠だった。
それがよりにもよって自分が力を得た宗の意向で妨げられるとは。泰若は皮肉を感じずにはいられなかった。
とはいえ、蛇への対処には宗全体が動いている。実際に出向いた泰若と東行の二人だけでなく、村内に結界を張る者、この討伐にあたって護摩業を行う者など、様々な僧が関わっている。泰若が独断で蛇を始末する事は難しい。腹持ちは出来ないものの、宗の意向となれば従うしかない。
予定が変更されたので、師から捕縛するための像を伝えられる。
蛇との戦闘においては、
像と共に吹き飛ばした蛇へと近付いていくが、相手の反撃が来ないほどの距離を保つ。そこで、僧二人は真言を唱え、
「
今度は慈悲深い顔をした、まさに菩薩らしい像があらわれた。
今までに出した像からすると、それは異色だ。強いて言うなら、
その
泰若の村を苦しめ続けた邪神は、菩薩像によって傷付けられ、そして捕縛された。その筈だった。
異変に気付いたのは泰若だった。
「これは……!」
「どうした?」
師の問いには答えず、泰若は口を塞ぐように動作で示した。東行も弟子の言わんとする事を汲み取り、息を止める。
それは毒の
泰若が気付かなければ二人ともお
(何という奴……!)
泰若は目覚めた。死後の世界かと思ったが、そういうわけではないらしい。そこは蛇と戦った痕跡の残る社だった。壊滅している拝殿が見える。反対側の参道の方を見るが、特に何も見つからなかった。
泰若は生きている事を不可解に思った。毒の瘴気で動きを止められた後、蛇の尾を食らったはずだった。
体中をまさぐっても、額から出血しているだけだった。躱した覚えはないが、幸いなことに攻撃は直撃しなかったのかもしれない。
金輪にも損傷はない。泰若は冷や汗をかいた。これを壊していたら、仏像は動かせないのだ。金輪単体でも、石像単体でも意味はない。二つが揃って、はじめて物ノ怪に立ち向かう力となるのだ。
自身の無事を確認すると、姿の見えない師と蛇の事が急激に気になった。二人は何処だ? そして自分が昏倒してからどれだけの時が経ったのだろう。
像は元の二体の仁王の形に戻って、少し離れたところにあった。それを考えると、自分を置いて、師と蛇が未だ戦っているという事はなさそうだった。
ともかく辺りを探り、師と蛇を探す事にした。そのために
戦闘僧には様々な役職がある。呪術が得意な者も居れば、体術に優れる者もいる。どちらも本尊とする仏からの力を借りて、霊験を増すのだが、それらと比べると仏そのものを操る僧は珍しい。実際東行や泰若のような僧は希少なのだ。
密教では
三つとも大事なのだが、戦闘僧の中では特に意密が重視された。イメージ喚起力が強くなければ、仏を変形させる事が出来ないからだ。泰若にはそれがあった。稀有な才能だと宗全体からも評価されていた。
それは当然かもしれない。まだ彼が幼い頃、人身御供によって身の回りの人々が次々と消えていった。その度に彼が祈ったのは供物を要求する神ではなく、仏さまだったのだ。
しかし、仏像が操れなくなった時や、咄嗟の出来事の対応時、泰弱は心許ないのを感じた。自分は一人前になったと思っていたが、まだまだ修行が足りないらしい。
泰若は辺りを警戒しながら少しずつ歩を進めていく。爺共はどうしたのだろう。正直なところ、どうなっても自業自得だと泰弱は思った。
結界の中に入るなと東行に口酸っぱく言われていたが、老人たちは聞く耳を持たなかった。「我が村を苦しめた蛇の最期を、この目で見届けなくては」と真剣な表情で語っていた。足手まといになる奴になるほど、自分に大層な役割があると勘違いしているのだ。
角を曲がるとまさに東行があらわれた。肩に傷を受けているが、致命傷はないようだった。
「一体何処へ行っていたんです?」
「よく分からんが、奴に吹き飛ばされてしまったようでな」
苦笑しながら師が言う。探し人が見つかって安堵すると共に、蛇の動きが読めずに困惑は深まった。先程は我々にとっては絶対絶命、蛇にとっては絶好の好機だったはずだ。何故見逃した?
「奴は何処です?」
「分からん。私が目覚めたらこの辺りにいた」
「おかしいと思いませんか? さっきの状況なら奴は我々を潰しておくべきでした」
泰若は疑問を師にぶつけた。
「それは私も思っていた事だ。確かに不可解だな」
「蛇がわざわざ私たちを見逃すような事をする理由は思い当たりますか?」
「いや、分からんな。だが所詮は物ノ怪。人とは考える事が違うのだろう」
師の楽観的な物言いに泰若は呆れた。ともかく歩き出そうとする。が、違和感に襲われ、足を止めた。
「どうしたのだ」
「今なんと仰いました?」
「む? 所詮は物ノ怪と」
「貴方は今日、『戦うのは物ノ怪だ。だが、決して油断するな。奴は人よりも賢い』と仰ってました。矛盾するのでは?」
師の顔を見つめながら泰若は言った。本当の東行ならば、開き直って色々とまくしたてるだろう。だが、東行は微笑みを見せただけで何も言わない。
泰若は咄嗟に距離をとり、懐から取り出した
「ぐはぁ!」
妙な呻き声とともに東行の体は崩れ、蛇が巨体をあらわした。泰若の思ったとおり、蛇が師の姿に化けていたのだ。
「一体何のつもりだ!」
念じて像を前に出しながら、泰若は叫んだ。
「ちょっと、からかってやっただけだよ」
蛇は無邪気にも思えるような声音で言った。やはり不可解だった。
「
「私も知らんね」
「何故私たちを見逃した?」
泰若は自らの声音に怒りが滲んでいる事に気付いた。自分は真剣に戦っているつもりだ。蛇がそうでないのが許せないと思っているのだ。
「見逃すなどとんでもない。お主たちが想像以上にやりおるせいで、私もいっぱいいっぱいでね。少し休まねば動けなかったのだよ」
確かに蛇の動きはどこかぎこちない。人の姿に化けたり、身を縮めれば回復するということだろうか?
だが、推理している時間はなかった。探し物が見つかったからだ。
前方から人影が走ってくるのに気付いた。
「泰若!」
「阿闍梨!」
まさに東行阿闍梨その人だった。怪我は負っていないようだ。
「今まで何処に?」
駆け寄った泰若が尋ねると、東行は気まずそうに顔を逸らした。
「まさか、逃げていたんですか?」
「……」
沈黙が答えを示していた。しかも弟子を置いて。
「違う。戦略的撤退という奴だ」
「……」
ようやく口を開いたかと思えば、聞き覚えのない言葉を口にした。泰若は呆れた。だが、こんな師でも居なければ目の前の障害を排除出来ない。
「とにかく行きますよ」
「だが、捕らえるのが優先だ」
「そんな事を言っていると二人とも死にますよ。奴がこちらの想像以上にしぶといのは分かったでしょう? 覚悟を決めるべきです」
「しかし……」
問答を続けている時間はなかった。僧二人が揃った時の恐ろしさが分かったのか、蛇の動きは俊敏になった。向こうにも余裕はないのだ。
「阿闍梨!」
「分かった。捕らえられなかったとしたら、滅ぼそう」
それが師の妥協点らしい。泰若は徒労感を覚えた。頼もしく思っていた師が、今日一日で小さく見えるようになった。泰若はこの男に失望していた。だが、そんな事を感じていられる時間も長くはない。
「正気か?」
戦いながら泰若が伝えた作戦に東行は驚いていた。泰若は笑って頷いた。
「もう一か八かしかないです。他にいい案が?」
東行は首を振ると苦々しそうに嘆息した。
「お前は虚弱な男だと思っていたが、中々どうして肝が据わっとる。これじゃどちらが師なのか分からんわ」
「では行きましょう」
二人で真言を唱える。
「
先程出した像だ。だが、先程よりも変形する早さは倍以上も早い。僧二人がかりならば天部の像を一瞬で出現させるのも難しくはない。
蛇に大きな損傷はない。そもそも期待していない。期待したのは最初に
「行きますよ!」
複雑な印を師と共に結び、真言を唱える。今まであまり上手くいった試しがない唱行だった。ひとつでも間違えば、全てが台無しだ。
泰若の額からも東行の額からも汗が滴り落ちる。ようやく真言を唱え終えた。
「
明王を飛ばし、天部からいきなり菩薩へと変じるというのは、本来ならば不可能だ。だが、
「そう長くは保たんぞ」
東行が荒く息を吐きながら言う。気力・体力、共に限界のように見える。だが、それは泰若も同じだった。それを承知の上で言った。
「でも、やるしかありません」
「無茶をいいよる……」
「やらねば、死が待つだけです」
「これなら、いっそ死んだ方が楽かもしれんな」
二人でさらに真言を唱える。それは長く、果てしないかのように続く。蛇はそれを好機と見て、体勢を整え、近付いてくる。
蛇の接近に気付き、師が慌てた様子を見せる。泰若は集中するよう促す。だが、唱行の際、無防備になるのは確かなのだ。
師と向き合いながら唱行を続け、泰若は昔師に教わったとっておきの集中法を行ってみた。それは目を閉じることだった。あらゆる一切を遮断し、仏と一心同体になる。それが我が宗の作法。
師が同じ動きをしたかどうかは分からない。だが、泰若は新たな仏が形を成したのを感得した。
「
その名の通り、千の手を持つ
さらに
武器を握った手で蛇を攻撃し、後方へ弾き飛ばすと、さらに
泰若は師と集中し、再び念じ始める。千手観音像はその動きに呼応し、なんとあらゆる持物を手から捨てた。
密教僧二人は、観音菩薩像のその力に期待した。長くは維持出来ないが、とにかくしぶとい蛇の弱点をこの観音像で探るのが目的だった。
あらゆる映像のイメージが泰若の中に流れ込んでくる。
本来ならこのイメージを身に受けるのは東行のはずだった。だが、体力の限界を悟った師は弟子にこれを任せることにした。泰若はそれを当然のことだと受け取った。師はもう、第一線で戦い続けられるような身も心も持ち合わせていないのだから。
「泰若!」
東行が焦った声を出す。「分かっています」と答え、さらに師に指示を伝えた。
「これで最期です」
また真言を唱える。体にかかる負担が限界を越し、二人は唱行しながら血を吐いた。袈裟を血の色に染めながら泰若は笑った。戦いとはなんとも惨いものだ。だが、そこでしか味わえないものがあるという事に気付いていた。
「小癪な人間ども……」
体から血を流しながら蛇が迫る。鱗が剥げ落ちただけではなく、遂にその身を攻撃が貫き、文字通り、血塗れの形相になっていた。
だが体から赤く流れる血は、むしろ蛇の旺盛な生命力を感じさせた。
「何をやっても、私には通じぬぞ! 諦め、さっさと新しい供物を捧げるのだ!」
「貴様に相応しい伴侶をくれてやる!」
泰若は思わず叫んだ。真言は唱え終わっているから、像の変形に影響はない。
「死だ!」
「
何とあらわれたのは菩薩でなく、菩薩よりひとつ下の尊格である明王だった。だが、その像は明王にしては異様だった。
憤怒の形相ではなく、菩薩の慈悲の顔を備えていた。ちょうど
その明王は特にこれといった持物は持っていない。だが、奇妙な事に
蛇は動きを止めていた。思っていた通りだ。蛇がこの像の正体を知っているとは思えない。だが、蛇の本能がこの像を恐れさせるのだろう。
動かない目標に向かって、
何度攻撃を受けても、その度に立ち上がり向かってきた、それが蛇の最後だった。
「一体これは何なんです?!」
死力を尽くして蛇神と戦い、これを退けた泰若は村の英雄とされてもおかしくなかった。
だが、戦闘後に泰若に待っていたのはその活躍に相応しくない仕打ちだった。疲労困憊のところを、老人たちに捕縛されたのだ。
「見ての通りだよ」
言ったのは師の東行だ。こちらは泰若とは反対に手厚く介抱されていた。
「お前は
「何を根拠に?!」
「言われねば分からんのか」
東行は呆れたように弟子を見た。
「蛇を捕らえると伝えた時、お前は酷く動揺したな。そして捕縛した時、あろうことかわざと手を抜きおった。おかげで死ぬところだった」
指摘されてから、泰若は気付いた。意図的にそうしたのかは分からない。
だが、仇敵との対決に水を差され、集中を欠いたのは事実だった。
いや、違うのかもしれない。本当はもっと戦いたかった。だから指摘の通り、
「身に覚えはありませんが、未熟者ですので、至らない事は多々あるかと思います」
「黙れ!」
東行は大声で怒鳴った。凄まじい形相で、泰若を睨みつけてくる。師にこんな一面があったのかと泰若は驚く。怒られる事はあっても、こんな風に憎しみの目を向けられた事はなかった。
「認めたくはないが、貴様は戦闘僧としては頭抜けた技量の持ち主よ。その歳で、もうわしよりも強いかもしれん。そんな奴が謙遜などするな! わしは誤魔化されんぞ!」
言われて泰若の中で、師への失望が強まった。認められても、ちっとも嬉しくなかった。師はこんなに小さい男だったのか。
「私が過失を犯して、罰を受けるのは分かります。ですが、それは何ですか?」
泰若は顎をしゃくった。
そこでは老人たちが動き回り、泰若たちが倒した蛇に寄り集まっている。その体を解体しようとしているならばまだ理解できる。だが、老人たちの手つきは慎重で労わっているようにさえ見えた。
「この蛇はな、我らが預かることになった」
「何ですって?!」
「この村では邪神だったが、これからは我らの守り神となってもらう」
「何を馬鹿なことを! そいつは人を喰らい続けてきた物ノ怪なんですよ!」
「そう、そこに価値があるのだよ」
東行はにやりと笑った。
「この村では
泰若は唐突な話に言葉を返せない。東行は構わず続けた。
「分からんのか? 我が宗、そして戦闘僧には金が必須なのだ」
やけに攻撃を
「金は人を食べさせなければ生まないんでしょう? それはどうするんです?」
「簡単な事だ。喰わせればいい。人など幾らでもいる。だが、金はそうはいかない」
「何を……言ってるんです?」
「もう邪神が幅を利かす時代ではない。古の神は調伏されるか、仏に成り代わるかしかない。幸い、この蛇の存在に気付いているのは我が宗だけだ。これからは我らが飼ってやるのだ」
「そんな事が……。ご老人たちは納得しているのですか?」
泰若は呼び掛けた。
「東行さまが買い取って下さるというのでな。これで我らも安泰というもの」
老人たちは皆んなにっこりしていた。蛇に対していきりたっていた先程の態度はどこへやらだ。
「安泰も何も、村は生け贄を差し出し続けて崩壊しているじゃないですか!」
「黙れが
爺の戯言を聞きながら泰若は悟った。この蛇を真面目に倒そうと思っている者は自分しかいなかったのだ。
爺共は我が身可愛さに生贄を捧げ続け、自分が力をつけた宗も、結局は蛇を利用する事しか考えていなかった。乾いた笑いが泰若の中にこみ上げた。
「ついでに良いことを教えてやろう」
意気消沈する弟子に東行が言った。
「我らに必要なのは金だ。しかし、ただの金では駄目なのだ。希少な
「どういう事です?」
東行は酷薄な笑みを浮かべた。それは泰若の知らない師の表情だった。
「この蛇の生む金こそが
泰若は絶句した。
自分は今まで一体何をしていたのか。この男の弟子になり、厳しい修行を積んで、怨敵を調伏する僧になった。それは少なくとも善い行いだと思っていた。だが、それは根底から覆ってしまった。
「……物ノ怪だ」
「何だと?」
泰若の呟きに、東行が首を傾げた。
「物ノ怪はこの蛇だけじゃない! 貴様らもだ! 貴様らこそ物ノ怪だ! 生け贄だけでは飽き足らず、まだ人の命を欲するとは! 貴様らは人間じゃない!」
「小童! それ以上の侮辱は許されんぞ!」
「いやいや、全くその通りだよ」
突然辺りが暗くなった。上を見上げると、捕縛したはずの蛇の姿があった。先程まで蛇が置かれていた場所には、縄があるだけだった。いや、縄の中に殻のようなものがあった。蛇は脱皮して抜け出したのだ。
一同が驚愕していた。今、蛇に対抗できる者はいなかった。
「お主らの心の汚れが、自らの破滅を招くとも知らずに呑気なものだ。生まれ変わっても、私は絶対人になどなりたくないね」
蛇神の尾が、その場の煩悩すべてを薙ぎ払った。
今度こそあの世に行ったかと思ったが、体に痛みがあるのは妙だな、と泰若は思った。というか苦しい。何故か体が圧迫されていて、そこから逃れようともがくと、視界が開けた。そこは先程の境内だった。自分は生きているのだ。
見回すと、老人たちと師の骸が転がっていた。こいつらに自分は押し潰されていたのだ。数多の死体を目の前にしているのに、何の感慨も抱かない自分に泰若は気付いた。それも当然だった。死ぬべき人間が死んだだけなのだ。
自分は唯一の生存者らしい。衝撃で拘束は解かれていた。さすがに無事ではなく、あちこちに痛みが走り、出血もしていた。動くのは難しそうだ。さらに命綱のはずの金輪も頭から消えていた。もう仏像は動かせない。
周囲を見回すと、少し先に蛇神の姿が見えた。というより、動いた泰若に気付いたらしく、その目がこちらを向いていた。蛇がゆっくりと近付いて来る。
再びの窮地。だが、泰若は逃げる気力もなかった。何もかもどうでも良かった。自分は何もかも間違えた。死力を尽くして蛇神に挑んだのは良かったが、完全に敗北した。あとはその結果を受け入れるのみだ。
倒れた状態の泰若の目前まで来ると、蛇が口を開いた。
「しぶといやつだ」
「貴様には負ける」
「確かにな」
まるで友人のように軽口を叩き合った後、妙な沈黙が流れた。
「どうした? 殺さんのか?」
「ああ」
「何故だ?」
泰若は体中が痛く、さっさと楽になりたかったが、蛇の答えは残酷だった。
「お主が手を抜いたおかけで、私は助かったようなものだ。お主はいわば恩人なのだよ」
「貴様までその話か……」
泰若は頭を抱えたくなった。
「あれだけやられても、私を恩人扱いするのか? 確かに私は油断した。そして貴様にやられる隙を作った。その結果がこのザマだ。さっさと殺すがいい」
蛇は笑い始めた。泰若は訝しんだ。
「何がおかしい?」
「さっきのは冗談だ。神たる私が人間に恩など感じると思うかね?」
「貴様……」
「本当の事を言おう。貴様は死を怖がっていない。むしろ死にたがっている。だからこそ、私は殺さぬのだ」
「何だと?!」
「人間の世界では屈辱、とでも言うのか? 憎き敵に情けをかけられるというのは。そうしてみよう。それが哀れなお主への、私からの贈り物だ」
泰若は
「私を殺せ、邪神よ! さもなければ貴様を殺す!」
泰若は支離滅裂な事を叫んでいた。
「やってみるがいい。おっと、お主ならやりかねんから怖くなってきたぞ。今は無理でもな」
「貴様!」
蛇は高笑いした。
「さらばだ、泰若とやら。恐ろしき僧よ。次に会った時、お主は私を殺すだろう。だから、もう二度と会うことはない」
言って、蛇は遠ざかっていく。
もう邪神を遮る結界もない。蛇に勝利したと思った東行が、解くように指示を出したからだ。
「待て! 行くな! 戻って来い! 畜生……いつか必ず殺してやるぞ! 私から逃れられると思うな! 地の果てまで追い詰め、何時か必ず貴様を亡き者にしてやる……!」
泰若の呪詛はしばらく続いた。
その後、泰若は泣きに泣いた。悔しさと屈辱感で涙が溢れ、顔がぐしゃぐしゃになった。痛みと敗北感が心身を支配した。
自分だけ生き残り、あろうことか、憎き敵に情けまでかけられてしまうとは。泰若は文字通り生き恥を晒していた。これ以上、惨めな思いをする事はないと思った。
蛇神の行方は誰も知らない。
Stain Of Mind 百済 @ousama-name
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